第三世界 不屈

 世の中大抵のことは気が付いたときに行動すればどうにかなる。大切なのは選択することだ。まあいいやと投げ出すか、ちょっとひと踏ん張りするか。しかし、中には気付いたときには手遅れというケースもなくはない。残念ながらそういったものに限って前触れというものはなく、突然訪れる悪質な運命だ。そんな時はどうするか?そうだな、潔く諦めるて死ぬか、運命に逆らって死ぬか。例外はあるだろうけど、それは例外的な奴に限る。大抵の奴に与えられる選択肢はこの2つだけさ。


 最初に違和感を覚えたのはいつだったか。記憶はずいぶんと曇っている。もう思い出せないが、そこはどうでもいい。考えたって仕方のないことだ。なぜならその時には既に手遅れで、今はこれをどうするかを考える方が優先される。日々濁っていく思考を最大限に回転させる。誰かに相談することはできない。もしもこの先、奴に気付かれたら強行手段をとられかねない。周囲への被害は免れないだろう。全て己で決めなければならない。例えその決断が、我々人類の希望の光に影を落とすことになったとしても。

 まず、必要としたのは邪魔されない環境。これは確保した。ずっと構想段階だったが、バカの助言もあり、何とか形になった。あいつを騙すことになったが、俺の使用目的についてなんてどうでもいいだろう。チャンネルは切り替えた。今俺がいる空間は何人として入ってこれない。しかし、種が植え付けられている以上時間稼ぎにもならない。次に必要なものは不可侵の逃亡先。やるなら今、まだ影響が薄い今しかない。


 そんなときに目についたのは、先生から貰ったペンダントだった。


「先生、まさかこうなることを……。いやないな。他の連中はともかく俺は騙されんぞ。あの人はそんなヤツじゃねぇ。強くもなければ優秀でもない。そんな人が未来予知?ありえねぇ。まぐれだ。たまたまだ。そう、俺は最高に運がいい。それだけさ」


 まぁ、逃げることしかできない状況に追い込まれた時点で最低に運が悪いのだが、そこは口にしない。既に無いに等しい運気がマイナスに振り切って爆発しかねない。

 先生は魔力とは生命の源からくると仮説を立てていた。バカも同調していたし、たぶん間違いないだろう。確信はないが、今はこの方法しかない。


「不安だな。これ、失敗したら人類終わるか?」


 もし、先生の仮説が間違っていたら。

 もし、途中で失敗したら。

 もし、こいつに気が付かれたら。

 もし、あいつらに被害が出たら。

 もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし、もし……


「ウッ……クソが……なんで……どうすればいい……教えてくれ、せんせ……」


 泣きたくなる。思考がまとまらない。『もしも』なんて考えても仕方ないのに、その果てにある最悪の可能性が頭をよぎる。分からない。分からないけど、やるしかない。失敗しても成功しても希望はまだある。一人は帰らなぬ旅に出た。一人はまだ子供で、二人はそれぞれの使命のため国を飛び出した。けど、まだ二人。……不安だ。よりによってあの二人か。一人は雑魚だし、もう一人は優しすぎる。手元に残っている希望が弱々しい。


 濡れた頬を拭い、ペンダントを手に持つ。どうせ方法は他にない。必ず起きる最悪のケースを想定して、飾られた翡翠に魔力を流し入れる。準備はできた。さらに死霊魔術に闇魔術、封印魔術で己の魂を一部削り取り、翡翠に封印する。直後、雷に体を焼き切られるような、自分が消失焼失するような吐き気を催す感覚に一人悲鳴を上げる。白目を剥き、泡を吹きながらも隠蔽魔術で痕跡を削除。だめ押しで自分自身に対する、闇魔術による記憶削除の準備を始める。本格的にあのクソムシが顕現した際に、記憶を読まれたらアウトだ。とはいえ、こっから俺は絶望の縁に立たされることになるわけだが、上等じゃないか。開き直りとはキャラじゃないが、もはやどうしようもない。成功したかどうかも分からない。だからこそ、最後まで計画通りに実行する。記憶削除の闇魔術と隠蔽魔術を遅延発動させ、その僅かなタイムラグの間に催眠魔術を仕込む。人類も悪魔も仲間も自分自身でさえも騙してやる。

 演じてやるよクズ野郎。




 時が流れる。


 うなじに気配を感じたとき、もう手遅れだったと絶望した。誰もいない部屋で咽び泣く。もはやどうしようもない。自意識が手元にあるのは遊んでいるからか。感情があるのは面白いからか。実体がないから殺せない。自由がないから自死もできない。操り人形として弄ばれる。どうか、一刻も早く飽きてほしい。ただ殺されるだけならまだマシだ。でも、あり得ない。利用価値がある俺はどう足掻いても使い潰され、悪影響を及ぼすことになる。


 時が流れる。


 戦場の一つで負けたらしい。どうにかしなければと議会は荒れるが知ったことか。もう手遅れだ。事態はもっと深刻で、もうどうしようもできない。そして、それを伝えることすら出来ないでいる。言おうとする度、見えない何かが喉を締め付ける。口を塞ぐ。結局俺は役立たず。散々いきり散らかした果てがこれとは情けない。


 時ガ流れる。


 誰かが何か言っている。誰だったか、顔がよく見えない。声がよく聞こえない。何か、の報告?ネームレス……名無しの……はぁ、あれ?俺はなんてなまえだっけ。


 時ガ流レル。


 出ていった。また出ていった。みんな見限り始めた。もうこいつはダメだと。でも、なんで、どうしてお前まで。やだ、やめてくれ、やめてよ、いかないで。


 ときガながレル。


 あのかた が しょうかい してくれた あたらしい なかま もう だれも うらぎら ない


 トキガナガレル。


 誰かの剣が届けられる。なんでだろう。なにかあったのか。それは細くて、軽くて、力がなくても振り回せる。豪腕で叩き斬るのではなく、力がなくても戦えるように造られた。水が流れるように敵を斬るそんな、けん。


 ア


 こ、れは、たしか。


 アア


 間違うはずがない。記憶にある通り。覚えている。忘れるはずがない。だって、これは。


 アアア


 じゃあ、これが、これだけでここにあるのは。



 アア、ア



 アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアなにを、なにを、なにを、なにを、していたのだ。わたしは、ぼくは、おれは。どうして、なアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアんでこうなるまでほうちした。お、おれ、俺は、何を、していた。クソがッ!!ふざけるな。アアアアアアアアアアアアアアアアアアアア何故消えた。何故捨てた。何故行った。何で、逝った。分からない、解らない、判らない。



 ■■■■■■■


 時が流れると共に己を失っていく。白いキャンパスにドス黒い染みが広がるように、黒い虫が全身を犯していくように。ねぶって、きって、かんで、つぶして、もてあそぶ。思考は検閲され、記憶を整理され、口から飛び出す言葉は歪んでいく。抵抗はしなかった。する必要がなかった。なぜならこの方は、矮小なわたしより圧倒的に崇高で、わたしが欲しかったものを用意してくれて、裏切り者のクズ共に制裁するのを手伝ってくれる。だから、わたしは——







「オエェェ……きもちわるぅ……」


「おーい。大丈夫かー?ホープくーん」


 吐き散らかすホープをソロが苦笑しながら介抱している。


「人様の精神世界に土足で上がり込んだ挙げ句、吐瀉物のお土産とは、素晴らしい教育を受けていたらしい」


 明らかに不機嫌な男の声が響く。


「え、君の故郷ではこれが文化なのかい?そいつは知らなかった。私もホープを真似するべきかな」


「んなわけあるかい。お前、すっとぼけてんじゃねぇよ。お友達のソレ、さっさとどうにかしてくれない?迷惑」


 今回の転移先の住人はたいへん柄のよろしいお兄さんらしい。



 彼?との出会いは数刻遡ることになる。



 倒れたホープを支えていると世界が変わる。そこは翡翠色に輝く不思議な世界。床や天井はない。誰もいない。何もない。自由という名の不自由が支配する虚無の世界。空間全体に魔力が満ちているのを感じる。それは世界に帰属するものとは別の、誰の姿もないのに感じるそれは、個人に流れる魔力であり、それが指し示す解とは——


「誰だァ、あんたらァ」


 どこからともなく声が響く。やはり声の主の姿はない。そこで理解する。空間そのものが声を発している。つまり、ここは誰かの魂の中。違う、完全でないツギハギだらけで明らかに異質。ならば擬似的な魂?否、それも正しくない。空間に満ちたこれは、それでも正しく人の魂だ。だから、これは誰かの魂が封印されている。そう考えられる。一人の魂を何度も削り、その度に封印していった結果、こんな歪なツギハギだらけの魂が出来上がったというのか。しかも、他に誰の魔力も感じないところから、封印を施したのは封印されている本人だろう。己で己を封じているのだ。自身の魂を削る行為、常人の所業ではない。それほどまでに追い詰められていたのか。


「まずいな」


 思わず口から漏れる。戦慄が全身を迸る。ここからの離脱方法に思考を全力で回したソロは、それを口にすれば声の主がどう思うか、そんなことすら考えることも出来ないでいた。


「まずい、とォ?何がだァ、侵入者ァ。答えてみろよォ!てめェ誰の差し金だァ!あのクソムシかァ?んゃ、そうは見えねェなァ」


 まずいとは、そういうこと。引きこもるしかなかった者の世界に入り込んだ。自分達は侵入者で、敵と見なされる危険が危なくって、この状況どうすればいい。頭がこんがらがる。ホープを連れながら戦うか?どうやって?世界そのものと一戦交えろと?生きてる世界だぞ。めんどくせー。


「我々は逃げてきたんだ。強力な呪いに犯された土地で同行者もこの有り様だ。なぜ、ここに現れたのかはよく分からんが、詳しく話すから殺意を……殺意。感じない。なんで?どうして?」


 焦った頭で考えながら喋っていると、途中で声の主からは殺意を感じないことに気が付く。


「お前はアレだなァ、頭がいいだけのバカだなァ。そこで伸びてる奴が危険分子かはこれから判断するさァ。それに、俺は実体がないからなァ、仮にそいつが危険分子だとしても俺には殺せねェ。しかし、残念だよなァ。隣のソイツは置いといてェ、お前はダメだろ。絶対にここで殺しておくべきだ」


 やる気のなさそうな声色が一転、明確な殺意を向けられ背筋に寒気が走る。こいつは、のことを知っているのか。


「なぜ?私のことを知っているのですか?」


「知らん。ただ存在そのものが気色悪い。意味が分からん。何なんだお前は。それに、思想的にも最悪だ。俺の正義は1を犠牲に残ったもの全てを救うことだが、お前は逆だ。1のために全てをひっくり返す、そんな奴だろ。実体があるのなら今すぐここで首を搔き切ってほしいのだがねェ」


 無意識に口角が吊り上がる。断言するのはこの空間が彼自身だからだろうか。


「断る。やだよ、痛いじゃん」


「だろうなァ。もう頼まねェよォ」


 それっきり互いに言葉を交わさなくなる。無言が続き、緊張でクラクラしてくる。攻防無きにらみ合いは、隣で延びていたはずのホープがフラフラと立ち上がり、盛大にぶちまけたところで終わりを迎えた。

 ホープの意識が完全に快復する前に、彼が起こした惨状をで消滅させる。空間の主が見ているのを感じるが、特に咎める様子はない。

 さて、この後どうしたものか。この空間を処分したいところだが、どうやら思考は読まれているらしい。ならば、何もしないでおくか。


 周囲一面が翡翠色の世界。ソロによると、ここは誰かの封印された魂の中らしい。何が何だか解らない。それは世界と言うのか?


「さっきそいつが逃げてきたとか言ってたがァ、非常に興味深い。何か力になれるかもしれねェ。どういった経緯でここまで来たのか教えてくれないかなァ?」


 そういうことならと、彼に今までの経緯を説明する。なぜかソロが形容しがたい複雑怪奇な表情をしていたけど、彼と何かあったのだろうか。


「世界を渡り歩くだァ?先生じゃねェんだから、何かしら仕掛けがあるはずだなァ。何か軸となる要素があるかァ、誰かの思惑かァ。白炎の地獄は知らねェ。死の呪いってのはァ、アレか、大征伐のことか。俺の記憶と合致するのはこれしかないなァ......お前さん、名前は?」


「ホープ」


「そいつァ、本名かァ?」

 何で、そんなこと聞くんだ?

「いや、ソロが付けてくれた。記憶がないから今はこれを名乗っている」


「ソロ?あー、あいつかァ。へェー、なるほどなァ。まぁいい。さて、最初の白紙の世界ってのはホープ、お前のことだなァ。この翡翠の世界が俺であるように、あの世界はお前さんのことさァ。記憶も名前も消えちまったってことだなァ」


 何かを面白がっているらしい。悪かったな何もかも無くした放浪者でよ。文句あるかよクソー。


「いやァ?ナイスだぜェ、ホープ。恐らくお前さんは放浪者じゃなくて観測者だなァ。んァ、いや待てよ。別にいる可能性もあるかァ。そうだな、現状のお前さんの話を聞いた上で、俺の冴え渡る勘が告げる解はこうだ。ホープ、お前さんは世界の観測者か、あるいは他にいる観測者の導き手だ。まぁ恐らく後者だろ。まどろっこしい手法だァ。まるでお前さんを囮に何かから隠れて機を伺うようなやり方だなァ。心当たりは?」


「いやまったくないけど」

 ん?何か違和感。というか、正直彼の話しが難しくて理解出来てない。何言ってんだアイツ。


「そうか、じゃあこれからだなァ。そのうち会えるさァ。だがその前に、観測者が当事者と話ができるというのは、いけねェな」


「話せたら不味いのか?」


「そらそうだろ。ホープ、お前さんには過去も未来もない。これからの旅路で遥か未来に行った後に古代を観ることだってあるだろうよォ。だが、観測者は観るだけだ。そして、それによりソレは事実として裏付けられる。その後に過去で未来を変えようなんて出来るわけねェだろ。だから、今お前さんが知りたがっている『大征伐』について、話すわけにはいかない。あの悲劇を回避する術が僅かにでもあるのなら、俺は俺の知っているアレを語るわけにはいかない。その内観ることになるだろうよォ。その時まで待ってることだなァ」


 うわ、考えてることは筒抜けってか。一瞬話題に出たときからいつ切り出そうか悩んでいたが、どうやら無理らしい。それなら——


「じゃあ、僕はこの後どうすればいいんですか?観測者ってなんですか?そもそもあなた誰ですか?」


「知るかよバカかてめェ。そのまま旅を続けろ。観測者なんて本来会えるもんじゃあねェ。だが、ここに現れるなんて不可能だ。それくらいしか可能性がねェのさ。俺のことは訊くな。理由はさっき言ったろうがよ」


 あら、丁寧に教えてくれてありがとう!素直じゃないね!


「ニヤニヤするな気持ち悪ィ!もういいだろ、いつまでいる気だ、さっさと行け!とりあえず、ホープ、お前さんはまず、自分を取り戻せ!そうすりゃどうすればいいか解る。たぶんねェ」

 たぶんって何さ。他人事だと思いやがって。いや他人事か。


 体が薄まる。また新たな世界への旅が始まる。


「そうやって転移するのか。面白いなァ。じゃあなホープ。次会うときは一方的だァ。俺はお前さんを認識しない。それでいい。だから、これで最後だ。頑張れよ」


 瞼を閉じ、意識が暗転する。






「ソロって名乗ってんだってな。お前の処断は未来に任せる。どうせ、俺にはどうにもできない。ん?どうした。変な顔してんじゃねぇよ。何に反応してんだテメェ。まぁ、死ぬ気諦める気が無いならよお前、せめて後悔しないよう納得するまでやってこい」


 返事は間に合わない。その前に彼らの転移は終わりを迎えた。肉体という枷から外れた彼に過去も未来もない。だから、知っている。彼らの行く末を。しかし、語るわけにはいかない。中途半端に未来が確定するのはよくない。それに、それは彼らが知ったことでどうしようもできない。


「何で俺がこんなこと」

 しなければならないのか。やるべきことは他にある。ほら、外はちょうどその時だ。

 翡翠の向こうに一人の男を視認する。非力な少年は巡礼を終えたか、逃げ出したか。一つはっきりしていることは、この俺の前に立ち塞がったこと。


「まったく、どこほっつき歩いていたんだかねェ。いいねェ、雑魚の癖によォ、少しはマシな顔つきになったじゃあねェかァ。……さて、落とし前、つけてもらおうか」

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