第三章 決別
今朝の天気は快晴だった。その日差しは四月下旬のものとしては少し強く、僕は久しぶりに服の中に熱気を感じた。半袖になるには寒すぎるし、厚着をするには暖かい、なんて意地悪な季節だろう。皆春が好きだと言うが、僕は中途半端なそれがあまり好きではない。孤独が怖いのに、人に馴染むことができない、誰かと近づきたいのに、出てくる言葉は人を遠ざけるものばかり、そんな僕とそれは少し似ている。同族嫌悪というやつなのかもしれない。
・・・いや、そんなものは詭弁か。
電車のブレーキ音と共に、僕は目を覚ました。寝不足になるなんていつぶりだろう。朝の日差しが目を襲う。思わず目を細めると、目の前の扉が開いた。
僕が改札を抜けた時、時刻は既に八時十五分を回っていた。普通に歩いても、八時半の始業には間に合わないかもしれない。彼女の絵に夢中になる余り寝不足になっていたのに、それによって、肝心の実物を見ることができるかもしれない機会を失うなんて、なんとも馬鹿らしい話だ。
いずれにしても、世間の手前、朝から駅の目の前で居座っているわけにもいかないため、僕はおとなしく通学路へ向かうことにした。しかし、頭でわかってはいても、そんな思いとは裏腹に、視線はあのバス停の方に向いた。
ちらちらと後ろを振り返る僕は、その場に留まっていなくても、世間から不審に思われているかもしれない。
一度そう感じると、不思議なことに、目に入る人間すべてが自分にそういった視線を向けている気がした。僕は、そんな存在しない強迫観念から逃げるように、先を急ごうと足を速めた…。
ちょうど、その時だった。
・・・彼女だ。
それは突然の出来事だった。見覚えのある画が、僕の視界を完全に捕らえたのである。そこには、ここ数日、夢にまでみたあの光景が、再び広がっていた。
気づけば僕は、先程まで感じていた視線など気にも留めず、何かに導かれるように、鞄からスケッチブックと色鉛筆を取り出していた。そして、その足も、無意識のうちに花壇の方へ向いていた。歩きながらも僕の手は動き、花壇に腰かける頃には、僕の中で、既に絵画の構図が出来上がっていた。もはや、僕の頭の中から、母や学校、世間体といった雑念は消え失せ、その目には、彼女以外、なに一つ映らなくなっていたのである。
今思えば、この時、僕は彼女に憑りついたのかもしれない。
僕が再び自我を取り戻したのは、絵が完成した後だった。時間など、とうの昔に忘れていた。急に目を覚ましたかのように、びくっと飛び起きた僕に、向こう岸の道路を歩く老人が驚いた様子を見せた。
「今何時だろう。」
いうより先に、僕は携帯を取り出し、時刻を確認した。そうすると、液晶画面には、見慣れた美しい景色と共に、十六時四分という数字が表示された。それを見た僕は、ようやく我に返った。
「やってしまった。」
小さな呟きは、宙に舞ったあと、改めて僕の体を圧迫した。
学校に戻っても、授業は終わっている。家に帰れば、学校から連絡が回っているであろう母さんから、質問攻めに遭う。どちらにしても、これからの時間が億劫なものであることは確かだ。
・・・さて、どうしようか。
これからの行動を決めかねてはいるものの、このままここに座っていても、状況は変わらない。何時間経とうと、ほとんど動かない彼女を尻目に、僕は携帯から、現実へと目を向けた。
辺りを見回すと、駅構内は、既に学校帰りの学生たちで溢れており、今日一日で疲れ切った様子の学生も多々いる。そんな人たちを見れば見るほど、僕はここ約八時間の自分の行動を恥じた。一時の感情に流されて、自分の義務を怠るような人間を、僕は一番嫌っていたはずなのに、正にそれを体現するかのような行動を取った自分に、僕は失望と同時に違和感を覚え、二度とこんな事は無いようにと、自分に言い聞かせた。
しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。
「今度はお絵描きですかあ?」
なんの偶然か、突如として前方に現れた連中から、聞き覚えのある、だが、今最も聞きたくなかった声が、聞こえた。
彼らの声を聞いたとき、なぜ彼らへの拒絶が、普段より一層増していたのか。それは、もちろん自分が一日学校に行かなかったことへの後ろめたさが影響している部分もあった。しかしそれ以上に、この、彼女が存在することのできた、彼女だけの奇跡的な空間に、そして、それをこの世界でたった一人描く僕だけの空間に、彼らが立ち入ろうとしていたことが、大きな原因だった。この非現実的な世界に、彼らという強烈な現実が介入することで、もう二度と、僕はこの世界に戻ることができなくなるのではないか。馬鹿げた話だと思うかもしれないが、その時の僕には確かに、自分の家に、いきなり知らない誰かが押し入ってその部屋を踏み荒らしていくような、そんな気持ちの悪い感覚が、かけめぐっていたのである。
いずれにしても、僕は彼らに、怒りとも嫌悪とも取れない、それでいて確実な負の感情を隠せずにいた。
これはさすがにイライラするんだけど。
サボってるやつは皆こんなことしてるのか、もう一人の奴も、今度探してみようぜ。
自分だけ特別だとでも思ってるのか?
こいつ、教師にチクってやろうぜ。
クラスメイトが口々に発する罵詈雑言が、僕を貫く。誰がどう考えても、悪いのは僕なのだから、普段のように言い返す言葉は見つからない。ただ、この場所を汚すことだけは、誰であっても許されない。それは、僕自身だけの問題では無いからだ。
「いや、そんなことしても仕方ないだろ。」
そんな状況で声を上げたのは、いつの日か僕に話しかけてきた、彼だった。僕が彼を見上げると、それは優しげな眼差しをこちらに向けた。毎日のようにつれない態度を取り続け、あの朝、自らその溝を決定的にした僕に対し、助け舟を出してくれているとでもいうのだろうか。嫌々授業を受けて帰ってきた彼らを尻目に、自分勝手な理由でその義務を放棄し、のうのうと絵など描いていた自分を、そして、今でも全身から敵意を曝け出している僕に、それでも救いの手を差し伸べてくれるとでもいうのだろうか。もし、本当にそうだとしたら、彼は僕を…。
一抹の希望を抱いてしまった僕を知ってか知らずか、再びこちらを振り返った彼は、今までに見たことがないほど優しげで、物腰の柔らかい表情で口を開いた。
「そのスケッチブック、ちょっと貸してくれよ。」
やはり、僕は甘かった。
先程までの期待は、彼の一言で無残にも崩れ去った。一時でもそんな希望を浮かべた僕を嘲笑うかのように、現実はその非情さを顕にし、やはり、世界に、人生に、人間に、そのような無償の愛や施しなど存在しないということを、その身を持って痛感させた。
その時の僕の表情は、たぶん本当に悪かったんだと思う。何人かの女子は一歩たじろいだが、彼は、若干顔を引きつらせながらも僕に迫った。
「その、なに描いてるかよくわかんないやつ、僕たちに見せてよ。」
自分の人生が否定されたことへの怒り、そして彼らへのフラストレーションが限界を超え、あふれながらも、僕はまだ、すんでのところで理性を保っていた。そしてそこから、なんとか自制の言葉を絞り出す。
「もうやめてくれないか。」
それは、僕の本気のお願いだった。
「は?お前が悪いんだよね。開き直るなよ。」
自分が悪いことなど百も承知だ。それでも、この空間と彼女を、そして僕の存在価値を奪わないでほしかった。
いよいよ感情に制御が効かなくなってきた僕は、やめてくれ、と無意識のうちに大きな声で発していた。驚いた様子を見せた周りの連中とは裏腹に、彼の顔はより一層歪む。
「お前、あんま調子乗るなよ。」
それでも、僕の心は止まらない。
「これで最後にしてくれ!」
これで終わると思った。彼らとの関係も、この苦しい時間も、あの朝もそうだったのだから。僕になど構ってもいいことなんて何もない、それが彼らにも理解できるだろうと、そう思った。
だが、彼があの時のように静まることはなかった。語気が非常に強まった、そんな罵倒が彼の口から発せられた。それは、僕を酷く醜く卑下する内容であったが、それに動揺する僕以上に、周りのクラスメイトたちが、彼の豹変ぶりに戸惑っているようだった。やめな、やめな、と彼をなだめる声が聞こえる。
そんな様子を見ていると、僕はなぜか頬が緩んだ。それは、彼らへの些細な抵抗の一つだったのか、それとも、僕ごときに腹を立てている彼が単純に滑稽に見えたからなのか、どちらにしてもそれは、最悪のタイミングで無意識に僕の表情に浮かんでしまった。
「おい、その紙屑、早くよこせ。」
次の瞬間、彼は周りの制止を振り切って、僕に飛びかかってきた。予想外の展開に、僕はなすすべなくスケッチブックを奪われた。
「おいおい、なんだこの絵。もしかして、これ向こうの絵か?」
・・・やめろ。
「この真ん中のはあそこの女か?」
・・・返せ。
「学校サボってなにしてんのかと思えば、女のストーカーかよ。気色悪いのもここまで極まると清々しいな。皆そう思わないか?」
無造作にページを捲る音。くだらない罵倒。何一つ正しくない言動。その全てが、僕の感情をぐちゃぐちゃにした。心の防波堤が崩れ、生きている意味も、価値も、ぎりぎりのところで抑えていた負の感情が、全てを飲み込んだ。
「・・・いい加減にしろ!」
気づけば僕は彼に殴りかかっていた。もはや自分のことなどどうでもいい、その絵も、生きる意味も。最後に残ったのは、彼女の世界を汚されたことへの怒り、ただそれだけだった。
最後に、彼の怒号が聞こえてきた気がした。その顔に、あの時の面影は何一つ残っていなかった。
それからのことは、よく覚えていない。僕が殴りかかったのを見て、さすがに周りが止めに入ったのか、僕は彼から殴られてはいないようだった。
「こいつ、明日からハブるわ。」
最後に彼がそう吐き捨てて、絶対に許さないとか、明日から覚えとけとか、ぼやきながら去っていったのはかろうじて記憶に残っている。
「元々、ハブられてるようなものじゃないか。」
一人取り残された僕は、消え入るような声で、そう呟いた。自分でも、その独り言が苦し紛れの強がりであることはわかった。ただ、そうでも言わなければ、僕はどうも平気ではいられないらしい。
交差点の向こうには、もう誰もいない。気づけば僕の足元には、小さな灰色の水たまりができていた。
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