序章 / 帝国紀1046年・5月



戦争は終わった。しかし平和はやってこなかった。 



 クラルス共和国・首都カリブンクルスの中央を分断するメインストリートは終戦を称える平和な空気と対極に戦時下だった頃の爪痕をしっかりと残していた。

 大通りを分断する中央の噴水に鎮座する大理石彫刻は、胸部から上が喪失し、大通りを差す陽光を賛美するはずだった両腕は欠損している。

 そして首の無い彫刻が四方に臨む石造りの建築群はどれもが緑色の屋根を被り、深い茶色の壁面は大小さまざまな穴で飾り付けられている。

それらは灰色の石畳と黒光りする鋳鉄の街灯の合間で重厚なコントラストを成し、その一角のカフェテリアでは杖を突いた老夫婦や学生たちが朗らかに会話を弾ませていた。

 しかし、そんな彼らが一変。通りを行き交う人間の誰もが目を引く存在が、まるで唐突に彫刻の前に現れた。

「何?あの髪の色」

「どこからの移民だ?」

「極東?そりゃあないよ。あそこの連中はもっときれいな髪をしていたさ」

「でもあの襟……ほら、新しく作られたっていう軍学校のじゃなかったっけ?」

 風に乗って行き交う無遠慮な考察や発言は、所詮彼らの会話の種程度のもので、彼ら自身がそれを意識している訳ではない。

 事実、話題の少年が彫刻から目を離して歩き出すと、まるで最初からいなかったかのように話題は逸れていく。

 小柄な体躯。

 その身を包む高等士官学校の制服と薄汚れた灰色のトレンチコート。

そこからすっぽりと出た顔は年の割に幼く見られる浅く焼けた極東系。しかしその漆黒の瞳より一際目立つ灰色の頭髪は、もとの黒髪に痛んだ白髪が多量に混じりそう見えさせていた。

 どこの誰の血が混じったかもわからないその風貌は、その場では少年自身だけが混じりけの無い極東の島国出身だと知っている。

「すみません」

 一貫して無表情のままの少年は、通りを歩いていた二人組の軍人に声をかけた。

 そっと、あくまで当たり障りのないように。

「ん?うわっ!なんだ君――」

 しかし少年の思惑とは裏腹に、その士官は飛び退いた。

 気配無く声を掛けられ、振り返れどもそこには人影がない。やっと見つけた少年の人相は戦場で見る死人の顔。

 昼間でなければ、怪談にでも出くわしたと思っただろう。

 びくびくと後ろに下がる士官と、おそらく上官であろうもう一人。

「何か?」

「参謀本部に行きたいのですが……」

 上官は古傷のある顔をわずかに歪める。

「軍務省なら、この道を真っ直ぐだ」

 その表情をどう捉えたか、少年は無表情のまま

「ありがとうございます」

 と音も立てずに歩き去って行った。

「……なんなんでしょう、あのガキ」

 上官の背中に隠れていた若い士官は肩越しに亡霊の背中を見た。

 大通りから、背の高い建物に囲まれる路地へと進むその背中は、二人が立つ場所と対照的に影が落ちている。

 この季節、日の当たる場所とそうでない場所の気温差は見た目以上にある。まるで住む世界が違うかのように。

「…………」

 上官も、士官とは別の意図を孕んだ眼差しでその背中を睨んでいたが、ふいに興味を無くしたかのように歩き出した。

「あ、少佐?」

 ワンテンポ遅れて後に続く士官。

 いつも寡黙な上司が、いつも以上にむすっとしていれば、気にならない理由はない。心なしか石畳を踏む足音も大きく感じる。

「……少尉は、〈帝国の幽鬼軍〉の話を知っているか?」

 そうかと思えば、上官は唐突にそう切り出す。

「はっ、あ、いえ。知りませんが――」

 ぽかんと口を開けたまま、少佐について歩く。

幽鬼軍、灰色の死神、首の無い戦女神……。

 そういった都市伝説が流れ始めたのは、いつ頃からだっただろうか。

 歩を進める少佐の頭蓋の中は、平和な情景とは裏腹に遠い戦火の中に吸い寄せられていた。


 さて、少佐たちと別れた少年は、旧市街の路地を進んでいた。

 深く焼き込んだように色を吸い込む黒い建造物が、通りを必要以上に圧迫し、どこそこも軍人が練り歩くそこは、確かに旧市街の体を成している。

 そこに、ぽつりと一滴。淡く落とし込んだ白が混ざり込んで灰色が目立つ。

 周りの視線も気にせずに、少年は大股に突き進む。旧市街でも一際目立つその建物に。

 規則的に並べられた石レンガと窓が連続して幅を広げ、周りの建築群を押し退けて仁王立ちしている。その屋根は高く、真下に立った少年の小さな体躯では色も形もわからない。

 その建物をぐるりと囲む石の壁と鉄の柵。

 正門に佇む二人の警備。肩に掛けた銃の銃口は切り取った青い空を指していた。

 まるで、生まれ故郷のようだ──と少年は見据えた。それはその実まるで似てはいないのだが。

 些末な石の壁と、容量の足りないレンガの箱庭。

 窓に映る小さな景色は十字に交差した鉄柵によって細分化されていた。

 壁は更に簡易な網状のフェンスに有刺鉄線の冠をかぶり、その遥か上に立つ見張り台から見下ろす軍人たち。その銃口は内側に向けられていた。

 別に懐かしくもなければ、感傷もない幼少の頃の記憶。久しく忘れていたそれをぼんやりと掠めたその時、見上げた視線よりも少し前方から僅かに威圧するような太い声が聞こえた。

「君。ここは部外者立入禁止だよ」

 諭すようで、その内にしっかりと退ける意識を持った声。彼が門番に就いたのも誰もがうなずける生真面目な印象。

「この辺は軍関係施設ばかりだ。君のような子供が来るところではない。迷っているようなら、一度大通りまで戻って──」

「ここに、呼ばれました」

 言葉を遮った声は、はじめは誰が発したのかわからなかった。

 見た目に反して、低く鋭く、そして冷たい声。それを少年が発したものだと気づくのには少しの間があった。

「ど、どんな理由であれ、軍人でもない、共和国人でもない――まして子供の君をここに入れるわけにはいかない。さあ、帰ってくれ」

 少年ごときに意表をつかれた警備は、わずかに語気を強める。

 その警備の肩をたたいてもう一人の警備が耳打ちする。

「……おい、あの制服──この間開校したっていう──」

「そうだとしても、ここに入る予定なら何らかの知らせがあるだろ」

 強い声色のままひそひそと応じる声は、すべて少年の耳に入っていた。

 それでも、少年の調子は変わらない。

「イレーナ・ステチェンスカ大佐が、今日ここに来るようにと」

 その人物の名は、警備もよく知る人物であった。だからこそ、二人の表情は固まった。

 数歩後ろに控えるもう一人の警備に顔を向け、肩をすくめられ振り返った時には余裕を持った態度は見受けられなかった。

「君、冗談でも嘘は良くない。どこでその名前を聞いたのかは知らないが、あまり大人をからかうような真似は――」

「そいつは私の客人だ」

 歩み寄り、ともすれば掴みかかりそうになった手が既で止まった。

 悠然と、警備たちの後ろに軍人が立っていた。

 その人物を見た二人の警備はあからさまに動揺する。

「た、大佐?!いえ、しかし――」

「上に話は通してある。彼は問題ないよ」

 共和国軍共通の正式な軍服は陸軍を現す茶鼠色。同じ色に、くすんだ銀色の装飾を飾った軍帽。何より特徴的なのは左半身から背中までをすっぽりと覆う袖の無い外套。

 その上からふわりと覆いかぶさる、腰まで伸びた曖昧な暗い茶髪。

 合間から覗く細面は彫刻を思わせる均衡が取れた白い美貌。しかし、少年を真っ直ぐと見据えるグリーンアイは獣のように瞳孔を細めていた。

「ちょうど今君たちに伝えに来たところだが、間一髪、怪我をする前に来られたようだな」

 朝晩の出入り以外で彼女がここに来ることは滅多にない。そして泊まり込みも多々ある人物。

 そんな多忙な人物が、わざわざ時間を削ってまで迎えに来たという事実は、何物にも代え難い証拠と言えた。

「本当は昨日伝えに来るつもりだったのだが、中々時間が作れなくてな……すまない」

「い、いえ!そんな、こちらこそ、申し訳ありません」

「わかってくれるか」

「ええ!さあ君、早く行くんだ。」

 高圧的な態度から一転、その警備は少年の背中を押す。

「…………」

「なんだその顔は?貴様が何者かは知らないが、あまり大佐の手を煩わせるなよ」

 少年は無言で背を向けて大佐へと赴く。警備はその態度に納得がいかない様子だったが、大佐が人差し指を唇に当てる様子を見せると嘆息して仕事へと戻った。

「さあ、こっちだ」

 二人は背を向けると軍務省へと吸い込まれていった。



 古き時代。宮殿であったこの建物は、時の伯爵が質素だった所以により外見・内装ともに豪華絢爛とは程遠い。とは言え各所に見受けられる調度品の類は見る者が見ればその格式の高さを図ることができる代物だが、これらはここが参謀本部という役割を与えられてから設置されたもので、大戦以前はむしろ幽霊屋敷としての役割が大きかったという。

 そして現在。軍大学を卒業し大尉の階級を得た者は各地方方面軍基地かこの軍務省へと配属される。いずれにしても階級が上がった者はここへ訪れることになるが、大戦終結後間もない現在、階級制度の見直しが求められているという面があるのは誰もが聞く噂。

「ともかく、君が迷わずここに来れてよかったよ」

「いえ。道中道を尋ねました」

「そうか。……名前は聞かれなかったか?」

「……?聞かれていませんが、それが?」

「いや、いいんだ。仔細は後で話す。」

 二人は光のない廊下を角まで進み、階段を上る。三階を越えた時点から徐々に窓から陽光が差し始め、目的の五階は人工の光が無用な程に明るい。

 しかしそれに比例して人口は減り、わずかな動きで埃が舞う上階は最果てというにふさわしい。

「ここより上は使われていない。そもそもここが使われていることを知っている人間も少ない」

 大佐は皮肉を込めてそう言った。しかしそれが少年に伝わることはない。

 二人は東の最果て。くすんだ木の扉に“関係者以外立入禁止”と貼られた角部屋の前に辿り着いた。

「ようこそ」

 イレーナは先導する。

 扉を開けたその先。正面から射す鋭い日差しが視界を遮り、少年は目を細めた。

 慣れてくると、瞳は艶のある木製のデスクをきらきらと光る埃のスクリーン越しに映す。

一歩進んでみると剥がれかけの壁紙から白い石膏が覗き、それらを隠すように書棚や戸棚が双璧を成していた。

「問題ありませんでしたか?」

 その視界の外。扉側の戸棚で書類を抱えた女性軍人が大佐に声をかけた。

「ああ。危ういところだったよ」

 イレーナが半歩早く入室し、外套と帽子を脱ぐと少年にも促す。

 灰色の外套が剥かれ、軍服を基調としたブレザータイプの紺色の学生制服が現れる。

 イレーナは右手側にある来客用の机を挟んだソファへ少年を座らせると、対面に座る。

「紅茶を頼む」

「了解しました」

 眼鏡をはずした女性軍人が扉を出る。

「副官が気になるか?」

「いえ」

「そうか」

 短いやり取りの後、イレーナは机の端に揃えられた書類の束を手に取る。

「さて――」

 一枚目から数枚をぱらぱらとめくる。その行動に意味はない。単純な手遊びのようなものだ。

「報告書、読ませてもらったよ。良く纏まっている」

「…………」

「ほめているのだよ。イノウエ・コウ」

「…………ありがとうございます?」

 コウと呼ばれた少年は小首を傾げた。その様子が面白かったのか、イレーナは少し微笑む。

 大戦末期。灰燼と化した戦場で共和国に保護されたコウは帝国兵捕虜として身柄を確保された。そして現在、今は無き帝国が抹消しようとしている情報と引き換えに戦災移民としての保証以上の待遇を受ける約束がなされた。そして今日はその報告の日。

 それは、祖国に背く行為。己が生まれた母国を背信し、その権利を蔑ろにして踏みつける最も侮蔑される行為。

 しかし生まれながらに権利を剥奪され、現在進行形で抹消されることを望まれている本人には、その行為に意味を見出す必要もない。全ては他人の評価に過ぎなかった。

「まあいい。読み書きは誰から?」

「ヴォル中尉です」

「ここに書いてあるゲイルドリヴル──隊専用戦車の砲手をやっていた彼女か?」

「はい」

「それは、隊の方針で?」

「小隊には読み書きの出来ない隊員が半数でした。なので隊長が中尉に教えるようにと」

「なるほど」

 淡々とした質疑応答と少しの間。

 見計らったように静かに置かれた二つの紅茶に目を落とす。白いカップとソーサーには青いシンプルな装飾が施され、カップには七分目まで淡い紅色で満たされている。

 イレーナはそれで喉を潤すと、質問を続ける。

「わかってはいたが──やはり初陣は〈ポルノッツ・ライン防衛戦〉だったか」

「初陣?」

「まあ、正確には違うのだろうが形式的にはというところだ」

「はあ」

 物心ついた頃より戦場で生きてきた彼にとって、初陣いうものは初めて二本足で立った時と同じくらい些細な記憶だ。

 いつから銃を握っているかと聞かれても、おそらく両親の顔を思い出すくらい至難だろう。

「――実はな、私もあの戦場にいたのだよ」

「…………」

「そう怪訝な顔をするな。最前線で殺し合いなどしていないよ」

 紅茶を一口。嘆息交じりに報告書を机に投げると、椅子に深く体を沈める。

 緑の瞳は何も捉えず、淀み、窓の先にまるで戦火を見るかのよう。

「当時共和国は王国との協定の話が上がっていてね。事実上の不可侵条約と言ってもいいのだろうが……私は王国に視察に訪れていたのだよ」

 そして軍事力の視察に赴いたポルノッツ・ライン後方。彼女は平和で済むはずだったその境界線で王国の傲慢と愚鈍を目にすることになる。

 当時、帝国は世界を敵に回した。

 最も世界を支配していた帝国は、それを疎まれる国々から侵攻を受け、反撃した。

 そして、その支配を確かな物とする為に、二ヶ国と協定を結び攻撃を仕掛けた国に侵攻。

 即座に一つの国の首都を占領した時から、帝国を囲む国々は一つ、また一つと敵になった。

 それは、帝国を囲む大国にとっては目の上の瘤を取り除く絶好の機会となり、その隙間に挟まる中小国にとっては台頭する足掛かりとなる。

 当時帝国に手出しをした王国も、うまい話に一枚噛ませろという腹積もりがあった。

「そして、結果は君の知っての通り」

「結果については知りませんが……」

「ん?あぁ、そうだな……事の顛末については知らないな」

 しかしイレーナは肝心な事の顛末については語らない。代わりとばかりに切り出したのは本題ついて。

「さて、今日君をここに招いた訳だが──この報告書について、具体的な話を聞きたい」

「具体的な、というと」

「ここに書いてあるのは、君の部隊が実際にはいつ、どこに派兵されていたか確認するためのものだ。当時流れていた噂と照合して実態のない〈幽鬼〉を肉付けする過程に過ぎない。——私が欲しい情報は、その中身だ。噂はどうも伝奇を読んでいるようでね」

 ほぼ同時に、副官が棚からタイプライターを取り出すのを視界の隅に捉える。

「…………」

「記録を取られるのは嫌か?」

「いえ。そういうわけでは」

 しかし、当時のことを具体的にと言われると

「思い出したくない、か」

「………………そういう訳でも」

 ごく当たり前のことを、ごく当たり前にやっただけ。人間である以前に軍人たれと開発された彼に、記憶にある戦闘を時系列順に並べたことは無い。

「なに、今すぐ全て話せと言っている訳ではない。そうだな……まずはこの〈ポルノッツ・ライン防衛戦〉について、話せる範囲でというのはどうだ?」

「……では、それで」

 副官がイレーナの隣に座り、インクリボンを引いて用紙を噛ませる。特徴的な機械の音が部屋に響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る