第四章 終焉

 それからの日々は、文字通りの地獄だった。次の日学校へ行って、ロッカーをみて、机を見て、僕は確信した。自分は、敵に回してはいけない人間を敵に回したのだと。

 「あいつらハブるって意味、ほんとにわかってるのかな。」

 くだらないことを呟きながら、僕はあたかも平気であるかのようにふるまった。そんな僕を見て、それは更にエスカレートしていった。

 他のクラスメイトは、というと、こういう状況になってから皆少しだけ変化しているようだった。彼が去った後、気休めの言葉をかけてくる偽善者、自分たちの世界に入っているように見せかけて、僕らから目をそらしている人、彼のいいなりになって僕に詰め寄ってくる人。人間関係とは、つくづくくだらないものだと実感する。関係、というくらいなのだから、それはしばしば、相手のことを考えて構築するものだと教わる。だが、相手のことを想って自分の行動を変えるなど、所詮は建前だ。結局は自分にできるだけ得があるように、できるだけ損が無いように、相手を利用して、その場所で地の利を得る、それが人間関係だ。多くの人が、人間関係に悩んでいるというが、悩むベクトルがいつまでも相手主体であるから、答えが見つからないのだ。人間は誰もが私利私欲のために他人を利用する悪人だと、自分もその悪人の一人だと受け入れるだけでそれは解消されるのに、善人にはどうしてもそれが受け入れられないのだろう。そう考えると、それは、悩みとは言わない、ただの傲慢な理想だ。

 だがそんな善人たちの中に、生粋の悪人もいた。僕がどんな目に遭っても、クラスメイトがどう変わっても、彼がなにを持ちかけても、時には脅しても、それは変わらない視線を教室へ向けた。病的なまでに白く、華奢な体。その容姿に見合うほどに冷たい視線、例の女子生徒だ。僕は、机に座ることが少なくなった分、女子生徒をずっと観察することができるようになった。それから数日間の観察の結果、わかったことがある。それは、その視線は、クラスメイトを見ているようで見ていない、ということである。女子生徒は、クラスメイトの外見を通り越して、その中身を見つめている。それでいて、おもしろくなさそうに、人間なんてくだらない、と言わんばかりに笑う。  

 だがその姿勢に、少年がなんでも分かったかのように達観しているような、そんないやらしさは自然と感じられない。その存在は、他者を寄せ付けないが、惹きつける。彼も、不思議と女子生徒にそれ以上の行動を取ることはなかった。

 最初、僕と女子生徒は、似た者同士かと思っていた。しかし、どうやらそれは全くの勘違いだったようだ。僕と女子生徒では、気味の悪さの度合いが違う。僕の気味の悪さは、一歩間違えれば怒りの矛先になるようだが、女子生徒の気味の悪さは、周囲が簡単に触れていいようなものではない。彼女が座る席と机の周囲は、切り取られた別世界のような空気がある。クラスメイトも教員も、それを言語化できていないだけで、なんとなく察しているのだろう。この数日間、結局女子生徒にかけられた声は、彼の勢いに任せた発言や脅迫を除けば、毎日の点呼だけだった。

 彼女を観察し、その近づき難さを日に日に実感していく僕だったが、それとは裏腹に、僕は限界を迎えていた。執拗な追跡と嫌がらせに体は疲弊し、強がる自分と弱い自分のギャップから、心も疲弊した。そのことで、家に帰るとすぐに床に伏してしまうこともあった。母は僕を心配しているようだったが、そうした境遇にいる人間にとって、心配ほど自分を侮辱する行為はない。だから、そのうち、それまで気にかけていた母もどうでもよくなった。

 大切にするものがなくなった者に、怖がるものは何もない。明日、女子生徒に話しかけてみよう。そのことで、触れてはいけないなにかに触れたことで、僕は本当にどうにかなってしまうのかもしれない。だが、それもまた、悪くない。



 翌日、僕は昼休みに学校を早退した。いや、抜け出した、と言った方がいいだろう。なんにせよ、僕は今日そこにいる意味を失って、こうやって町をうろついているのだ。


―― 女子生徒は教室にいなかった。


 女子生徒はここ数日間、一度も学校を休んだことはなかった。だというのに、今日に限って女子生徒は、いつものあの場所に座っていなかった。本当に、なにもかも上手くいかない世の中だ。

 

 道のりが駅に近づくと、僕は、あることを思い出していた。それはあの日、彼がスケッチブックを渡せと言ってくる直前、彼が一瞬ニヤッとした表情を浮かべたことを僕は見逃してはいなかった、ということだ。その上で、万に一つでも彼は僕を助けてくれるのではないか、この状況から救ってくれるのではないか、と淡い期待を抱いてしまった。

 それは、彼にあんな顔をさせてしまう自分を認めたくなかったからだろうか。そうだとするなら、結局のところ僕はどこまでいっても凡人なのだろう。誰とも関わらず、ひっそりと生きていくこと、それが僕の性格からして、一番楽な生き方であるはずなのに、僕はそんな自分に徹することができない。他人に冷たい態度を取りながら、どこかで人の温もりを求め続けている。周りより一歩退いて高見の見物を決め込みながら、自分もその輪に入りたいと願っている。なんてことはないという態度を取りながら、心は摩耗していく。一人で生きたいと思いながら、自分は独りでは生きていけないことを知っている。


 ・・・僕の正体は、一体なんなのだろう。


 気づけば、僕は脳裏に焼き付いて離れない、あの花壇の前に立っていた。そこへ腰かけると、誰もいないバス停を見つめた。どうやら、明日にはあのバス停は廃止になるらしい。

 スケッチブックを取り出した。そして徐に色鉛筆を握り、その光景を描き始める。誰もいない世界は、僕の目にどう映るだろう。

 しばらく経って、僕の手は止まった。描けない色があったからだ。あのバス停を注視するとき、そこには必ず視界を遮る障害物があった。だから気づかなかった。その影に隠れたベンチの上に、群青色の花が何本か置いてある。花弁はそれぞれ芯が入っているようにしっかりとしていて、茎はとても細く、中心に黄色い部位がある。生憎僕は植物に疎く、その花がなんという種類でどういった特徴を持つのかはわからない。ただその花びらと細い茎は、その淡い色と合わさってとても儚く見えた。それが、僕の憔悴し切った心に刺さった。強烈な色を周囲に放つことで外界を寄せ付けず、その結果あんな風にベンチに置きざりにされ、誰からも気づかれぬままただひっそりと朽ちていく、そんな姿を正確に描くことができれば、あの花を通して、自分の知らない自分を知ることができるのではないかと、本気でそう思った。だから、僕はそれを正確に描く必要性に駆られた。

 そんな妄想に乗せられて、僕は商店街の文房具屋に向かうと、どこにでもある二十四色の色鉛筆を購入した。

 しかし、今思えばあの時、店主の老人は僕の黒い影に気づいたのかもしれない。その顔は柔らかく微笑んでいたが、老人は憐れみと恐怖が入り混じった淀んだ目を、僕に、いやその先に向けていた気がする。


 商店街を抜け、ロータリーへ到着した時、僕は恐れおののいた、そう、彼の姿に。時刻は二時半を過ぎたところ、なぜ彼がここにいるのかはわからない。

 「やあ。」

 彼の口は、思ったより穏やかに開いた。


 彼の要件はつまるところこういうものだった。

 ――俺の燦燦たる嫌がらせを、お前は顔色一つ変えず受け流した。そんなことは人間の成せる技ではない。お前は本当に人間なのか、本当に人間だというのなら、お前にもきっと嫌がることがあるはずだ。そこで俺はお前が真に嫌がることはなにかと考えた。そこでふと、お前が俺に殴りかかってきたことを思い出した、そう、お前の弱いところはそのスケッチブックに隠されている。この前はそれがなにかを見つけることはできなかった。だからそれを見せてくれ、そうすればお前にもう手出しはしない。きっとする必要が無くなるからだ。


 ・・・こいつは何を言っているのだろう。

 彼の言っていることは、全てが的外れだ。

「なんとか言ってくれないか、一人で喋ってるわけじゃないんだ。」

「ただそれを見せてくれるだけでいいんだ、そんなに悪い話じゃないだろう。」

「せっかく救ってあげようとしているのに、ここにきて意地を張ることはないだろう。」

「もしあの光景がそんなに大事で、肌身離さず持っていなくては気が済まないのなら、ここで今、向こうの写真を撮ってやる。その写真を渡すから、そのスケッチブックを貸してくれ。それならお前も寂しくなることはないだろ。」


「なに笑ってるんだ、お前・・・。」

「おい、どこへ行くんだ!」

・・・。

 夏の到来を予感させるような陽気の下、誰もいない小さな町に、誰かの嗚咽が響き渡った。

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