2 仁愛
エルディグタール内における身分差は絶対的なもの。
本来下働きは身分が上であるシルバーやガーネットと口をきくことすら許されていない。
それなのに声をかけ、しかも人形を使うなどというふざけた方法をとったなんて、この場で殺されてもおかしくない状況だ。
シルビアに見つかった男が恐怖で固まる。
「シ……シルビア様、も……申し訳ございません。決して、悪気があったわけでは……」
怖がらせるつもりがなかったシルビアは、あまりにも恐れおののく男を前を気の毒に思いはじめた。
相手が何者であれ、死にそうなほど憔悴しきっていた心を慰めてくれたことに変わりはない。
シルビアはしどろもどろになっている男に優しく微笑みかけ、自分もその場にしゃがみ込む。
「分かっています。そんなに怖がらないでくださいませ。私に話しかけてきたのはあなたではなく、その手に持っているウサギさんなので大丈夫ですよ。そして、今は私から話しかけたのですから安心してください。それより、よろしければあなたのお名前を教えてくださいますか?」
「……エーファンと申します」
「そう、エーファンとおっしゃるの。素敵なお名前ですね」
シルビアからにっこりと笑いかけられ、頬を赤らめるエーファン。
侍女が戻ってくるまで数分の会話を楽しんだ二人は、次に会う約束をせずに別れた。
身分の異なる二人はこの日以降、罪と知っていつつも侍女の目を盗み、ささやかな密会を重ねた。そして本人たちも知らぬうちに、儚い恋の芽を育てたのだった。
エーファンと出会って数ヶ月後。
すっかり元気を取り戻したシルビアが、親代わりの親族の部屋へ呼ばれた。
本当の両親は9歳の時に亡くなおり、子どもに興味の無かった彼らから大切にされた思い出はない。親族も特に交流が深いわけではなく、シルビアとは別の塔に住んでいる。そんな希薄な関係の彼らと会うのは久しぶりだ。
部屋に入ると、シルビアとよく似た真珠色の髪の毛を持つ男女がテーブルの向こう側に座っていた。着席を求められ、シルビアも向かい合って座る。
そしてまもなく伝えられた衝撃的な言葉に、シルビアは思考が停止した。
「シルビアの婚約が決まりました。お相手は、この国の次期国王です」
「私が、次期国王と……婚約⁉」
「ガーネットに生まれてこの上ない誉。良かったな、シルビア。親族として鼻が高い」
国王との関係が生まれ、自分達の地位が上がることに喜ぶ二人。
それとは正反対に、シルビアは静かにうつむく。
二人は引き続き何かをしゃべっていたが、シルビアの耳には何一つ入ってこない。頭の中は、次期国王よりもライオットのエーファンのことでいっぱいになっていた。
相手が満足するまで話を聞き続けたシルビアは、アイザックの代わりに来た新しい護衛騎士に付き添われて部屋にもどってきた。しかし、あまりの衝撃にどうやって帰って来たのかさえ覚えていない。
部屋に入ると、自分の元を去って行ったアイザックの背中の幻影が見えた。
あの時の後悔が津波のように押し寄せる。
……いつの間に、私はこれほどまで彼に惹かれていたのでしょう。
婚約の話を聞いたことでシルビアは自覚した。
同じ後悔は繰り返したくない。例え身分が違おうと関係ない。
自分を気遣ってくれた優しいエーファンに、一度でいいから抱きしめてほしい。
シルビアは生まれて初めて自分の望みを強く願った。
「わ、シルビア様⁉」
「え? あっ!」
名前を呼ばれて目を開けると、シルビアはエーファンの部屋、しかも椅子でくつろいでいるエーファンの膝の上にいた。
突然の状況に、シルビア自身も驚いて口に手を当てる。
「シ……シルビア様? どうなさったんですか?」
「どうしてもあなたに会いたいと強く願ったたら、ここにいました」
「シルビア様が、俺に?」
シルビアは、エーファンに会いたいと強く願った結果、短距離の転移をしたらしい。
初めての経験に、シルビア自身もエーファンと同じように何が起きたか信じられないでいた。
「まさか、こんなところにいらっしゃるなんて……いや、あの、こんなところというのは、部屋のことで……」
自分の膝の上に、美しいガーネットのお嬢様がいることにドギマギするエーファンが、出会った時のようにしどろもどろになっている。
いくらシルビアが願った結果だとしても、清潔とはお世辞にも言えない下働きの小さな部屋は、とてもガーネットが来るような場所ではない。
エーファンが、一瞬でもこんな場所に滞在させて申し訳ないと思っていると、膝の上にちょこんと座るシルビアが切ない顔で見上げた。
「シルビア様?」
「恥をしのんで申し上げます」
意を決したシルビアが、潤んだまなざしでエーファンを見つめた。
「私はエーファンに恋をしてしまいました。罪だということは分かっています。しかし、想い人に気持ちを伝えられないまま後悔したくなかったのです。どうか、哀れとお思いなら、一度で良いので私を抱きしめてくださいませんか?」
「シルビア様……」
シルビアの小さな唇が、緊張で震えつつも一生懸命に想いを伝えた。
これは夢だろうか。
一生かけても届くことのない美しい高嶺の花の申し出に、エーファンは自分の目と耳を疑う。
しかし、目の前で勇気を振り絞って震えるシルビアは紛れもない現実。
その姿にエーファンが自覚した。
わざと気づかないふりをしていた、持つことすら許されない自分の願いを。
これが夢だとしても構わない。
エーファンは幸福な夢が覚めてしまう前に、愛しいシルビアの細い体に手をまわし、そしてきつく抱き寄せた。
「一度と言わず、何度でも」
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