第10話 複雑な心
「……どうして言ってくださらなかったの。ご存知だったのでしょう? アンネ様のお顔のこと」
二人は小部屋を出て、チューダー侯爵家の庭に向かった。ヘンリックが勝手知ったる足取りでここを選んだ。
あずま屋のベンチに並んで腰掛けている。
屋敷の中と違って、
ユッタは少し離れたところに、ヘンリックの侍従と並んで立っていた。こちらに背を向けて、さも話を聞いていないとでもいうような態度を取っている。
外はすっかり暗くなっていた。きっと星も見えるだろうが、あずま屋の屋根とお屋敷が邪魔で、見ることはできなかった。
主役のヘンリックとステラ、屋敷の主の娘アンネ。彼らを欠いた会場がどうなっているか、考えるとステラはめまいがしそうだった。
「言っていたら、気を付けた、と?」
ヘンリックの声は静かだった。怒っているわけではなさそうだが、いまいち感情が読めない。
「細心の注意を払いました……」
「それは、アンネを腫れ物のように扱うということだろう」
「そ、それは……」
言い淀む。そうかもしれない。少なくとも、普通に接することはできなかったっだろう。
腕を組むのだって、万が一を考えて遠慮していた気がする。
しかし、歩く先に気を付けて歩くことはできたはずだ。
「俺はお前にアンネの友になってほしかった」
「……アンネ様には、私と違ってお友達がたくさんいるでしょう? ここは人の多い王都ですもの」
隣の公爵家とすらろくに交流のない星見伯家とは違う。
「いる。いるけれど、王都にいる連中なんてほとんど腹に一物抱えている。ろくなやつはいない」
「……そ、それは私も同じです……」
「それでもお前がおべっかを使うのは俺だけでいい。お前は俺にさえ取り入れればそれでいいのだから、アンネとは損得抜きで付き合える、そう思った。アンネはアンネでアダムがいるから俺やお前に取り入る必要はないからな」
「……そう、ですね」
ステラの心はとにかく沈み込んでいた。
あの傷痕をひた隠していたアンネの気持ちを思うと胸が痛んだ。
しょんぼりとうつむいたステラの無防備な頭を、ヘンリックは撫でた。
「なっ……」
びっくりして彼の方を向いたステラの顔をヘンリックは両手で挟んだ。
「な、何を……」
戸惑うステラの口に、ヘンリックは口付けた。
「…………!?」
赤ワインの香りが口内に広がる。今日も今日とて好き放題飲んでいたようだ。
口付けは、長かった。
偽りの婚約者からの、誰に見せるためでもない、キス。
ヘンリックの意図が読めず、しばらくステラは固まっていたが、やがて我に返ると、考えるより先に手が出た。
ぱんっと小気味いい音がステラの手とヘンリックの頬の間で鳴り響いた。
「この酔っ払い!」
ヘンリックは口を離し、頬を少しさすった。
「……痛いぞ」
ヘンリックはポツリとそう文句を垂れた。
「な、な、な、なんです、急に……!」
「この程度で顔を真っ赤にしていては、この先が思いやられるな」
「う……」
結婚をすると言うことはもちろん、その先も考えなくてはいけないのだ。
「…………」
「……予行練習でもしておくか」
「こ、ここをどこだと思ってるんですか!? というか私そんな気分じゃないのですが!!」
そう叫ぶステラの口に再びヘンリックは口付けた。
「んー!」
キスをされながら怒りの声をこぼす。
今度のキスは短かった。しかし、間髪を入れず、ヘンリックはそのキスを頬に移動させた。
「なっ」
左頬にキスをされ、そのままなぞるようなキスが首筋に向かう。
「ちょっ、まっ」
体がぞわりと震える。内から熱が湧き上がる。
「で、でんか……っ!」
ステラの悲鳴のような呼び声に、ヘンリックはようやく唇を離した。
その目が、ステラをまっすぐ見つめていた。
「う……」
手が、頬を支えていた手が、ステラの背を優しく撫でる。
「まっ……!」
ステラの頭が混乱で埋まり、硬直した体が激しい心臓に揺らされていると――。
「こらー!」
遠くから怒鳴り声がした。
そちらを向くとアダムがいた。
「お前、この酔っ払い! 何してんだ!」
そう叫びながら、アダムは走り寄り、勢いのままヘンリックの頭を容赦なくはたいた。
ヘンリックの顔が、ステラの胸にのめり込む。
「ぎゃあっ!」
初めて男に胸を触られて、ステラは色気のない悲鳴を上げた。
先程までの艶めかしい雰囲気は一瞬でどこかへ吹き飛んだ。
「そういうことは家でやれ家で」
呆れた顔でアダムはそう吐き捨てた。
「……アンネは大丈夫か?」
何事もなかったかのようにステラの胸から顔を上げると、ヘンリックはそう言った。
アダムはよりいっそう呆れた顔になって、ため息をついた。
「もう部屋に下がらせた。主役も主催もいなくて、パーティー会場は冷え冷えだ。戻るか?」
「……いや、今夜はステラも疲れただろう。帰る」
「そうか、じゃあ、俺がまとめておく……まったく人様の庭で何をしようとしてたんだか」
「…………」
アダムの言葉に、ステラの顔が真っ赤に染まった。
アダムはその表情の変化にハッと気付くと、苦笑いをした。
友人へ好き放題、文句を垂れた結果、隣の令嬢に恥をかかせていることにようやく気付いたらしい。
「ああ、ええと、ステラ嬢。私はアダム。ジャールト伯爵家の三男坊です。そこの酔っ払い王子とは従兄弟に当たります。どうぞ以後よろしくお願いします」
「は、はい、レーヴェ星見伯家のステラです……」
ステラはようやくアダムとあいさつを交わした。
まさかあいさつを交わす前にこんな痴態を見られるとは。穴があったら入りたい。
ヘンリックが立ち上がる。
ステラも続いて立ち上がろうとしたが、先程の衝撃に腰が抜けていて動けなかった。
「…………」
助けを求める声すら恥になりそうで、ステラはぐうと押し黙る。
ヘンリックはそれにめざとく気付き、ステラの腰を支えて立ち上がらせた。
その手は先程までの思わせぶりなものとは違って、とても事務的だった。
「……どうも」
素直に礼を言うのも癪だったので、ステラはそう言うに留めた。
ふたりはあずま屋から出た。
「……星が綺麗だな」
ヘンリックは突然そう言い出した。
「……ええ」
つられて空を見上げると、予想通り、天敵の赤い星が天空の河から外れていた。
「……ふう」
しかし今日の出来事では運気が上向いているとは到底思えなかった。
やはり、星見の力などあてにはならないのだろうかと、ステラの胸は痛んだ。
「ああ、俺の守護星が見えてきたな」
ヘンリックが指を差した先にはオレンジの星が光っていた。ちょうど空に浮かび始めたばかりだった。春の後半、夏を報せるオレンジの星。
「……ご自分の守護星、ご存知だったのですか?」
「ああ、お前に会ってから学んだ。お前の星は……ああ、緑だから宝石が緑だと言っていたか?」
そう言ってアダムは空を探す。しかし見つけられなかったようで、しばらくきょろきょろと空を見上げていた。
「…………」
この人が、歩み寄ろうとしてくれている。それは初めてのことだった。
ステラは何だか複雑な気持ちになりながら、いっしょに空を見上げる。
彼女の目はすぐに自分の守護星を捉えた。
そろそろ、緑の星は天空を去ろうとしていた。
しかし、隣の男はそんなステラの視線の先に気付くことはなかった。
どうにも噛み合わないふたりは、しばらく夜空の別々の方向を見つめていた。
やがてヘンリックが諦めたように歩き出した。その頃にはステラの抜けた腰もいつもの調子を取り戻していたが、ヘンリックはステラを支えたまま歩き出した。
アダムに見送られ、ふたりはチューダー侯爵家を後にした。
イトワール伯爵家に到着すると、ヘンリックはステラが屋敷の中に入るまで馬車の扉を開けて見守っていた。
屋敷の玄関扉が閉まってようやく、馬車が動く音が聞こえてきた。
「……はあ」
ステラはため息をついて、自分に与えられている部屋に真っ直ぐ向かった。
「……ユッタ、どうして止めてくれないの」
風呂に入ってベッドに潜り込む。ぐったりと身を横たえながら、ステラはユッタに文句を垂れる。侍女というものを持ったのは初めてだが、ああいうときにお嬢様の貞操を守る役割もあるのではなかったか。
「もうお二人は婚約者でいらっしゃるので、多少はお目こぼしできます。もちろん初夜まで純潔は保っていただく必要がありますが」
「う、うう……」
初夜に純潔、その言葉が重たくて、ステラはベッドに頭まで潜り込んだ。恋には疎い、そもそも出会いすらなかった田舎娘には刺激が強すぎた。
「……そういえば殿下のこと、はたいてしまったのだけど、あれ大丈夫だったかしら……」
今更になって、心配がこみ上げる。ベッドの中から呻くようにユッタに問う。
「大丈夫ですよ。殿下はアダム様にも思いきり殴られていたでしょう? あの方はそういうことは気にしないお方です」
「絶対、一回、気にした方がいいと思う……」
王子のくせに殴られる理由について重点的に。
「じゃあ私もう寝るから……」
「はい、今夜はお疲れ様でした」
ユッタが去っていく音が聞こえる。
そのまま、眠ってしまおうとする直前、ステラはヘンリックのせいで忘れかけていた懸念を思い出す。
「あ、待って、ユッタ」
「はい、何でしょう」
少し遠くから侍女の声が聞こえる。
「……ユッタも知ってたの? アンネ様のお顔のこと」
「……はい。暗黙の了解というものでございます。貴族の間でも知れ渡っていますが、もちろん我々下々の者がそれを口にするようなことはありません……それが、殿下から見れば腫れ物扱い、なのでしょうけれど……」
「……腫れ物、か。ありがとう、下がって良いわ」
「はい、おやすみなさいませ」
「おやすみなさい」
ひとりになって、ステラは目を閉じた。
浮かんでくるのはアンネの引き攣れた顔だったり、ヘンリックの大きな手の平だったりした。
「ん、んん……」
体が、熱をぶり返す。
ステラはベッドの中で寝返りを打ち続けた。
ヘンリックが手や唇で触れたところが、いつまでも熱を持っているようで、なかなか寝付けなかった。
「……うう」
羞恥と傷心にうなされながら、ステラは浅い眠りへ落ちていった。
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