第四世界 原初

 泥沼の底、血と泥と涙で汚れた彼は咽び泣く。希望が断たれ、未来は崩れ落ち、絶望の淵に彼はいた。灰色に濁るその視界はその日の天気のように、暴走する理性はその日の天気のように、暗く、深く、曇ってゆく。長く永く寄り添った理想と別れ、新しく芽生えた目標を手繰り寄せる。どうせ何もかも救うことが叶わないのなら、せめて——




 土砂降りの雨が降る。石造りの街には誰もいない。古びた歴史を感じさせる街並みを視界に入れた瞬間、脊髄から脳まで電撃が走る感覚に襲われる。うずくまるホープは頭を抱えて、何事かと思案する。何か知っている、この街について自分は何か忘れている。失った自分がここにいたことがあることを無意識に自覚した。

 一体、どれだけの時間をそのままでいたのか。何秒、何分、何時間。分からない。一瞬だった気がするし、随分長くここにいた気もする。意識を取り戻した時、近くにいたはずのソロがいなかった。彼の身に何かあったのかもしれない。前の世界では介抱してくれた。一瞬でも彼を恐れたことを後悔するくらいには、ソロのことを信頼していた。探さなければ、大変なことが起きる気がする。

 ホープは何故かそう思った。理由があったわけではない。無意識にそう思ったのだ。

 大通り沿いを道なりに進む。大通りは石畳で舗装されていたが、裏路地はぬかるんでいた。しかし、裏路地に誰かの足跡を見ることはなかった。跡の残らない大通りを彼が進んだかは分からないがこちらの方が可能性がある。しかし、方角があっているかも分からない。進めば進むほど、忘れていた何かに頭が刺激される。頭痛は目眩を起こし、真っ直ぐ歩くこともままならない。今のホープに出来ることは、とにかく進むことだけだった。

 しばらく進むと大広間に出た。中央には噴水と花壇がある。祝日には多くの人が集まる憩いの場になるであろうそこも、誰もいなかった。灰色の空を見上げ、一体どこにいったのかと思案すると、視界の端に何かが見えた。城だった。防衛機能は水堀の上に昇降式の橋があるのみで、居住性や豪華さが重視された壮大な城。そこだけがまるで別空間であるようにキラキラと輝いているように見え、その光景はホープの傷付いた記憶をほじくり返すように、焼印を押されるような激痛を招いた。焼き付ける痛みに涙を浮かべながら、後退り、逃げるように城から背を向け、城の正面の道を進んだ。

 歩む、逃げるように。彷徨う、蓋をするように。思い出したくない。思い出さなければ、平穏でいられる。思い出すためにここまで苦痛を味わなければならない記憶なんて知りたくない。それでも、勝手に世界を移動してしまうこの力はホープから一切の自由を奪っている。どこかで定住することは叶わない。尤も、録な世界がなかったわけだが。仮にこの先それを見つけても自分の居場所はそこにない。どうせすぐに転移してしまう。最悪の気分だ。

 また、広間に出た。城から真っ直ぐ道を進んだ先にあったこの広場はやけに閑散としていた。今のところ人の気配は無かったので、どこもかしこも閑散とはしていたが、ここは明らかに異質。ホープでも分かる死の気配がここにある。原因は明らかだった。血に濡れたソレの近くには四方から伸びた枷が転がっている。ちょうど手首と足首を縛るのによい代物だ。そこにあったソレは断頭台だった。

 動悸が激しくなる。呼吸が浅くなり、ただでさえ目眩が止まらないのに、血の気が失せていくようで頭がぐらぐらしてくる。寒い。震えが止まらない。怖くて、恐くて、辛くて、苦しくて、精神はとっくに限界で、だからなのか、あり得ないものを幻視した。


 黒いフードを被った真っ赤な仮面の男。


 男かどうかなんて正直分からないけど、その背丈ほどある巨大な斧を担ぐその姿が、間違いなく危険人物であることを認識させる。認識させるのだが、体が動かない。手足が言うことを聞かない。呼吸が乱れる。腰が抜けたようにへたり込む。息ができない。ただ、眺めることしかできない。ゆっくりと近づいてくる彼を、斧を振りかざす彼を。自身の頭上で斧を振りかぶった瞬間、一陣の突風が突き抜ける。彼のフードがはだけ、仮面が吹き飛ぶ。その仮面の向こうにある表情を幻視する。ギリギリの精神が、壊れかけの心が見せた悪夢の最期、そこにあった光景は、笑顔だった。穏やかで、恐怖はなく、これから何が起きるのかまるで理解していないと思わせる、そんな呑気な笑顔。ただただ、気持ち悪かった。



 ザーザーと雨が降る。頭に響くノイズのように。ゴーゴーと風が吹く。頭に響くノイズのように。そんな雨を風を仰向けで受け止める。どうやら、気を失っていたらしい。広場を見渡せば、さっきの男はいない。当たり前だ、分かっていたことだ。感じなかった、感じれなかった、死の恐怖。血濡れた断頭台を見る。己の手足の傷を見る。首元の傷跡を指でなぞる。よく見れば、断頭台の近くには、薪だろうか、一部が焦げた木材もある。雨風にさらされ、散らばっていたから気が付かなかった。体中にある火傷の跡、血塗れの服。あぁ、間違いない。



 僕は、ぼく、ぼ......わ、わた、私は、そうだ、私は——




 ここで、死んだのだ。




 ザーザーと雨が降る。頭に響くノイズのように。ゴーゴーと風が吹く。頭に響くノイズのように。



 記憶が押しては引いてゆく。あっちへこっちへゆらゆらふらふら。思い出したような、思い出していないような。ぐらぐらする頭じゃ考えられない。彼を、ソロを探さなければ。あぁそうだ。もともとそのつもりでいたのだ。僕が、私が、ぐちゃぐちゃになる前に、助けてくれ。

 街中を当てもなく彷徨うこと、どれぐらたったのだろうか。数分か数時間か、時の流れを認識する術がなく、考える余裕もなかった。まぁ、しばらく彷徨って、ようやく郊外に出た。田畑が目立つ、ポツポツとしか家がない。急に田舎に来た感覚だ。フラフラと歩を進めること更にしばらく。小屋、のような何か、その近くにもう懐かしくすら感じる背中を見つける。彼は水溜まりに座り込んでいた。彼はうな垂れていた。彼は、震えていた。

「……ソロ?」

 静かに声をかける。ゆっくりと振り返るソロ。天気は雨。彼の顔を濡らすそれが雨粒なのか涙なのか、分からない。ただ、今にも壊れそうな、彼もまた、精神がギリギリの状態のようだ。ここで何があったのか。何が彼をここまで追い込んだのか。さっきまで限界だったにもかかわらず、ホープはしっかりと歩を進める。

「ソロ?何があった?ソロ!しっか、うわ」

 泥色の水溜まりを掻き分け、ソロの元へ、行こうとして体勢が崩れた。足が付かない。多少気力が戻っていたとはいえ、精神と体力が限界だったか。違う。何かが、いる。泥に、否、その底に潜んでいた闇に吞み込まれる。溺れる意識が見たのは、こちらを見て、目を見開きギョッと焦ったソロが何かを叫んだ姿。

 深く、暗く、濁っていく。絶望がすぐそこに。苦痛はすぐ隣に。あなたを連れて沈んでゆく。ブクブク沈んでいく。まずい、体がマヒしている。意識が動かない。底にいる闇がニタリと笑うのを感じる。アレは何だ。アレはダメだ。アレは良くない。逃げなければ、それなのに体は重く、動かない。沈んで、沈んで、このままでは——




「ホープ!しっかりしろ!」



 手を掴まれ、引きずり上げられる。必死の形相のソロが視界に映る。よかった、助かった。

「ガハッ......ゲホッ......何が、どうなって。ソロ、ありがとう助かった」

 息を整え、ソロを見ると、彼は信じられないものを見るように、上空を眺めていた。つられて、彼が見ているものを見る。割れ目だ。空が割れていた。何が起きているのか、ぐらぐら揺れる頭を休めるために膝をつくと、気が付く。揺れている。本当に揺れている。グラグラ揺れている。大気も大地も世界そのものが揺れて割れていく。世界が崩壊していく。石造りの街も絢爛豪華なお城も何もかもがバラバラに、そしてついに足元の大地も崩れていく。何もかもが落ちていく。

「ホープ、私に掴まれ!」

 言われた通りに彼の手を取る。ソロは何かを口ずさむと落下は緩やかなものになった。

「アレは……まさか」

 ソロは奈落の底を見ていた。そこにいたのは、ぐるぐると闇を纏うナニカ。回転し続ける闇の衣でその向こうまで見通すことは叶わないが、ソレがニタリと笑うのを感じた。



 ぐるぐる、ぐるぐる渦巻く。悪意が、憎悪が、殺意が、嘲笑が、害意が、毒気が、邪気が、邪悪が、怨念が——




『ククク……感動の再開だな』


 ぐるぐる、ぐるぐる——

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