第8話

その日の一時間目の授業は、先生の様子がおかしかった。


二時間目の授業は代理の先生がやって来て、三時間目は自習になった。


学校で何かが起きている。


「なんか、竹山先生が消えたらしいよ」


生徒たちの間で、自由な噂が飛び交う。


「先生の住んでるマンションが、ピンクの柱に飲まれたんだって!」


四時間目は普通だった。


終業のチャイムが鳴ると同時に、茶色の彼は教室から出て行く。


どこへ行ったんだろう。


こんな時でも、あいつはピアノを弾きに行ってるのかな。


落ち着かない昼休みを過ごしている。


非常事態が起こっているというのに、教室にいないなんて。


それとも、隣のクラスの彼女のところなのかな。


こんな時に、アイツは何を考えているんだろう。


世界がもうすぐ、消えてなくなるかもしれないっていうのに。


照りつける太陽のせいで、午後を過ぎても日差しはまだ強かった。


追肥はしたし、水やりも不要。雑草も問題ないし、ピアノの音も聞こえない。


「帰るか」


何にもない放課後は、何もない私のいつもの日常だ。


帰る電車の車窓から、そのピンクの柱が現れてから消えるまでの、数秒を眺めていた。


あの光の中で何が起こっているのかなんて、知らない。


そんなことはどうだっていい。


今の私にとって大切なのは、そんなことじゃないんだ。


携帯にはSNS経由の通知が山のように入ってくる。


54件。


あの光のことで騒いでいるのなんて、ネットの中だけだ。


現にこうして電車に揺られている人たちは、外の様子に全くの興味関心はない。


見慣れた風景はガタガタと流れてゆく。


平凡すぎるその景色に、たとえ奇妙なピンクの柱が混じったとしても、この私から見る車窓の風景は変わらない。


そんな何でもないジャガイモもすくすくと育ち、収穫の時期を迎えた。


先日園芸部の無駄によく出来たアプリが、そろそろ掘れよと教えてくれたので、いつにしようかと考えている。


今は水やりにも行っていない。


土を乾かすために、音楽室横の菜園には行かない。


教室にあいつが入ってくる。遅刻ぎりぎりだ。


彼が席に着くのを待ってチャイムは鳴る。


そういえば同じクラスにいるのに、教室でちゃんとその姿を見たのは、これが初めてのような気がする。


ここでの彼はまるで別人で、私にとっての彼は、いつも人垣の向こうか壁の中の人でしかない。


ジャガイモの収穫をしないと。


カラリと晴天の続く空模様に、外を吹く風まで爽やかすぎて、この空気はまるで異世界から流れ込んできているみたい。


授業は相変わらず退屈で、先生の放つ面白くもない冗談に苦笑している。


「本間くんって、彼女できたらしいよ。隣のクラスの宮下さんだって。すごいねー」


園芸部のサイトがどんな計算で出したのか分からないけれど、算出してきた収穫日はどんどん過ぎてゆく。


青々としていた葉が、黄色く枯れ始めている。


「何がすごいの?」


「二年生になってから、何人目だっけ?」


「まだ初めてじゃない? 一年からだと……三人目?」


スマホを取り出した。


園芸部のアプリを開く。


そこへ【本日ジャガイモの収穫をします。15時開始予定】と打った。


更新して閉じる。


画面を飛ばした瞬間に、なぜか急に不安が襲ってきた。


「ちょっと、トイレ行ってくるね」


たとえ今が昼休みでも、もうジャガイモに手をかけるべき作業はない。


だから教室から逃れられない。


どうしよう。


いきなりこんなことを書き込んで、何かもっと他のやり方があったんじゃないの?


廊下に、宮下久美が歩いていた。


友達と二人、高く耳障りな声で騒いでいるのとすれ違う。


なにがおかしくて、あんなに笑っていられるのだろう。


半袖になったばかりの夏服と、一瞬目があったような気はするけど、特に仲がよいわけでも挨拶をするような間柄でもない。


白い制服の袖から細い腕が伸びる。


青いだけの空がガラス窓の向こうに広がっていた。


園芸部員は私一人しかいないからいいんだけど、顧問に一言ぐらい声をかけて、許可とっておいた方がよかった? 


一人で掘って、どれくらい時間がかかる? 


もっと大々的に宣伝して、イベントみたいにすればよかった? 


いやいや、3列5本たった15本のジャガイモだ。


そんなに時間はかからないだろう。


無理だと思ったら、1列ずつ収穫すればいい。


出来だってどうだか分からないような代物だ。


変に失敗したジャガイモを人目に晒すより、こそっと終わらせた方がいいと思う。


どうせいつだって誰も園芸部に興味はない。


何にも問題はない。


昼休みの廊下でゆっくりと手を洗い、丁寧に丁寧に手を拭いている。


ようやくチャイムが鳴った。


その鳴り終わるのを待ってから、私は教室に戻る。

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