灰燼に帰す想い
⑤
「馬鹿にしているのか」
彼女の話を読み終わった出版社の男の、第一声だった。
そのとき彼女の目が少しだけ潤んでいたのは、それだけ真剣に挑んでいたからだろうと思う。
⑥
「あれは、私の話だったんです」
出版社の帰り、彼女はしばらくの間口を閉ざしたままだったが、不意にそう切り出した。
「どういう意味だ?」
「不幸な主人公が、不幸に死んでいく話です」
返す言葉が思いつかなった。
昨日はあの小説にどういう意味があったのか、どんな思いを込めて書いたものか理解出来なかったが、やっと腑に落ちた。そうだ、あれはまるで、雛木紫蘭の生涯を描いたような話だった。
ルームミラー越しに、俺は彼女の瞳を覗く。そうしていると何故か、彼女の小説の一節を思い出した。
――不幸な人生を送ってきた主人公は、結局最期まで報われることなく不幸に死んでいきました。
……この女の子みたいに?
「あの話が、沢山の人に受け入れられるものでないことは分かります。それでも私は、残してみたかったんです。私のような人間がいることを、誰かに知って欲しかったんです」
「……遺書代わりのつもりだったってことか」
⑦
「何処でもいいので、とにかく車を走らせ続けてくれませんか」という雛木の要望通り、俺はアテもなく車を走らせ続けた。
日が暮れて辺りが闇に包まれたタイミングで、運転に疲れた俺は近くの運動公園の駐車場に車を停めることにした。
「あそこのコンビニに行ってきます」とぱたぱた歩き出した少女のことを考えながら、俺はセダンを背に煙草を吹かしていた。
近い内にこの手で殺す女を相手に、気を許し過ぎなのではないか?俺の中でそんな葛藤が渦巻いていた。
「し、時雨さん!少し付き合って下さいっ」
二十メートル程度離れたところから、雛木が気恥ずかしそうに少し声を張って言った。
午後十九時の公園は人だらけで、彼女の肌の白さと、長い髪の揺らめきを際立たせた。
グラウンドの隅に着くと、彼女は鞄から例の原稿用紙を取り出し、しゃがんでそっと地面に置いた。
「いいのか?」
これから彼女が何をしようとしているのかは大方見当が付いた。
「はい」
彼女は右手に持った着火ライターを原稿用紙に躊躇なく近づける。すぐさまカチッという音と共に、彼女の生きた証になる予定だった“不幸話”が燃え始めた。
「四年かけたんだろ」
その場に座り込んで、俺はまた煙草に火をつけた。
「どの道私は人生の大半を捨てることになるんです。たかだか数年くらい、なんてことはありません」
「万が一に売れたとしたら、どうするつもりだったんだ」
「どうもしませんよ。私の遺書が少しだけ有名になるだけです。これを持ち込んだのは、あくまで作品としての価値を測るためだったんです。こう見えても私、夢とかあったタイプなんです。あれでも本当に、真面目に書いたんですよ」
達観的な目で燃え立つ炎を眺める雛木の横顔は、それでも切なさを隠しきれてはいなかった。
「才能がないというのは、軽率な発言だった。初めから遺書のつもりで書いたと知っていれば、あんな風に酷評したりはしなかったし、また違った感想になったかもしれない」
贔屓目なしで見ると、確かに彼女には作家の才はないかもしれない。だがそれは、突き詰めるともっと根本的な話だろうなと思う。彼女が雛木紫蘭であるが故の性質が、彼女を彼女たらしめる全てが、あまりにも歪み過ぎているのだ。
大衆性を獲得する為に、得てして大衆性が必要だとは思わないし、寧ろ、何処までも理解し難い一人の人間の苦心の結晶こそが、思いもよらぬ形で支持を得たりするものだと思う。だとしても、彼女の場合は度が過ぎている。水と油が決して交わることのないように、彼女とそれ以外の人間の間に、果てしない溝があるように思えた。
「慰めてくれるんですね」
「言葉の解釈は人の自由だ」
「優しいんですね」
小鳥の囀りのように心地のいい微かな笑い声だった。
「優しい人間は人を殺そうと思い立ったりしないさ」
「善悪なんて、そう簡単に線引き出来るものでもありませんよ。極悪人の救世主だっているんです。時雨さんが他の誰かにとって非道な人殺しだとしても、私にとっては優しい人殺しなんです」
「まだ殺してないけどな」
久しぶりに心から笑えた気がした。笑ったといっても、ほんの僅かばかり口角を上げただけなのだが。
「それもそうですね」
彼女は俺が相好を崩したことについて、いつもの調子で茶化すことはしなかった。 俺はその気遣いを有難く思った。
⑧
一歩づつ、小さな歩幅で近づいていく彼女との距離を、俺はあくまで気付いていないという体でいなければならない。
雛木紫蘭という女の子が笑っているとき、やすらいでしまうほうの俺は、彼女を殺すと決めたほうの俺の為に、適切な距離感を保ち、決して踏み込みすぎてはならないのだ。でないと今まで保ち続けた均衡が崩れ、何もかも駄目になってしまう。
だがいずれ俺は選ばなければならない。どちらの俺を採るのか、決断を下さなければならない。
その選択によって、彼女が書いた並行世界の話ように、これからの行く末が分岐していくのだろう。
もし“こっちの俺”を選ぶことが出来たのなら、いつの日にか、俺と彼女に笑える明日が来るのだろうか。
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