第8話 絶望と希望

オルドリッジ王都。

そこに住まう貴族、グリント家。私はグリント家の三女として生を受けた。


グリント家は代々魔法の才に恵まれており、長女のローズ、次女のシャロンも例に漏れず高い魔法適性をもって生まれてきた。

どれほどの才かと言うと、六歳の頃にはすでに上位魔法を使いこなしていたほどだ。


一家では子が六歳になると初めての魔法行使という通過儀礼的なものがあるのだ。ローズもシャロンもそこで上位魔法を披露してみせた。

親族はみな次代の人類を支えるのはこの子たちだと囃し立てた。


三女として生まれた私も、当然みなが期待した。

長女、次女は天才だった。この子にも必ず才能がある、そう信じて疑わなかった。


――が、私は上位魔法はおろか、下位魔法すら使えなかった。


今でも鮮明に思い出せる。

肩を落とす姿、溜め息、落ちこぼれ、役立たずと非難する声。


私はグリント家における汚点、落ちこぼれで役立たず。だからお母様もお父様も私よりお姉様たちをかわいがった。当然お姉様たちも私を見下す。

家族はみな、私に構うことはなかった。気紛れに罵倒し、ストレスの捌け口に使うだけ。




ただ、こんな私にも親切にしてくれる人がいた。

住み込みでお手伝いをしているおばちゃんだ。私は暇さえあればおばちゃんのところに行っていた。


おばちゃんは私の話を聞いてくれたり、楽しい話をしてくれたり、時には簡単なお菓子やカフェオレを作ってくれることもあった。

私はおばちゃんが作るカフェオレが大好きで、見様見真似で再現しようとしたのだが幼い頃の私にはあの甘さの正体が何なのかわからずブラックで飲んでしまうこともあった。


ともかく、私にとって唯一の心の拠り所がおばちゃんのいる場所だったのだ。




しかし私が一〇歳になったある日、おばちゃんは家を去ることになった。

解雇、つまりクビだ。


それを知った私は急いでおばちゃんの元に向かった。


「リーゼ、つらいね。だけどね、死のうだなんて間違っても思っちゃいけないよ。大丈夫、王都じゃグリント家なんて名が広まってるけどオルドリッジの外に出れば誰も知らない。そこじゃリーゼもただのリーゼルだよ。外には楽しいことがたくさんある、それを知らないままで終わってしまうのはもったいないよ」


私はただ、感情のままに泣くことしかできない。


「家を出るんだよ、リーゼ。家を出て、楽しいことをたくさん見つけて、たくさんして……目を閉じるだけで笑顔になれるような思い出をたくさん作って、それでいつかおばちゃんにそれを話して聞かせてくれたら、こんなに嬉しいことはない。何もたくさん友だちを作れなんて言わないさ、信頼できる友だちがひとりでもできれば勝ち組だよ」


涙は一向に止まろうとしない。

押しとどめようとしても次から次へ溢れ出してくる。


「……リーゼ、ごめんね。最後まで一緒にいてやれなくて」




抜け殻。

何もしたくない。

何もできない。


何も、考えられない。


おばちゃんが去り、私の居場所は無駄に広い自室だけになってしまった。

何も面白くない、何も興味を持てない。


腹が減れば飯を食らい、無為な時間を過ごし、また腹が減れば飯を食らう。そうして陽が落ちれば勝手に眠る。


そんな毎日。


もはや生きているのか死んでいるのかも区別できない。

いや、無駄に食欲が失せないだけ死んでいるより質が悪い。




家を出る、その言葉を思い出したのはどれくらい経った後だろうか。

不意の環境変化に体が慣れだしたのか、思考する余裕が少しずつ戻って来る。


それはどれくらい現実的なのだろう。

逆にどうすれば現実的といってもいいレベルに到達するのだろう。


考えた結果、私は上位魔法を習得することを条件として据えた。理由は二つ、ひとつは単純な自衛的意味合い。もうひとつは上位魔法の習得がイコールで一人前と言って差し支えないと思ったからだ。


一人前であれば独り立ちしても問題ない。

実際にどう転ぶかはわからないが、交渉する材料としては十分。


それから、私のグリント家脱出作戦が幕を開ける。




まず最初に考えるべきは、私は魔法を使えるのかどうか。

六歳の時は全く何もできなかった。それから四年、ただ黙って四年が経っただけで使えるようになるとは思えない。


魔法において最も重要なのは知識。

私に才能がなくても、この家には魔法の才能を持っている人がたくさんいる。だからそのくらいは私でも知っていた。

つまり、理解を深めれば私でも使えるようになる可能性がある。




――最初の一年。

私はただひたすらに本を読むことにした。


グリント家には魔法書を保管している部屋がある。およそ一五〇〇冊、一年かけて私はそれを全て読んだ。

一冊に割く時間はおよそ五時間。分厚いものが多いがその全てに目を通す必要はない、原理について書かれている部分を読みながら理解するだけ。それに内容が被っている部分もあるので徐々に一冊にかける時間も短くなっていく。最初は一日二冊、それが三冊、四冊、六冊……最終的には一日一〇冊読む日もあった。


魔法の理論はほぼ完璧。

あとはその理論を私の体が再現できるかどうかにかかっている。


満を持して私は裏庭へとやって来た。


「っ……」


緊張する。

六歳のあの時以来、私は自分の意思で魔法を使おうと思ったことはない。五年ぶりの魔法行使。


上手く、いくだろうか。


……いや、そんな弱気ではダメだ。絶対に上手くいく、上手くやる。成功させる。


気合を入れ、まっすぐ手を伸ばす。


「……も、“燃えろ”!」


ボッ!


大きめの炎が一瞬目の前で弾けた。


「で……でき、た……できた!!」


やった、使えた。私でも魔法が使えた。

魔法が完全に使えないわけではなかった。


「――何してんの?」


舞い上がる気持ちは一瞬、先ほどの炎のように瞬く間に消え失せる。


振り返ると、そこにいたのはシャロン姉様だった。


「ぇ、ぁ……」


「……何してんの、って聞いたんだけど」


「あっ、そ、の……」


萎縮し答えられない私。

シャロン姉様は私から答えを得ようとするのを諦め、顔をしかめながら鼻を鳴らした。


「……このにおい……リーゼ、あんた魔法使えたの?」


「ぅ、あ……え、と……」


言葉が上手く紡げない。しかし次にまた答えられなければ何をされるかわからない。だから必死に首を縦に振った。


「へぇ……やってみてよ」


「ぇ……?」


「やって、って。使えるんでしょ、魔法。見せてよ」


逆らえない。

逆らってはいけない。


姉の――天才の言葉は絶対。凡人は逆らってはいけない、天才の進む道を塞いではいけない。


私は、震える右手を左手で押さえながら同じようにやってみせる。


「……ぁ、も、“燃えろ”……!」


プスゥー……。


現れたのは焦げ臭い煙。


「ぁ……」


「ぷっ、あっははははははは!!!! な、何それぇ、それがあんたの魔法なのぉ!? あっはははは――」


何故、どうして、何が違う。

さっきと今で何がそこまで違うのかわからない。何故失敗した、どうして発動しなかった。いや、発動はしている。失敗した。


意味が、わからない。


「あ、あんた、魔法の才能は一ミリもないのに笑いの才能だけは最っ高ね! こんな焦げくっさい煙撒き散らすのが魔法とか……くっふふ、あーもう本当に最高!!」


……頭が、パンクしそうだ。

これまで何年もこの声を聞いていなかった。頭が割れそう、心臓が潰れそう、喉が締まる、息ができない。


「――シャロン、下品な声が中まで響いているわ、やめなさい」


不意に呼吸が戻って来る。


「ろ、ローズ姉様、すみません」


「……」


ローズ姉様の冷たい瞳が私を捉える。


「こんなところで、何をしているの?」


「ぁ……」


「姉様、聞いてくださいよ! こいつ魔法が使えるとかいって、焦げくさくて汚らしい煙を撒き散らせたんですよ!! 私それがもうおかしくって」


心臓が痛いくらいに胸を叩いている。

過剰なほどに血液を循環させている。


「……そう。用が済んだならさっさと行きなさい、こんなところで油を売っているほど暇じゃないはずよ」


「えっ……? あ、は、はい、すみません……」


そして、二人は裏庭を去っていった。


残されたのは私と、鼻につく煙の香りだけ。


動かない、動けない。

まるで動き方を忘れたように、ともすれば足が地面に縫い付けられたように。


明るかった日差しはいつの間にか鳴りを潜め、景色は薄暗い色に染められていく。

ようやく、首が動いた。


雲、雨雲だ。

黒い雲が空を覆っている。


ぽつん……。


滴が鼻に触れる。

最初は一滴、しかしすぐにそれはシャワーのように大量に降り注ぐ。


「……ぁ」


自分の声が鼓膜を震わせたことにより、全身が時間の概念を思い出す。


失敗した。


成功したと思っていたのにすぐに失敗した。また嗤われた。嗤われた。嗤われた。嗤われた。嗤われた。嗤われた。嗤われた。嗤われた。嗤われた。


「……――」


だめだ。

もう疲れた。


もう、私は、私の体はもうこれに耐えられない。


馬鹿みたいに開けっ放しになっている口、雨なのか涎なのか判別できない。


震える足が動き出す。

向かうのは家の中ではない。その逆。


敷地を覆うように巡っている柵。

正門の真逆にあたる裏庭側は崖に面している。


私は柵に手をかけ、続いて足をかけようと体重を乗せる。


バキッ!


「あぁっ!!」


柵が折れ、反射的に全体重を後ろにかける。私の体は、綺麗に揃えられた芝の上に倒れた。全身が震えている。


怖い……怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


……呆れる。

生きているのも疲れた、死ぬのも怖い。何だ、これは。何だ私は。


「……は、はは」


笑えてくる。

こんなにつらくて苦しくて、もう何もかもどうでもよくなってしまったのに、それでも死ぬことすらできない。私にはそんな根性も残されていない。


立ち上がり、もう一度、折れた柵に手を伸ばす。




『……いつかおばちゃんにそれを話して聞かせてくれたら、こんなに嬉しいことはない』




足が、上がらない。


「……ぁあ――」


顔面の穴という穴から体液が溢れ出してくる。

止まらない、止め方を知らない。


「ああぁあぁあああぁああぁああああああああああ!!!!!!!!!!」







また、元に戻ってしまった。

また何もできない私に戻ってしまった。


どうすればいいのかわからない。否、どうすればいいのかなんて考えられない。


抜け殻だ、また。




この頃から食欲というものがとうとうなくなってきた。

それはいい、都合がいい。自分で死ねないなら勝手に死ぬ環境になるだけでもずいぶん気が楽だ。


だけど、やはり限界値を超えようとすると私は勝手に何かを貪っている。


結局、死ぬということは簡単ではない。

それならばいっそ、戦争にでも引っ張って連れて行ってほしい。自分ではどうしようもない状況に連れて行ってほしい。




――夢。


ある日、夢を見た。

悪夢は数えきれないほど見たが、それは悪夢ではなかった。


私から少し離れた場所におばちゃんが立っていて、「死ぬな」って、「諦めるな」って、「もう少しがんばれ」って何度も呼びかけてくる夢。


夢だ。

そう、夢。


夢というものにどれくらいの意味があるのかわからない。

もしかしたらあのおばちゃんは、私の本心なのだろうか。もしかしたら、本当はもう少しがんばりたいのだろうか。諦めないで、もう少しだけでもがんばってみたいのだろうか。


ここまでがんばってきて、その全てを捨てたくはないのだろうか。


誰も、助けてはくれない。

自分を助けることができるのは、自分をもう一度立ち上がらせてくれるのは自分しかいない。

あの時と同じ状況になったら、また立てるかはわからない。だけど少なくとも今は、少しがんばれば立てるかもしれない。


気付けば、私はまた泣いていた。




そして、私はまた裏庭に来た。

あの時以来。どれくらい前なのかわからない、多分、二ヵ月ぶりくらい。


無意識に逸る心臓を深呼吸を繰り返して落ち着かせる。


大丈夫、前に試した時も一回目はちゃんと発動していた。だから、大丈夫だ。


「……“燃えろ”」


ボゥッ!


発動、した。

前よりも長い、一瞬では消えずに数秒維持することができた。


もう一度。

同じように発動してみるが、今度は煙すら出なかった。


何故だろう。

わからない。


もしかすると、私のマナ量ではこの程度の魔法を一発撃つとそれだけで空になってしまうのかもしれない。

そう考えるとまた泣きたくなってきた。




しかし、結論から言うとそんなことはなかった。

何が理由なのかはわからないが、私は連続で魔法を使用することができないらしい。その証拠、というわけでもないが数時間置くと中位魔法程度は発動することができた。

だが自分に課した条件は上位魔法の習得。まだ、それは達成できていない。


やはり上位魔法ともなるとマナコントロールが難しく、命令によるイメージの付与も上手くいかない。


ひとまずは日に五回ずつと回数を決め、二時間程度のインターバルを設けつつ練習を進めていく。


晴れの日はもちろん、曇りの日、雨の日も濡れないように注意しつつ屋根のある場所から外に向かって魔法の練習。

毎日欠かさず決まった場所でやっているためお姉様たちの目にも止まるが、あれ以来私には話しかけてこない。たまに遠くから見て嗤っているが、もうそんなことでは止まったりしない。




それから三ヵ月ほど経ったある日。


快晴のもと、私は今日も練習のために裏庭に来ていた。

もうすぐそこまで来ているような感覚はあるのだが、あと一歩届かない。仮に実物の魔法を見せてもらうことができればすぐにでもできる自信はあるのだが、こんな私に付き合ってくれる人はここにはいない。


「……ふぅー」


だから今日も地道に正解を探さなければならない。自分の手で、手探りで。


「“我に従い、全てを焼き尽くせ”! 《炎龍弾》!!」


――視界が赤に染め上げられる。


赤、赤、赤。一面の赤。

炎は龍を象り天高く舞い上がると、ぐるりと回って私の前にやって来た。


「……ぁ、うぁ」


自分で撃ち出したはずだが、炎龍はまるで別の生き物のように私を見つめる。その迫力に思わず尻もちをついた。


「で……きた」


できた、成功した。

上位魔法の行使に成功した。


無意識のうちに私の顔に笑みが浮かぶが、これで浮かれてはいけない。たまたまかもしれないからだ。もう一度やってみて、それで成功したらその時は素直に喜ぶことにしよう。




◇ ◆ ◇ ◆ ◇




廊下を歩いていると視界の端に赤が見えた。

普段の生活で見えるはずのないもの。


「……」


少し気になり、私は窓際に寄って元を探る。


そこには裏庭で座り込むリーゼルの姿が見えた。


「……」




◇ ◆ ◇ ◆ ◇




二時間のインターバル、再び裏庭で同じように試してみる。


炎龍は今度もしっかりと現れた。


「……やった、やった!!」


ようやくだ。約一年半かけて、ようやく私は魔法を克服、上位魔法を習得した。

しかし問題なのは、マナがフルに溜まっている状態だと一発しか撃てないこと。二時間のインターバルの間に回復したことで二発目も撃てたが、これでギリギリだ。


一応の条件はクリアしたが、そもそもこの謎のインターバルを挟まなければ次弾が撃てないというのは致命的。

慣れてくるうちに下位魔法程度であれば連続で撃てるようになったが、それも精々五発程度。それを超えて行使しようとすると、以前のように煙だけ撒き散らすような結果になってしまう。


実戦的な自衛として魔法を使いたいのであればこれでは心もとない。

しかし私にとってはささいな問題だ、これで家を出る交渉材料を手にしたことになるのだ。そんなことは後から考えればいい。


一度部屋に戻り、いつもの習慣で魔法書に今の感情を書き殴る。


『上位魔法習得!』


『準備が整った!!』




翌日。


昨日はあれからお父様と話をする際にどのように話すべきかをずっと考えていた。

最初にどんな言葉を言うか、こう返してきた時に何て返そうか。実際にその通りにできるかはわからない。だけどそれを考えなければ、多分私は何も言えずに言いくるめられてしまう。


……大丈夫、いっぱい時間をかけて考えたし、鏡の前で練習もした。

大丈夫。


そして、私は部屋を出てお父様のもとへ向かった。


「……大丈夫、大丈夫」


言い聞かせるように繰り返す。


部屋の前にたどり着いた。

いつものことと言えばそうなのだが、普段よりもその扉は大きく見えた。


「……ふぅ」


深呼吸、そして扉をノックする。


「はーい」


奥からくぐもった声、お母様だ。

扉が開く。


「あら……リーゼ、何の用ですか?」


「ぁ、の……ぉ、お、父様に、は、話が……」


驚くほどに声が出ない。

たくさん練習したのに、聞き取ることが難しいような声しか出て来ない。


「はい……? 何ですか、もう少しはっきりと」


「ぅ、あ、お、お父様と、は、話がした、くて……」


「……はぁ」


わかりやすいほどの嘆息。

しかし、お母様は扉の前から体をずらし、中に入るように手で促した。どうやら何とか聞き取ってもらえたようだ。


「ん、どうした?」


「リーゼからお話があるそうです」


「何……? ……どうした、リーゼ。話とはなんだ」


わざとらしい取り繕い方。いや、取り繕ってすらいない。「面倒くさいからさっさとしろ」という感情がこれ以上ないほど透けて見えている。


「……そ、の……ぃ、家を――」


「――リーゼ、もう少しはっきり話せないのか?」


心臓が痛い。


「い、家、家を、で、出たぃ、のです……」


「……何? 家を出たい? お前がか? はっははは――」


嗤われた。


あぁ、この声を聞くと体の芯から全身がどす黒く染まっていくような感覚がある。これはよくないものだ。知っている。


――コンコン。


不意にノックの音が響いた。


「はいはい……あら、ローズ。ごめんなさいね、今はリーゼが……」


「……では、中で待ってもよろしいですか?」


「ローズがそれでよければどうぞ」


どうやらローズ姉様もお父様にお話があって来たらしい。


「大体な、リーゼ。家を出たいなんてことは上位魔法が使えるようになってから言うものだ」


「っ、つ、使え、ます……」


「ははっ、リーゼ、嘘はよくない。お前は下位魔法も満足に使えないだろう。そんなことでは家を出ても自分の身も守れないぞ。仮にそうなってみろ、お前はグリント家に泥を塗ることになる、それをわかっているのか?」


ダメだ。

また、涙が込み上げてくる。


ここまでやって来て、がんばってきて、諦めないでがんばったのに、結局私は家を出ることもできない。


もっと私に才能があれば違っただろうか、もっと私がはっきりしゃべれていれば違っただろうか、もっと、私に勇気があれば、違ったのだろうか。




「――お言葉ですが、リーゼルは上位魔法を習得しています」




声は、ローズ姉様のものだった。


「……今、何と言った?」


「リーゼルは上位魔法を習得している、と。それは私がこの目で確認しました。リーゼルの言葉に嘘はありません」


「……」


お父様は黙り込み、そして苛立たし気に息をはいた。


「……なら、勝手にしろ。その代わりお前は二度とうちの敷居を跨ぐな。どこへでも行けばいい」


正体不明の涙が溢れて止まらない。


私はわけもわからないままお父様に頭を下げ、ローズ姉様の脇を通り抜けると自分の部屋に向かって走った。


途中でシャロン姉様とすれ違い、何かを言われた気がするがそれも聞こえていない。無我夢中、理解できない感情が雪崩のように押し寄せてくる。感情が飽和していて何が何だかわからない。


部屋に戻り、ベッドに潜って私はまた泣いた。

感情をはきだすように泣き続けた。


……やがて泣き疲れ、放心状態にも似た感覚が襲ってきた時、部屋の扉がノックされた。


私の部屋にやって来るような人はいない。

誰だろうか。


不審に思いながらもゆっくりと扉を開ける。

扉の先に立っていたのはローズ姉様だ。


「持っていきなさい」


そう言って渡されたのはひとつの包み。


「これは、私があなたにできる姉としての最初で最後の矜持よ」


ローズ姉様はそれだけ告げると、私が何かを言う前に扉を閉めてしまった。


一体何を持って来たのだろうか。

包みを開くと、そこには大量の金貨が入っていた。


「ぁ……」


そうだ、忘れていた。

そもそも私は家を出たところで大したお金も持っていないじゃないか。どうしてこんなことを忘れていたんだ。


私は急いで部屋から廊下に出る。

見回すと、まだそこにローズ姉様の姿が見えた。


「ね、姉様!!」


ローズ姉様は、私の声が聞こえても振り返らない。足も止めない。


「ぁ……あ、ありがとうございます!!」


その足音が完全に聞こえなくなるまで、私は頭を下げ続けた。




持っていくものなど大してない。

最低限の着替え、魔法書、それとローズ姉様にもらったお金。


「あ、そうだ……」


家を出る準備を整え、荷物を持って部屋を出る。階段を降り、向かう先は食堂。


「えっと……多分、このへん……あ、あった!」


取り出したのは瓶詰にされているグロース産のコーヒー。正式にカフェオレ、というのかはわからないが、これで作る甘いやつが本当においしいのだ。


どうせここにはたくさんある、荷物にも余裕があるしいくつかもらっていこう。




そして、全ての準備が整う。

ひとり無駄に広い玄関に立ち、呟く。


「……さようなら」


見送りなんてあるはずがない。


重い扉を押し開け、私は外に飛び出した。




さて、今後の行き先だがとりあえずはクリフォードのアリンガムに向かうことにする。そのためには列車に乗る必要がある、差し当たっての目的地は駅ということだ。


駅までは歩いて行けるので特に困ることはない。


問題なく駅にたどり着き、時刻表を確認し改札を抜ける。

アリンガムには夜行列車を使う。本数はそんなに多くないが、ちょうどいいタイミングだったらしい。すでに列車は到着しており三〇分ほどで発車するようだ。


荷物とともに列車に乗り込むと、指定の場所に荷物を詰め込む。


あとはゆったり乗っていればアリンガムまで連れて行ってくれる。

適当に手すさびしながら待っていると、発車ベルが鳴った。


「……」


なんとなしに視線を外に向ける。

夜行列車だ、ホームには親族の見送りらしい人もそれなりに見える。


「……えっ?」


人混みの中、見知った顔を見つけた。


私は思わず席から飛びあがり、走り出す列車の中を進行方向とは逆に向かって走った。

車両から車両、最後尾まで抜けると落下防止の柵を引っ掴む。


「っ、おばちゃあああああああん!! 私、楽しい思い出たくさん作って来るからあああああああああああ!!!!」


もう枯れてしまったのではないか、そう思っていたがそんなことはなかった。

どうやら悲涙と感涙というものは全くの別物らしい。


遠く、ホームに立つおばちゃんにその声が聞こえたのか、微かに頷いたように見えた。


どうしておばちゃんがここにいたのだろう。

もしかするとローズ姉様が……いや、そういえばそもそもローズ姉様は何故私が上位魔法を習得したことを知っていたのだろう。







『――なく、アリンガム。アリンガムに到着いたします。お降りのお客様はお忘れ物のないようお気をつけください』


「んぅ……?」


いつの間に眠っていたのだろう。

というか、今アリンガムと言っていただろうか。


降りる準備をしなければ、そう思い腰を浮かしかけるがそんな大層な荷物ではない。降りる時に手に取ればそれで十分間に合う。


オルドリッジからアリンガムまでは大体二〇時間。私が乗り込んだのは一六時やそこらだ。単純に考えれば今はちょうど昼頃ということになる。

よくここまでぐっすりできたものだ、やはり精神的な疲労から解放されたというのが大きいのだろうか。




無事に列車から降り、駅から出てくる。


「……ほぁ」


オルドリッジとは全く別の景色。それは当たり前なのだが、纏う雰囲気がまるで違う。

オルドリッジは王都ということが大きいのか行き交う人々がせかせかしている印象だが、アリンガムはみなゆったりと時間の流れを楽しんでいるように見えた。


何もかもが新鮮。


――ぐきゅるる……。


「……お腹、減った」


考えれば当たり前。

最後に食べたのは昨日の昼、丸一日何も食べていないことになる。水分は補給しているのでそこは問題ないが、そろそろ固形のものを口に入れるべきだろう。


どちらにせよ今日はこのあたりの宿に泊まることになる、適当に歩きながら宿を探しつつ定食屋にでも入ろう。


そうして見つけた一軒のお店、ピークを過ぎているのか中に客は見られないが営業中らしいのでこっそりと中に入る。


カラン……。


扉につけられていた鈴が響き、店主と思しきおじさんが中から出てきた。


「らっしゃい! ……って、どうした嬢ちゃん、迷子か?」


さすがに子どもがひとりでこんな場所に来るはずがない。結果おじさんの中では私は迷子という設定になったらしい。


「あ、ち、ちが、くて……ご、ごはん……」


やはり、まだ人とは上手く話せない。

言葉足らずから物乞いのように見えたかもしれない。


「なっはっは! 何だそうか、よし、じゃ空いてるとこ座ってていいぞ!」


また嗤われたのかと思ったが、多分そうではない……と思う。


言われるままに適当な席に腰を下ろすと、おじさんはラミネート加工された一枚の紙を持ってこちらに来た。


「んで、何にするか決めたか?」


「ぁ……え、と……」


「ゆっくりでいいぞ、もう忙しい時間も過ぎたからな」


置かれているメニューを開く。

しかし、どれもこれも見たことのない料理ばかり。家で出てくるものより量も多そうだし、飾っていない……何と言うのだろう、言い方は悪いかもしれないが無骨なものが多い。


目で見ただけではどのような味で、おいしいのかどうかもよくわからない。


「ぅ……」


と、おじさんが持っていた紙を私に見えるように掲げる。


「これ、うちのイチオシ。悩んでるならこれにするか? もちろん味は保証するぞ」


でかでかと書かれている文字、「とんかつ定食」。

依然としてよくわからないが、これだけ自信満々なのだからきっとおいしいはず。そう思って私はそれを注文することにした。




待つこと十数分、盆に乗って現れたのは三つの皿。白飯、味噌汁、そして――


「ほい、とんかつ定食お待ち!」


――黄金色に輝く小判型の何か。

どうやらこれがとんかつというもののようだ。食べやすいように切り分けられている。


「い、いただきます……」


「おう」


早速それを一切れ取り、口の中に放り込む。

サクッ、という心地よい音。そして溢れるように湧き出てくる、うまみのこもった肉汁。


「……おい、しい」


「そいつはよかった。あ、これ……このタレつけて食ってみ」


渡されたのは少しとろみのある黒いタレ。においはわずかに刺激的。しかし食べ物にかけるものだ、食べられないわけではないはず。せっかくおすすめしてくれたので一切れにだけそのタレをかけてみる。


サクサクの黄金色にタレが染み込んでいく。

そして、先ほどと同じように口の中へと迎え入れる。


「お、おいしい!!」


雷に打たれたような、とはまさにこのこと。衝撃的、いや、暴力的なおいしさ。

何故だろうか。この不思議なタレひとつでここまで味に変化が訪れるとは思わなかった。甘味、酸味、そしてほんのりとある辛味。おそらくはこのバランスが肝、驚くほどの調和。


「お、おぉ……はっはは! そうかそうか、まだたっぷり残ってるからな。おじさんのことは気にしないで食え食え!」


最初こそにおいに少なからず嫌悪感があったが、すでにそんなものはない。

認識が一気に逆転する。嫌悪だなんてとんでもない、むしろ好んで嗅ぎたくなるほどだ。


おじさんの手が遠慮なく私の頭を撫でまわすが、そんなことは全く気にならない。

それよりもこれだ。このとんかつという食べ物、おいしすぎる。


私はそのまま無言で食事に集中し、あっという間に完食した。


「……ごちそうさまでした」


「おう、おそまつさん」


食事を終え、代金の支払いをするために荷物からお金を取り出す。


「……ん、嬢ちゃんその荷物、一体どっから来たんだ?」


そこまで大荷物というわけでもないが、私のような子どもが持って歩くような量でもない。おじさんの疑問は当然。


「……ぉ、オルドリッジ、から」


「オルドリッジ!? く、国の敷地内じゃなく王都からってこと、だよな……ひ、ひとりでか!?」


お手本のようなリアクション、と言っていいのだろうか。

具体的にどれくらいの距離なのかはわからないが、列車で二〇時間ということは大体一五〇〇から一八〇〇キロ程度。子どもがひとりで移動する距離ではない。


「ま、また何でこんなところまで……」


そう、この疑問に繋がるのもまた当然。

しかしこれに答えていいものなのだろうか。もしかすると、言ったら強制的に送還されるかもしれない。


いや、実質追放されたようなもの。仮に戻されたとしても私があの家に戻ることはない。


「……その、い、いろいろ、あって……家にいると、頭がおかしくなりそう、で……それ、で……」


「そう、か……それで、これからどうするんだ?」


「……」


わからない。何となく描いていた未来図はあれど、その通りに行く保証なんてない。

だから私は首を横に振った。


それよりも、これ以上家のことなんて思い出したくない。

ここに留まっているとおじさんに根掘り葉掘り聞かれてしまうかもしれない。さっさと支払いを済ませて出ることにしよう。


そうして取り出したお金を手に、残った荷物をまとめて立ち上がる。


――不意に綺麗な柏手が店に響いた。


「よし、嬢ちゃん、うちに来るか?」


突然の提案。


「えっ……?」


「もちろん無理にとは言わねえ。けど、さすがに内情まで聞いて『そうかい、そんじゃがんばれよ』ってわけにはいかねえって。俺は独身だし、稼ぎもそこそこあるからな、こう言っちゃなんだが割と都合はいいと思うぞ」


おじさんの真意がわからない。

何故そこまでしようとしてくれているのか。何か裏があるんじゃないかと勘繰ってしまう。


「あ、けど一人暮らしだからな、ちょい部屋は狭えけどそこは我慢してくれると助かる。……どうしてもってんなら……そうだな、広いとこに引っ越してもいいが」


……わからない、けど、おじさんの言葉からはおばちゃんと同じ匂いがした。

優しくて、温かくて、安心する。


「ぃ、いいん、ですか……?」


「おう! つかここまで来てやっぱ今のなしっつったらめちゃくちゃ性格悪りぃじゃねえか。そんなこと言わねえよ」


私は手に持っていた荷物を置き、そして深く頭を下げた。


「じ、じゃあ……よろしく、お願いします……!!」


「……おう」


温かい。

家の外は……この世界は、こんなに温かいもので溢れている。


おじさんとの出会いは、おばちゃんの願いを叶えるための大きな一歩。そう思うと、また涙が込み上げてくる。


大きな手がそっと私に触れる。

顔を上げるとおじさんは人の良さそうな笑顔を浮かべた。


「じゃ、今日から嬢ちゃんは……っと、そういや嬢ちゃん、名前は?」


「あ、り、リーゼル……ぅ、リーゼル」


グリントの名を言うべきか迷ったが、結局それは言わずにファーストネームだけを名乗る。


「リーゼル……じゃあリーゼだな。俺はエイベルだ。つってもこれから一緒に過ごすわけだからな、『お父さん』って呼んでもいいぞ。なんつって、がっはははは――」


「……じゃあ……お、お父さん」


「はは、は……あ、まじ?」




お店はおじさん――もとい、お父さんが個人で経営しているものらしい。

正式な従業員という形で雇っている人はおらず、ピーク時の数時間だけスポットで手伝いに来ている人が数人いるようだ。

私が来たタイミングはちょうど手伝いの人たちが全員帰った後。


「今日はもう閉めるか」


ということで、私は店仕舞いを待ってお父さんと一緒に住居へ向かうことになった。


「……その、ありがとうございます」


改めて礼を述べるが、お父さんは頭を掻きながら苦笑を浮かべる。


「気にしなくていいって。それと、家族なんだ、敬語はやめにしよう」


ここで初めてそれを知った。

家族とは本来敬語で会話をするものではないということ。中にはもちろんそういう家もあるだろうが、一般的にはそうではないらしい。




歩き続けること一〇分、少し奥まったところにある集合住宅に到着した。

二〇四号室、ここがお父さんの――これからの私の家。


入ると少し開けたスペースにキッチン、奥に扉が二つ見えることから間取りとしては“2K”だろうか。ひとりだと多少持て余すが、二人だと気持ち手狭。

私がもう少し大きくなったら別だが、現状は特に問題ないだろう。


「飲み物でも用意するから、適当なところに荷物置いて奥で休んでていいぞ」


「あ、うん」


言われた通りに手近な方の扉を開けて中に入る。

テーブル、ソファ、棚などが置かれているため、こちらが普段メインで使っている部屋なのだろう。つまりもうひと部屋は寝室兼物置、といったところか。


とりあえず部屋の隅に荷物を置き、テーブルの端に腰を下ろす。

すぐにお父さんが麦茶らしきものが入ったコップを二つ持って入って来た。私の前にひとつ置き、ソファに座る。


「あ、ありがとう……」


「おう」


さっきお店で水を飲んだのでそこまで喉は乾いていないが、せっかく出してくれたので一口だけ口をつけた。


「……さて、とりあえず……そうだな。嫌なら言わなくてもいいんだが、リーゼについて教えてもらってもいいか?」


嫌だ、と言うわけにもいかない。

本心を言ってしまえばそれは嫌だ。当たり前だ。


自分はこのように劣っており、虐げられ、挙句捨てられました……なんてわざわざ自分で説明したがるはずがない。


だが、言うべきではある。


「……――」







「――……それで、お腹が空いて……お父さんのお店に」


グリント家について、六歳の頃の出来事、それからここに至るまでの経緯をかいつまんで説明する。

多少飛び飛びではあるが全てを語るにはあまりにも時間が足りない。


全てを話し終えるとお父さんはゆっくり立ち上がり、私のことを優しく抱きしめた。


「……もう、大丈夫だ。ここが新しいリーゼの家で、これからは俺が守ってやるからな」


一頻り優しくさすられていると、不意にあることを思い出す。


「あ……」


「ん、どうした?」


解放され、私は荷物の中からひとつの包みを取り出す。


「……これ、その……姉様からもらったやつ。わ、私はこれから、お父さんにお世話になるわけだから、もらってほしい……」


少し遠慮する風だったが、手に取って中を確認する。


「……っ、い、いや、こんなにはもらえないぞ!」


私も数えてはいないが相応の金額。

しかし私はこのお金に手を付けようとは思っていない。当然苦しくなれば使うつもりだが、いつか、どこかでそういう機会があれば、その時はローズ姉様にそのまま返そうと思っている。


「じゃあ……も、もしも私が欲しいものとかあったら、ここから使って。私は持ってても使わないから」


「そ、そうは言ってもなぁ……店でも言ったが俺も金に困ってるわけじゃないし……」


「でも私、他に何も返せないから……」


「別にそんなこと考える必要ないんだけどなぁ……うーん……わかった。じゃあとりあえず預かっておく。で、生活に必要ないものをリーゼが欲しがった時は、ここから使わせてもらう。それでどうだ?」


二人の中間、落としどころが決まった。


それから、今度はお父さんの話を聞かせてもらった。

面白おかしく、多分私に気を遣ってくれたんだと思う。思い出したくないことを思い出させ、あまつさえそれを語らせてしまったという罪悪感からだろう。


お父さんから聞いた話はおそらく全てが真実ではない。私を笑わせるためにところどころ創作したり脚色したりされたもの。


だけどそんなことは気にしない。


私は久しぶりに、嬉しさから、楽しさから笑った。




――それからあっという間に数ヵ月の時が過ぎる。


お父さんには何もできないからという理由でお金を預けていたのだが、結局お店の手伝いを自分から申し出ることになった。

理由は単純、家にひとりでいても暇だから、出かけるにしても元から外に出るようなタイプではない。よって、時間も潰せてお父さんの役に立てる、店の手伝いという形で収まったのだ。


「――よし、そろそろ閉めるか」


「うん、じゃあ札返してテーブル拭くね」


札というのは開店中、閉店中の札。さっとひっくり返し、布巾を持って端から端までまわる。


手慣れたものだ。

本当は負担の大きい料理を手伝いたかったのだが、火や刃物を扱うのはどうだろうか、ということで接客中心でやることになった。

最初こそ緊張であまり上手に話すこともできなかったが、お店に来るのは常連のお客さんが多くいい人ばかりだったので割とすぐに慣れた。


「終わったよー」


声をかけるとお父さんも向こうから来るところ。

軽く見回して確認を済ませると、二人で揃って外へ出る。


お店は基本的に朝九時から夕方の一七時程度まで開けている。開店は九時からだが、仕込みもあるので六時には来ている必要がある。

今までを考えると早起きだ。しかしそんな生活にももう慣れた。目覚ましが鳴る前に目が覚める。


「……」


帰路を進んでいると、お父さんの様子がおかしいことに気付く。

何かそわそわしているような、落ち着かない様子。


「……?」


しかし特に何を言うわけでもないので私もその時は何も言わなかった。




そのまま家に帰って来ると、私は飲み物を用意して部屋に向かう。


「はい、どうぞ。……それで?」


「ん、な、なに、何が、だ?」


こんなに動揺しているのにそれは通用しないと思う。


「いや、だって話がありますって顔に書いてあるから」


「う、嘘ぉ!?」


嘘に決まっているのだがお父さんは両手でぺたぺたと顔に触れる。


「……」


私が黙って腰を下ろすと、お父さんも観念したように大人しくなる。


「……あー、その、な。何と言うか……ひとつ、リーゼに謝らなきゃならんことがある」


「うん……? 別に私、何もされてないけど……」


「そういう感じのことじゃなくてだな……」


お父さんはしばらく言いづらそうにしていたが、やがてゆっくりと告白する。


「……リーゼの、魔法書の中を見た」


魔法書、私が持って来たのはたった一冊。

半ばメモ、覚え書き的に使用していたため、そこには当然見られたくないものもある。


「なっ、何、で……!」


「すまん!!」


勢いよく下げられる頭。

大の大人が、私みたいな子どもに本気で頭を下げている。これでは、怒りようにも怒れない。


「……ちょうど、何か取り出した後だったんだろうな。飛び出しかけてたから戻そうと思ったんだが、興味本位で見ちまった」


「……っ、すごく、すごく嫌だけど……過ぎたことだから、仕方ないよ」


「すまん……」


これも私にとっては十分重大で事件と言って差し支えないが、本筋はこれではないだろう。


「……それで?」


「……本の中には、走り書きがたくさんあった。もちろん全部に目を通したわけじゃないが、俺の目に一番多く止まったのは『もっと上手に魔法を使いたい』というメモ」


……。


「リーゼ、お前本当は、養成学校に行きたいんじゃないのか?」


「っ……」


当初、本当の初め、グリント家を出てきた時はそれができればいいと思っていた。

アリンガムはあくまで中継地、フォルクマーレで何でもいいから仕事を探して、それで十分なお金を稼いだらルーンベルに行こうと思っていた。

冒険者になればお金に困るようなことはなくなる。


「ルーンベル、オルドリッジから数えてもここらで一番近い冒険者養成学校だ。そこまで深く考えたことはなかったんだが、リーゼがどうしてオルドリッジからわざわざクリフォード方面に来たのか不思議だったんだ。……これなんだろう?」


図星。

とはいえ子どもが適当に描いた未来図の一部だ。どうしてもその通りにしたいだとか、そうでなければ気に食わないなどとは思っていない。


「わ、私は別に、今の生活のままでいい。十分楽しいし、幸せだよ。それにルーンベルって学費もすごい高いって――」


待ってましたと言わんばかり、お父さんは包みを取り出しテーブルの上に置いた。


「――リーゼから預かってたお金、数えてみた。ルーンベルでの二年分の学費、その他諸経費……ほぼぴったりだ」


……ドクン。


「これで金の心配はなくなった。当然俺に金銭的なダメージもないし、もともと俺は金に困ってない。……リーゼが望むなら、ルーンベルで魔法を学べる」


ドクン。


「真実はどうなのかわからんが、リーゼの姉ちゃんはこうして欲しいと思ってるんじゃないのか? だからわざわざ大量で、かつ中途半端な金額を持たせた。姉としての矜持と言って、だ」


ドクン!


……あぁ、さっきからうるさい。

心臓がうるさいほどに高鳴っている。


心臓が……? いや、多分それは正しくない。“血”だ。


グリント家の血が騒いでいる。

お前は魔法を使うべくして生まれ、極めるために生きているのだと叫んでいる。


「どう、したい……?」


幸せなんだ、今のままで十分過ぎるほどに。

これ以上何もいらないんだ。私が求めていたものはここに全て揃ってる。


……だけど、私が本当に求めていたものを、私自身が認識できていなかった。


「……ぃ、いき、たぃ……行きたい!」


本当に、自分のことが何もわからない。

体は喜んでいるのに、心は悲しんでいる。


理解できない感情の乖離、私はまた泣いた。







――あっという間、私がルーンベルに旅立つ日がやって来た。


時刻は朝四時、普段より一時間早い起床だ。

歯を磨き、顔を洗い、そして着替えを済ませる。お父さんに買ってもらったお気に入りの服だ。


鏡の前でしっかりチェックを済ませて部屋に戻ると、お父さんが私の荷物を確認していた。


「大丈夫だって、昨日何回も確認したから」


「そ、そうは言っても何かあってからじゃ遅いだろう。えぇと……これは、ある。あれも……あるな。後は――」


中をまさぐる手が良からぬ方向へ伸びる。


「あっ、そ、そっちはダメ!!」


「ん? あっ……」


引き抜かれた手には私の下着が握られていた。


「お父さんのバカ!!!!」




店に行くお父さんと一緒に家を出る。


約一〇分、いつもの朝と何ら変わらない。いつものように天気がどうとか、温かいだの寒いだの言いながら歩く。


何も変わらない。


そして店の前にやって来た。

お父さんとはここでお別れ。何も一生の別れでもない、長期休暇があれば帰って来る。


「――リーゼ」


振り返る。

朝焼けが眩しい。


「その、何だ……あー……アリンガムは、リーゼの第二の故郷だ。だから、その、何て言えばいいのか――」


十分だ、それ以上何もいらない。


私は手だけでお父さんに屈むよう促す。


「――ん? ……っ!?」


そして、その頬に軽く口をつけた。


「えへ……行ってきます!!!!」


口が触れた頬をさすり、その手で私を見送る。

頬には紅葉型の跡がまだ残っていた。




列車に乗ってフォルクマーレへ、それからバスに乗り換えルーンベルに向かう。

オルドリッジからアリンガムを考えれば何てことない。昼を過ぎた頃にはルーンベルのバス停にたどり着いた。


しかしバスは森の入り口まで。

運転手のおじいさんによると、このまままっすぐに行けば門があるらしい。


何か嫌な予感がするが、戻ろうにも戻れない。

覚悟を決めて森に踏み込む。


薄暗い森、先も見えない。

本当にこの先に学園なんてあるのだろうか、そんな不安が脳裏に過った時、不意に後方の茂みがガサリと音を立てた。


反射的に距離を取ろうと前に飛び出しながら後ろを確認すると、そこには狼に似た獣の姿。


「っ……! 《炎槍》!!」


炎の槍を射出、特に問題もなく獣に命中した。

大きめの荷物を持った状態だ、受け身、着地、どちらも上手くいくはずがなく命中を確認すると土の上にぼてっと落ちた。


「痛ぁ……もう!」


せっかくのお気に入りの服が早速汚れてしまった。

立ち上がり土を払う。


と、薄暗い視界に突然光が降り注いだ。驚いて顔を上げるとその先には門。


「ぁ……」




門を抜けると姿の見えない声のみのアナウンス。

それに従い寮を目指す。


同室となる仲間の名前はマイ・アージェント、ミアーナ・フォゼリンガム。


鍵が残されていることから私が一番乗りだということがわかる。

早速部屋に向かい荷物を下ろす。


「……」


本当ならばここで荷解きといきたいのだが、いかんせんまだベッドも決まっていない。先に勝手に広げては後から来る二人に悪い印象を持たれてしまうかもしれない。


「……ていうか」


私は姉様たち以外の同年代の子と話したことがない。

普通はどういう風に話すのだろう。タメ口……はちょっと失礼かもしれない。他人に言われる分には気にしないが、自分がというのは少しためらいがある。

かといって敬語も距離があり過ぎる。


「ど、どうしよう……」


そもそも何故これを想定できなかったのか。

必然的にぶち当たる問題のひとつだ。対策しておくのが当然。


――コンコン。


「し、失礼しまーす……」


ノック、そして声。

準備ができる前に仲間が到着してしまった。


どうしよう、どうしよう。


とりあえず扉の前で突っ立っているわけにもいかない。まずは座ろう。


廊下からの足音を聞きつつドタドタしながら何とかテーブルの前に腰を下ろす。

そして、扉が開かれる。


「あ、あら、ようやくいらしたのですね」


ああああああああああ!!


な、なんかすっごい偉そうな言い方になっちゃった……ど、どうしよう……。

い、いや、ここでいきなり切り替えるのも不自然。このまま突き進むしかない。


「……あなたはマイさん? それともミアーナさん?」


セミロングの銀髪、吸い込まれそうな赤い瞳。


「マイ、です。マイ・アージェント」




これが、私と天才の二度目の邂逅だった。

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