歪んでしまった人
①
布団がもぞもぞと膨らんでは萎み、それからしばらく静止したあと、のそっと起き上がった彼女は、覚醒途中の半開きの目をこすると、大きく欠伸をした。
まるで自分の家にいるかのようなリラックス具合だ。
「起きたか」
「おはようございます」
「まだ夜だ」
「え?」
彼女は間の抜けた顔で窓の外を見た。
「あぁ、ほんとだ」
こんな調子で平気だろうか。奔放な彼女の振舞いに俺は憂慮していた。
雛木と俺は言わば運命共同体なのだ。元より泥船に乗るつもりでいたのは確かだが、まさか船員がここまで頼りないとは。
「あぁ……」
とにかく酔いを醒ましてもらわないと困る。俺は冷蔵庫から透明なペットボトルを取り出し、彼女が座るベッドの横に投げる。
「喉が渇いただろ」
「ありがとうございます。でも投げるのはよくないと思います」
俺はロングヘア―の少女を睨んだ。
「その顔かわいいです」
こいつ相手に威圧しても無駄だな……。俺は諦めるように大きくため息をひとつ吐いた。
「明日からは動くつもりなんだろうな?」
「はい。もちろんです。今日は時雨さんと距離を縮めたかったんです。だからその……決してだらけていた訳ではっ」
きりっとした口調でそう言い切った彼女の頬は僅かに緩んでいた。
「顔に出てるぞ」
「さあ、何のことでしょう」
いたずら好きな子供のような微笑みだった。
「で、具体的に何をするんだ? やり残したことといっても色々あるだろ」
「そうですね。いくつかありますが、初めの手順は今すぐ履行出来ることです」
「ここでか?」
「はい。今ここでです」
彼女は腰を上げて玄関前に置いた自分の鞄から分厚い原稿用紙を取り出した。
「これを、時雨さんに読んで欲しいんです」
「……小説か」
「はい。私が四年間かけて書いたものになります」
何故彼女の小説を読むことが「やり残したこと」を片付けることになるのか、理由を問わずとも、俺にはそれとなく理解出来た。
②
底に穴が空いた器のような話だった。今まで感じたことのないようなその読了感は、俺を退廃的な気分にさせた。
その物語では、現行世界と並行世界が交錯しているという設定だった。
ある日、現行世界を生きる主人公が、並行世界で生きていた自分と出会う。
顔や背丈こそ同じだが、彼らには著しい格差があった。それは幸福であるか不幸であるか、愛する人がいるかいないかという決定的な相違点だった。
幸福なほうの自分は、不幸なほうの主人公を哀れみ、 懇切丁寧に泥船からの脱出の手解きをし、自身の運命の彼女であるヒロインへのアプローチを提案する。
しかし現行世界のヒロインは現行世界の主人公を受けいれるどころか、拒絶するだけで、遂には結ばれることはなかった。
物語の佳境に入ると、現行世界の主人公は千歳溜め込んだ鬱積を開放し、嫉妬と憤懣に身を任せて並行世界の自分を殺してしまう。
最終的には、その行為によって世界の均衡を乱した現行世界の主人公も消えてなくなるというオチだった。
「一体これはどういうつもりで書いたんだ?」
読み手が楽しめるかどうかなどお構いなしに、初めから最後まで、ただ坦々と主人公の悲惨な生涯が描かれるだけの小説だった。駄作だと思ったし、作品を通して何を伝えたいのかが理解出来なかった。
この話を読んで残るのは、精々遣り切れない現実感くらいのものだ。
「コンセプトは何かという意味ですか?それなら――」
「いや、そういう話じゃない。真面目に書いたのか、誰かに読まれることを考慮して書いたのかと聞いているんだ。この小説は、あまりに独りよがりすぎる」
「勿論、書きましたよ。自分以外の誰かがこれを読んだらどう感じるだろうって考えて書きました」
「本当に読み手のことを考えてこれを書いたっていうんなら、はっきり言って才能がないと思うぞ。少なくとも、売れる本を書くという面においてはな」
「知ってますよ」
いつもの調子で艶やかに微笑む彼女の態度が癪に障る。
「じゃあ……お前は、何を期待して俺にこれを読ませたんだ?」
語気を強めて俺は言った。あの小説も、この女も、何を考えているんだか分からなかった。彼女は蕭然と虚空を見つめるだけで、何も言わなかった。
③
「まあいいさ。とにかく……これで一つ終わったということでいいだな?やり残したことという割には随分あっけない気はするが」
「いや、そういう訳でもないです。明日、その原稿を持って行きたい場所があるんですよ」
嫌な予感がした。同情心に駆られている訳じゃないが、そこまで自分を痛めつける必要はないんじゃないかと思った。
「出版社にでも持っていくのか?」
「よく分かりましたね」
「……大体予想はつくさ。だが、大前提として、今時持ち込みなんて受け付けてないだろ」
「意外とそうでもないんですよ。まあとはいっても私の望みはその場で読んでもらうことなので、現実的でないことには変わりありませんけどね」
「だが仮に……あー……」
運よく読んでもらえたとしても、 扱き下ろされるだけだろうに。そんな言葉が頭に浮かんでも、俺は何故か言い出せなかった。
「……そいうことなら俺にどうこういう権利はないし、勝手にすればいいさ」
「勿論時雨さんにも付いて来てもらいますからね」
「あぁ、分かってる」
現実を見せつけられるのは、得てして残酷なものだ。
やろうと思えば一人で出来ることなのにも関わず、増援を要求するのは、彼女も大方、理想的な展開にはならないと分かっているからだろう。
足の骨が折れて歩けなくなったときの添え木として隣に誰か居て欲しい。そんな彼女の弱さを間近で感じると、どうにも揺らいでしまいそうになり、また、そんな自分について、俺は無性に苛立っていた。
④
「時雨さんは、こう思ったことがありませんか? “あのときこうしていればよかった”って」
翌日、俺達は県外の出版社に向かっていた。煙草の匂いがこびりついていた中古のボロセダンは年頃の女の子には随分不評だったが、そんなの知ったことでもなかった。
「さあな」
「時雨さんにはなくても、私にはそう思うときがあるんですよ。確かに後悔していることはあるけど、それはもう過去の話で、今更どうしようもない。私はそう割り切ることで、並行世界の自分と現行世界の自分との対比に折り合いをつけてきたんです」
並行世界の自分がどうしているかなんて、今まで考えようともしなかった。もし俺が上手くやれていたら、殺人を企てるほど堕ちることもなかったのだろうか。
「それでも私は、どうしても、焦がれてしまうんです。笑えた世界の話が、自分を、世界を諦め切れなかった場合の未来が、愛おしく思えて仕方がないんです」
「お花畑なたらればだな。俺達は別に、たまたま運悪く落ちぶれた訳じゃない。なるべくしてこうなってるんだ。あのときこうしていればなんて、結局のところ単なる幻想に過ぎないだろ」
俺は眉間にしわを寄せて、自分に言い聞かせるように言った。
彼女の主張を認めてしまったら、努力次第では報われる未来があったのだとしたら、それこそついに、自分が馬鹿らしく思えてしまう。
自身の怠惰が原因の不平不満を、無関係の他人に当てつけようとしている俺が、滑稽すぎるじゃないか。
「本当に、そう思いますか?」
ルームミラー越しの雛木の真剣な眼差しを見て、俺は返答に窮してしまった。笑える明日は、満たされた何気ない日常は、本当に単なる幻想だろうか。どれだけ手を尽くしても届かない、雲の上の理想郷だったのだろうか?
「違うな」
彼女相手に、今更着飾る必要はないだろう。そして俺自身にも、もっとオープンに、リアルに対峙するべきときなのかもしれない。
たとえ天文学的な確率でしか掴めない希望だとしても、俺にだって、あるにはあったのだ、笑える明日ってやつが。ただ……。
「認めたくなかったんだ。やりよう次第では、報われる未来もあっただなんて」
何を選んでも、どれだけ足掻いても、この先に光はない。そう考えていたら、楽だった。
自分のせいじゃなく、運命のせいにすれば、自分のことを負け犬だと認めずに済み、聡明な現実主義者を気取っていられる。故に俺はこれまで、幸せの泡沫に気付かないふりをしてきたんだ。
「……今思い返せば、あそこが、分岐点だった。あのとき差し出された手を掴んでいれば、きっと救われた。あの話は、そんな想像から生まれた話なんです」
「その割には、随分悲惨な結末だった。あれじゃ誰も救われない」
「不幸話で救われる人もいると思うんです」
錆びついたような顔で、彼女は窓の向こうに視線を投げた。
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