少年はスパイになった

紅夢

序章 / 帝国紀1044年・冬

 どこまでも続く雪の森。

 半年をかけて積もった雪は、あらゆる生き物に眠りを与え、そこには土の一色たりも、植物の一寸たりとも顔を出さない。

 全てを押しつぶした重たい白に、しかし強情な木々はすくすくと背を伸ばし、遥か空を塗り替えんとする灰色の雲に手を伸ばしていた。

 酷く、静かな場所だった。

 伸し掛かる重みに耐え切れず、枝が雪を振り落とす音も、雪そのものが吸い取って遠くへは届かない。

 永遠と続くように思える雪原も、しかしぽつりと大きな山脈に抱かれ唐突に途切れる。

 静と死がカーテンを下ろす灰色世界に、一匹の鹿がいた。

 一つとして脅威の見えない雪原を、終末の楽園がごとく悠々と歩き、地に落ちた細枝を高級食材が如く啄む。

 と、鹿の動きがピタリと止まった。

 すっと顔を上げて、耳を器用に動かして周囲を確認している。

(――気づかれた……?)



 同じ森に、一人の人間がいた。

 全身を白い防寒着で包み、防寒帽の上からフードを被り、雪でできた僅かな隆起に身を伏せていた。

 さらにその人間は、全身に雪を被せていた。

 人間は、気配も、呼吸も、指先に至るまで人間であることを殺して、体を預けた隆起から頭と一丁の小銃だけを覗かせて、アイアンサイトの先にいる一頭の鹿にだけ意識を集中させていた。

 その筈なのに、鹿は何かの気配を感じ取ったかように頭を起こして周囲を警戒している。

 人間は、今か今かと引き金に掛けた指をそっと離してその様子をじっと観察した。

 今撃てば、確実にその頭蓋を射抜けるという確信があった。だが、本能は「いや、まだだ」と語りかけている。

 ピクリ、と鹿の耳が後ろへ向けられた。

 途端にその一頭は駆け出して白と灰の織りなすグラデーションへと消えていった。

 人間は動かなかった――否、毎秒数センチのわずかな動きで銃を体に引き寄せると地面に耳を押し付けて完全に伏せこんだ。

 それから少し経つと、匍匐の要領で少しづく隆起から下がり稜線に身を隠した。

 冬に出来た厚い氷が解ける速度より遅く、ゆっくりと雪を落とし、仰向けになって地面に寄りかかると喉元に手を当てて小さく呟いく。

「――シン。敵だ。小隊長に繋げるか?」

 隣にいなければ聞こえないであろうわずかな声量は、しっかりと咽頭マイクを通して相手に届いたようで、ノイズの多い声が返ってくる。

「え、まじ?ちょっと待って……隊長、隊長……はい、こちら“狩り組”です。コウが敵が来たって……」

 コウの後方50メートルで待機していた“電話番”のシンが後方四キロの前哨基地に“電話”する。

「コウ?敵情はわかる?」

「少し待て」

 コウは再び稜線から目だけ出すと、先ほど鹿が耳を向けた方向に目を向けた。

「……見えた。……軽戦車一両、随伴歩兵が見える範囲で12人くらい……多分もっと多いかも」

「ああ、こっちでも確認したよ。黒い軍服はよく見えるね。」

「双眼鏡を使ったのか?」

「心配性だなぁ……えっと、この分には1時間はかからないかな、うん。――コウ、こっち寄れる?」

「わかった。」

「しばらくここで監視と報告だって。」

 通信を終えたイノウエ コウは銃の腹を右手で掴むと、稜線から体を出さないように身を低くして走り出した。

 悪路をものともしない速度に、追従しない足音。背後に浅い足跡だけを残して突き進む。

 コウは走りながら顔を覆っていた真っ白なスカーフを剥いだ。

 現れたのは典型的な極東系の、十代の少年の顔。

 平均的な顔立ちと漆黒の瞳は、年の割に静かな冷たさを孕んでおり、色白なこともあって死相に映り、数時間地面に伏せ、悪路を走っているというのに疲れは見えない。防寒帽からはみ出したわずかな前髪は、瞳と同じ漆黒の髪に多量の痛んだ白髪が混じり灰色に見えた。

 短く息を吐き、地を蹴り走ると、漂っていただけの冷気が顔を凍て差す。

 しかし顔色一つ変えずに突き進んでいると、やがてそれを不服に思ったかのように、はらりと白い欠片が顔に張り付いた。

 一つ息をつき、頭上に圧し掛かる自分の髪と同じ色の空を仰いだ。

「……雪が降るな……」  

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