第二世界 黒衣
それがどれほど非道な所業であったと理解していても、一度歩めばそれは永遠と憑いてくる。もしも躊躇できなくなれば、ナニカが壊れているだろう。自分で気付けるかは、人次第だ。そして、自分で気が付いたとして、その歩みを止められるかもまた、人次第だろう。誰が壊れているのか、何が壊れているのか。そして、膨大な犠牲の上を歩むあの罪人はどうするのだろうか。
その一閃は、多くの犠牲を伴った。
腐った雨が降る中、呪われた地を、男は独り、歩む。
世界を救うための大征伐。その結果に人類の未来は委ねられていた。結果は大成功。目標の撃滅。祝福の解放。目的は完遂された/だが、男は独りだ。これでようやく、人類は未来へ進める/それなのに、男は独りだ。大偉業だ。戦友と肩を組み、朝まで飲み明かしてこれからの人類の未来を、それぞれの夢を、語りあ/男は独りだ。周囲には、誰もいない。背中を預けた、肩を並べた、共に運命に抗った戦友達は最期に、男に呪いを残して、死んだ。
世界を救うための犠牲だった。だから仕方なかった、では済まない。大いなる大義の成就に仕掛けられた悪質な罠。大征伐は失敗した。否、この戦いがそもそも間違っていた。しかし、他にどうすればよかったのだ。知りようのない罠。仮に撤退したとして、他に方法はあるのか。おそらくないだろう。シンプルで防ぎようがない。試行錯誤不可能、一切の情報なし、回避しようがない最悪の能力。だから、後から考えても結論は同じで、こうするしかなかったと思う。誰かが引かなければならないハズレくじ。ただ、それが自分に回ってきたことがとにかく理不尽に思えて、なにより失ったものが余りにも多くて、眼前に突き付けられた現実が
男はついにその歩みを止め、膝から崩れるように倒れた。頭を地で擦り付け、声にならない悲鳴を上げながら、自身の不甲斐なさを、仲間を失った苦痛を、怒りを、自分に打ち付けようとする。
『後悔しているのかい』
誰かが話しかけてきた。確認する気力も興味もない。男にとって知らない声で、それはつまり仲間じゃない。
「反省はしている。もしかしたら他に、何か別の道があったかもしれない。でも、俺たちの時間は限られていて、既に犠牲を支払って手にした絶好のチャンスだった。これを逃せば警戒され、手が付けられなくなっていたかもしれない。それに他の道なんてきっとない。アレはそういう奴だった。だから後悔はしていない。背負いきれない業を押し付けられただけだ」
仲間じゃない、知らない相手。それなのに、不思議と言葉がこぼれていった。自分の罪を一つ一つ噛み締めるように呟いた。自然と涙がこぼれる。
『それならきっと、それは正しかったのだと思うよ』
軽々しく言い放った。ふざけるな。正しくなんかない。やってはいけないことをした。なぜかあの時、この最悪の未来を想像できなかった。思考停止していた。自分に酔っていた。何とかなると思ってしまった。考えたところで結末は変わらなかったかもしれない。でも、ダメだ。許されないことだ。苦しくて仕方がない。ただ死にたい。もう帰りたい。
『君は、どうしたい?』
ぼんやりと考える。絶望の底で、彼らの最期を、男に向けられた呪いを思い起こして、答えを得た。
「死にたい。いっそ死んでしまえば、どれほど楽だろう。俺の立場も何もかも棄てて消えてしまいたい。けど、それはできない」
『どうして』
その一言が頭に響く。それは霧が消えていくような感覚だった。答えはずっと単純で、ずっと一緒にいる。忘れられるはずがなく、時々忘れてしまうほどに強烈に、今後の彼を突き動かす行動原理。
「あいつらの命を背負っている。俺は生きなければならない。そうじゃないと、あいつらの死が無駄になる。せめて、事の顛末の報告を。可能なら、あいつらが報われる日まで、俺は生き続けなければならない」
例え、何者にも成れないと、運命に見捨てられ、成し遂げたことといえば死体の山を積み上げただけだとしても、凡人にだって意地がある。アレは嗤いながら死んだ。死んだアレの手のひらの上で踊るのは、もう御免だ。アレの思惑通りにはさせない。どうせ碌でもないことを企んでいたはずだ。死んだアレの策略はまだ終わっていない。この先の未来を見届けなければ、死んでも死にきれない。それにもう死にたくない。
『だったらやることは決まっているよね。まずは、好きでやっているのなら止めないけど、そうじゃないならいつまでも地面と見つめ合わないで、前を向こうか。何言っているのか分からない?じゃあハッキリと言おう。顔を上げようか、英雄』
「英雄だと?冗談じゃない。そんな存在からは程遠い。ここにいるのは罪人だけだ。」
『誰かが引くハズレくじを引いても逃げずに役目を果たした。その過程で多くの犠牲が伴ってもなお、君は犠牲になった者のために進み続けると言う。大抵の人は逃げると思うよ。そして、それは決して間違いじゃない。時には逃げることも必要だ。君も限界を感じたら逃げるといい。でも、その時の君はそうしなかった。チャンスが無くなる?他に道はない?それでも、逃げて良かった。でも君は逃げなかった。一本道の地獄を引き返すことなく渡り切った。これを英雄と呼ばず何と言う?誰もが君を責めるかもしれないけれど、忘れないでくれ。ここに、少なくとも一人、幻かもしれない僕は、間違いなく君の味方だよ』
立て続けに肯定される。その言葉に救われると同時に無意味な苛立ちを感じた。
「分かったようなことを、なぜそう言える。知らないだろ。知っているはずがない。あの場所で何があったのか。何も知らないから、そんなこと」
『あぁ、知らない。僕らが来た時には全てが終わっていた。想像することすら難しい』
「じゃあなんで」
なんで、そんなに救けてくれるのか。理解できない。
『さぁ、分からない。でも、仲間のために泣いて、生きようとする君を、僕は悪人だとは思わない。とりあえず、それでいいじゃないか。理由なんてない。何となくだ。僕は何となく君は良い奴だと思った。ほらほら、さっさと起きて宣言通り、君の仲間のためにいきなさい』
無気力な足に力を入れる。震える膝を押さえつけ、男はフラフラと立ち上がった。周囲を見渡しても、誰もいなかった。気が付けば声は聞こえなくなっていた。あの声は幻だったのか、本当に誰かがいたのか。それを確かめる方法はない。水溜まりを見下ろす。見つめ返すのは、血と泥と涙でぐちゃぐちゃになった男の顔。そんな酷い顔をした男は、それでも力強く見つめ返していた。どうしようもない怒りは消えていない。それでも、数刻前より気分が良くなった。自分の右足をゆっくりと、前へ出す。一歩、前へ、さらにもう一歩。歩みを進める。あいつらがもう出来ないことを代行するように。そして、あいつらがもう帰れない街に向かって。
「帰るか」
一言、誰に対してでもなく呟いて、彼は歩き出す。視界は朦朧、足取りは弱い。それでも帰らなければならない。大征伐の結果、この先の未来に希望がある報せと悲しい報せをしなければならない。彼は生きる。彼らの命と死のために。彼らの
瞼の向こうに広がる光景は立ち込める死臭で容易に予想できた。おびただしい数の死体の山。幾千万の墓をひっくり返したような地獄がそこにあった。炎の地獄とは異なる明確な死がそこにあった。予想を軽々しく凌駕するその光景にホープが呆然とショックを受けている間、ソロは周囲を警戒し、原因を調査していた。ソロ曰く周囲一帯に強力な死の呪いが蔓延した
ぶん殴られた頬をさすりながらホープも調査に参加する。しばらくすると、歪な足取りで立ち去ったと思われる足跡を発見した。それを辿り、足跡の正体に追いつくのは容易なことだった。彼の容体は「生きている」というより「生きてはいる」の方が近く、より正確に表現するなら「死んではいない」が正しいのかもしれない。死にながら生きているような、とにかく酷い有様だった。
彼は無事これから先を見届けられるのだろうか。
この地獄がなぜ必要だったのか。
原因は結局何も分からなかった。本当に何もかもが終わった後だった。
「ずっと黙っていたけど、どうかしたの?」
「いえ?別にどうもしていませんよ」
そう聞かれたソロは思い出したように振り返る。そこにあったのは、笑顔だった。
この地獄を笑っているわけではない。穏やかに微笑んでいるだけ。ただ、この地獄の中にその穏やかな笑顔は明らかに似合わず、背筋に寒気が走るような言いようのない気味の悪さを感じる。
「ソロは先ほどの彼がどうなると思いますか」
心臓が早鐘を打つ。うるさい。平静を演じようと呼吸が乱れる。うるさい。緊張で瞼が震え、瞳孔が痙攣しそうだ。ソロの様子は明らかに異常だ。この地獄に気でも狂ったか、それならまだいい。幾千万の死体の山。語られた異常事態。冷静でいられるはずがない。だが、気が狂っただけなら、なんとかして正気に戻せれば、解決する。元通りのソロだ。だが、もし今のソロが——
「ふむ、そうですね。難しいでしょう。この先彼に待っている試練はこの地獄とはまた別の形で彼を苦しませることになる。例えば、責任とか。この地獄を招いたものとして、何らかの罰が下ってもおかしくはない。可哀そうですが仕方のないことです。生きることを選んだ以上、逃れられない試練の一つです」
淡々と語るソロの表情に変化はない。
もし今のソロが、化けの皮が剥がれた元々の彼なら、遅かれ早かれ、あるいは既に何かやらかすだろうと漠然とした想像をする。
「そっか、まぁ仕方ないな」
思ってもいないことを口にしながら、思考を巡らせる。考えながらしゃべり続ける。彼を刺激ないよう当たり障りのない、この世界の考察だとか、次の世界では何が起きるのかとか。彼も一つ一つ返事をするが、それより考えるべきことは二つ。彼にこちらの疑惑を悟られないこと。今後彼をどうするか。しかし、まだ彼が黒と決まった訳ではない。まだ様子を見る必要がある。そのため、二つ目は保留するとして、問題は一つ目。これ以上薄っぺらい言葉が続かない。頭の中はとっくに限界が来ていた。
都合よく体が薄まり始める。震える手でソロの服の裾を摘まむ。逃がしはしない。白黒はっきりするまで、彼は目の届く場所に置いておきたい。ホープとソロ両名の転移が始まったところで、緊張の糸が切れたのか、単純に限界が来たのか。
ホープはぶっ倒れた。
罪人は一人、静かに思想を巡らせる。あの少年の選択は他人ごとではなく、そう遠くない未来、己もまた自身の罪と向き合うことだろう。その時、私はどうするのだろうか。
しかし、疲れた。原因とは別の元凶に対する周囲への索敵。目の前の壊れかけた男の対処は、ほとんどしていないが、刺激が強すぎたのか様子がずっと変だった。どうやら元凶は本当に死んでいるようなので、途中から注意を目の前の男に向けていたが、かなりきついらしい。さっさとこの世界からは離脱した方が良いだろう。効力はないはずだが、蔓延した死の呪いはかなり強力だったようで長居は禁物だ。都合よく、転移が始まった時は安堵のため息が出そうになった程だ。
まぁしかし、この程度の地獄で動じるような神経をしていないことを悟られたくないと思いながらも、遂に耐えられなくなった友を前に彼は微笑んだ。
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