第7話 イトワール伯爵家にて

 ステラが目を覚ました頃にはすっかり日が傾いていた。

 慌てて跳ね起き、移動用の黒いドレスから晩餐用の黒いドレスに着替える。

 晩餐用のドレスは一応ヘンリックからもらったお金で新調したものだったが、しょせんは田舎で星見伯の伝手で手に入る程度のものだ。王子の婚約者のお披露目パーティーにはそぐわないだろうことはわかっていた。

「あら」

 ステラがドタバタと走り回る音に、慌てて寝室に駆け込んできたユッタはステラが着替えを終えてしまっていたことに驚いた。

「……ステラ様」

 ユッタは控えめな声でステラに声をかけた。

「ステラ様は、その、使用人の乏しい環境で育たれたわけですから、ご自分でお着替えなどなさることができるのは当然だとは思います。ですが、どうか、今後はお着替えの際にはわたくしをお呼びください。ステラ様のお着替えを手助けするのは侍女の仕事です」

「……ええ、そうよね、ごめんなさい」

 ステラは素直に謝った。

 もしも、このまま本当にヘンリック王子と結婚すれば、ステラにつく侍女はユッタひとりに限らなくなるだろう。

 多くの侍女やメイドが自分の世話をする光景はうまく思い描けなかったが、貴族の女にとって、自分で自分の着替えをしてしまうなど、褒められたことではない。育ちの貧しさがにじみ出る、恥ずべき行いだ。王子の婚約者にはふさわしくない。

「…………」

 ステラはどんどんと湧き上がる不安に黙り込んだ。

 やはり、自分が王族の一員になるなど想像がつかない。

 やるべきことをやってしまってから、さっさと婚約のすべてをなかったことにして逃げてしまいたかった。

「……婚約者のお披露目パーティーって、正式なものではないわよね……その、国王陛下なんかがいらっしゃるような規模のものではないでしょう?」

「はい、まずは、殿下のご友人方にステラ様を紹介するためのものです。国王陛下や王妃殿下への拝謁はもう少し後になります」

「……そうよね」

 早く、国王に会いたい。

 無礼と罵られてもいい。不敬と断罪されてもいい。

 国王に出会うことで、ようやく一歩が踏み出せる。

 国難をしらせる。それが星見伯の家の者の役目なのだから。

 たとえとっくの昔にその役目を剥奪されていたとしても、祖父の代で果たせなかったことを、ステラが成す。そうすれば、カエルムの未来はきっと少しだけ明るいはずだ。

「……ふう」

 ステラは伸びをした。


「やあやあ、こんばんは、ステラ嬢」

 晩餐の席でイトワール伯爵はふんわりと微笑んだ。

 ユッタの席も用意されていた。ユッタは遠慮しながらも、あまり遠慮するのも失礼になると判断したのだろう、素直に席にかけた。

「寝ているらしいから、お疲れのところを起こすのもどうだろうと思っていたんだ。ちょうどよく起きてくれてよかったよ。食事がいっしょにとれるからね。ああ、そうだ、レディ・ユッタ」

「はい、イトワール伯爵様」

「うちの家からもステラ嬢に何人かメイドをつけようと思う。さすがにお一人でいろいろとこなすのは、たいへんだろう?」

「ありがとうございます。……ステラ様もそれでよろしいでしょうか」

「伯父様とユッタがそれでいいのなら、すべて任せます。……わたくし、そこのところは疎いので……」

「うんうん」

 ユッタがちらりとステラの顔を見る。ステラはうなずいた。

「あ、あの、伯父様、伯母様。ユッタがパーティーに向けて仕立屋を呼んでくれるそうなの」

「あら」

 伯母は少し心配そうな顔になった。

「このお屋敷に呼んで大丈夫でしょうか?」

「もちろんだとも」

 イトワール伯爵はにっこりと笑った。

「必要なものがあれば、いくらでも呼んだり使ったりしなさい」

 そう笑うイトワール伯爵とは裏腹に、伯母は心配そうな顔のままだった。

 ステラには伯母が何を心配しているのかわかった。

 レーヴェ星見伯家の人間は基本的に黒衣しか纏わない。

 星の輝きを疎外しない色だと言われているからだ。

 お嫁に行った伯母はその掟から外れたが、まだ婚約段階のステラは黒衣のドレスしか着ることができない。

 そして黒衣はこのウィルトス王国では元々喪服である。

 それに加えて没落した星見伯家を象徴する色として、忌避されることも多い。

 なので、そもそも黒衣のドレスを仕立ててもらえるかという心配があるのだ。

「ご安心ください」

 ユッタが淡々と口を開いた。

「仕立屋には話を通しています。黒い布も各種用意させました」

「そう……」

 伯母はそれでも心配そうな顔をしていた。

「まあまあ」

 イトワール伯爵が、伯母に優しく声をかける。

 星見伯の家に生まれた者としての伯母の苦労を、身近に見てきたのだろうイトワール伯爵の声は優しかった。

 伯母はむりやりに笑顔を作ってうなずいた。

「余計な口出しをして、ごめんなさいね、ステラ、ユッタ」

「いえ……」

 ステラは首を横に振った。

「わたくしめにはどうぞご遠慮なく」

 ユッタはスッと頭を下げた。


 晩餐はそれ以外は、当たり障りのない会話で終わった。

 ステラとユッタは部屋に戻った。

「ステラ様、ご入浴されますか?」

「そうね……ああ、いや、その前にちょっと庭に出るわ」

「ごいっしょします」

 ステラは上着を羽織ると、自ら望遠鏡を担いだ。

「……ステラ様、その、望遠鏡、お持ちしますよ」

「えっと、これは繊細なものだから……明日の昼にでも気を付けるべきところを教えるから、今夜は私に持たせてちょうだい」

「……はい」

 ユッタはステラの言葉におとなしく引き下がった。


 メモを携え、庭に出る。

 春の夜空は暗く、星が瞬いていた。

「……やっぱり、大して見えないわね」

 王都の星空は、五等星より暗い星がほとんど見えなかった。

 ステラはため息をついて望遠鏡を覗き込む。

 星模様をメモに書き付けていく。

 そんな星空でも、不動星は見えた。しかしやはりその光は弱まっていた。

「……ユッタは星を見上げたりする?」

「いえ、わたくしはあまり……」

「そう、よね」

「……ですが、王都の外れには天文台もございます。占星術ではなく、天文学の研究所ですが……」

「ああ、聞いたことはあるわ」

 ステラは望遠鏡を見下ろした。

 天文台ならこのボロい望遠鏡を使うよりも、きっと空がよく見えるだろう。

「…………」

「行ってみますか?」

「……大丈夫なの?」

 自分が行ってもいいのだろうか? 落ちぶれた星見伯の娘が。

「殿下のご威光あれば、どこへでも行けますよ、あなたは」

「…………」

 虎の威を借る狐のようで、あまり愉快なやり方ではないが、やれることはやらなくてはいけない。

「……行けるように取り計らってもらえる?」

「かしこまりました。手配します」

 ユッタはうやうやしく頭を下げた。

 しばらく星を見上げてから、部屋に戻った。


 ユッタに手取り足取り手伝ってもらう入浴は慣れなくて、少し緊張してしまった。

 それでも温かいお湯に浸かるのは、体の疲れが抜けていくようだった。

 ベッドに潜ると、昼寝をしていたにも関わらず、すぐに眠りにつくことができた。


 ステラはユッタに望遠鏡やアストロラーベの取り扱いについて説明などしつつ、イトワール伯爵家での日々を過ごした。


 王都に着いて三日目、仕立て屋がイトワール伯爵家を訪れた。

 仕立て屋と布屋、そしてヘンリックとその侍従もいっしょだった。

「……何故?」

 ジトッとした目でヘンリックを睨みつけると、ヘンリックは胸を張った。

「俺も新品を仕立ててもらいに来たのだ。何か問題があるか」

 ステラは小さくため息をついた。

「初めまして、仕立て屋ベートでございます。それでは、殿下のサイズはわかっていますので……お変わりはありませんよね?」

「ない」

「はい、健康的で結構なことです。それではまずはレーヴェ星見伯嬢の採寸から始めさせていただきますね」

 にっこりと笑って仕立て屋がメジャーをピンと伸ばした。


「採寸終わりました。デザインの話をしていきましょう。本日のお召し物は普段着ですか?」

「ええ」

 今日のステラは控えめな服装をしている。ヘンリックが来るとわかっていれば、さすがに歓待のためにもう少し着飾った。

 仕立て屋はじっとステラの服を眺めてから、口を開いた。

「今、王都の舞踏会での流行りは、襟はスクエア型に開いているところに首飾りをつけてデコルテを囲うものが、襟はレースをつけたり膨らましたりしないシンプルなものが流行っております。そちらを基準にあつらえてもよろしいでしょうか」

「ええ、流行りはわからないからデザインはお任せするわ……それで、あの、色なのだけれど」

「黒一色、ですよね。ええ、そのところは布屋に頼んであります」

 後ろで控えていた布屋が布を広げていく。

 いくつかの質感の違う黒い布がお披露目された。

「手触り光沢質感などなどお好みのものを選んでください。違う布でグラデーションを表現することも可能でございます」

「お気遣いありがとう」

 いくつかの布に触らせてもらう。光沢はあまりない方が良い。

「えっと……じゃあこれで」

「はい、それでは一着目はこちらの布で仕立てます」

 仕立て屋はステラの採寸を書きつけた紙に布の種類も書きつける。

「ああ、そうだ、宝飾品などは……どうされます?」

 首飾りなどをつけたときのバランスを確認したいのだろう。

「ユッタ」

「はい、ステラ様」

 ステラの指示でユッタが部屋の外に声をかける。

 ステラが普段着ているドレスを着せたマネキンが運び込まれて来る。

 ヘンリックと初めて出会ったときに着ていたドレスだ。

 あの夜を思い出したステラは、赤ワインの香りを嗅いだような気がした。

「なるほどなるほど」

 仕立て屋がうなずきながらドレスを覗き込む。

 首飾りや耳飾りは母の形見だ。

「ふむふむ、わかりました。ところで星見伯家には宝飾品の決まり事はあるのでしょうか」

「自分の守護星である緑を身につけるようにしてます」

「ああ、守護星! 懐かしい響きです……」

 仕立て屋は過去を懐かしむように目を細めた。

「私が幼い頃はまだ星見伯様が……その、政治的に失脚される前でしたので、よく守護星色のドレスの注文があったものです」

「……そうでしたか」

 ステラはその時代を知らない。

 生まれた頃には星見伯の権威は失墜していた。

 へたに栄光の時代を知っているよりはマシなのかもしれないとも思う。

 今の窮状を受け入れることができるから。

「よし、俺の衣装はステラに合わせて仕立ててくれ」

 ヘンリックがそう口を挟んだ。

「色は……灰でいいか」

「よろしいので?」

 仕立て屋が尋ねる。

 前回、オルティス公爵家で出会ったときは青色の軍服だったが、なにせ王子殿下だ、普段はもう少しきらびやかな衣装を着ているのだろう。

「女性に合わせるのは当たり前だろう」

 きっぱりと彼はそう言った。

 ステラはなんと口にしたものか迷って、ただ頭を下げた。礼を言うのも何か違う気がした。


 その後、いくつかの確認を終えて、仕立て屋と布屋は帰っていった。

「ふー……」

 ステラが一息ついていると彼らと入れ替わりにイトワール伯爵が部屋に入ってきた。

「ようこそ、ヘンリック殿下」

「ああ、イトワール伯爵、ステラがお世話になっています」

 ヘンリックはうやうやしく頭を下げた。ステラは婚約者面されることにいささか落ち着かない気持ちになった。

「いえいえ、義理とはいえ姪のことでございますから、いくらでも力になりますよ」

 イトワール伯爵はそう言ってにっこりと微笑んだ。

 いつでもこの義伯父は愛想が良い。

 しかしさすがに王子相手に何の打算もなく接するということはあるまい。

 この機会に王家への影響力を持ちたいと思っているのは一目瞭然であった。

 そして父には頼れないステラにとって、イトワール伯爵に権威欲が人並みにあり、王家との関わりを深めたがっているのは、むしろありがたかった。

「何かとご迷惑もお掛けすると思いますが、何とぞよろしくお願いします」

 どこか猫を被っているようなヘンリックの返答にステラは心中、苦笑せざるを得なかった。

「いえいえ、ところで殿下、この後、ご予定などは?」

「特にございません」

「でしたら、ぜひ夕食をご一緒しませんか? ブリアーナ地方の赤ワインが入っております」

「ほう」

 ヘンリックの目が光り輝いた。

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