第9話 追い詰められたハツカネズミ

 愛は、死んだ。


 海沿いの踏切で、彼女はバラバラの死体と化した。即死だった。私の、せいで。 

 その日から、私は一人、部屋の中でずっとブランケットをかぶり、うずくまっていた。学校に行く気力などなかった。


 うすうす気づいてはいたけれど、私にとって愛はもう欠けてはならない存在にまで成長していた。

 愛には居場所がない、だから私が居場所を作ってやるんだ。

 そう思っていた。それが別に間違っているわけではないけれど、一つ誤解があった。


 愛のいない世界には、私の居場所もなかったんだ。

 愛に居場所をつくってあげるという見目麗みめうるわしい建前の裏には、私自身の居場所も固守したいという醜いエゴイズムがあったのだ。 


 窓の向こうでカラスが鳴いた。その声でさえ、私のことを糾弾きゅうだんしているように感じる。

 愛を死に追いやった私を。愛の最後の約束すら守ることが出来なかった、私の愚かさを。


「このまま電話切らないでおいて」


 そう言った彼女の意に反して、私は電話を切ってしまった。無意識とはいえ、切ってしまったのだ。

 彼女が死を決断したのは、究極的にはそのせいだったのかもしれない。最後の最後の約束さえ、守られなかったという、失望感のせいなのかもしれない。


「ああああ……」

 枕に顔をうずめて呻く。このまま呼吸が詰まって死んでしまえたら、どんなにか楽だろう。

 そんなくだらない思考を、私はずっと続けていた。朝も昼も、夕も深夜も。それだけ考えても、まったく心は平安にならなかった。


 学校に行かない娘に、母は何も言わなかった。病院で働いている母は、人の痛みに敏感びんかんなはずなのに、何も言わなかった。あまりにそれに触れすぎて、精神が摩耗まもうしているのかもしれない。だから、父が出て行っても、涙一つ見せなかったのかもしれない。しかしそんなことは、今となってはどうでもいいし、何も言ってこないのは逆に好都合だった。

 けれど、それは同時に、私の最後の居場所の喪失でもあった。



 一週間が経った頃、名前のあやふやなクラスメイトが訪問してきた。

鈴嶺すずみねさんの、お通夜、あさってあるそうだから、若狭わかささんにも知らせようと思って」


 三人固まって来たクラスメイトは、皆一様に表情を暗くして言った。

「……」

「若狭さん、鈴嶺さんと仲良かったよね。だから、絶対知らせないとなって。ね」

「うん」

「絶対来てあげてね」


 どの口が、と思ってしまう。彼女たちも愛が死んだ理由に全く心当たりがないわけではないだろう。愛がおちいった絶望を知らない訳ではないだろう。

 けれど、私にそれを言う資格などごうもない。確かに、村上たちは彼女の心にそのするどつめを突き立てて愛を傷つけたが、致命傷を与えたのはほかならぬ私なのだから。


「……ありがとう」

 私はそれだけ言って、家の中に戻った。

 せめて、最後の別れくらいはしないと。心の中、私は思った。……いやそれさえ、私には許されないのではないか?

「ううぅっ……!!!」

 

 崩れ落ち、床を殴りつける。何度も何度も、骨が痛むくらいまで、叩きつける。

 私に、一体どうして愛のとむらいに参列する権利があるだろう。たとえ村上グループたちにその権利があったとしても、私にはそんな資格、ありはしないだろう。

 愛を殺したのは私なんだ。その事実は揺るがない。それなのにどうして、甘ったれたことを考えるんだ。この期に及んで、まだ、私は愛と特別な関係になれると思っているのか? もはや、唯一の、友人という称号さえも消え失せてしまったというのに。

 鋭い耳鳴りが聞こえる。それはまるで、あの日の踏切の号哭ごうこくのようだった。




 その日は分厚い雲が盛谷の町を覆っていた。それはきっと、参列する人の大多数の情景描写だった。


 私はその唯一の例外だった。心の内は、こんな生ぬるい景色ではなかったから。

 あれだけ自らを否定しておきながら、私は斎場さいじょうの前に立っていた。

 同じ制服を着た同級生が並んでいる。一方の私は、あと一歩が踏み切れないまま、中途半端に立ち尽くしていた。


 しかし、誰も私を中にうながしてはくれない。誰一人として。

 線香の煙の立ち込める空気を一つ吸い込んで、吐く。決心の、自己欺瞞じこぎまんだ。

 そうしてようやく一歩を踏み出そうとした、そのときだった。


「すみません」


 背後、突然話しかけられたのは。

 振り返ると、恐らく私たちと同じくらいの歳の少女が立っていた。しかし、制服は私たちのようなセーラー服ではなく、ブレザーだった。

「はい……?」

 私は平静へいせいよそおって聞いた。マスクをつけた少女。微笑びしょうを浮かべているようだったが、目元は疲れ切って、笑っていないように見える。

 そして、なぜだろう。会ったのは初めてなはずなのに、見覚えがあるような気がした。

「若狭咲穂さん、ですよね?」

「え……?」

「少し、話があるんですが、いいですか?」

「いや、私は」

 すると、彼女はマスクを取った。

 髪を短く整えたその顔に、私ははっと息をのむ。愛と携帯電話で話すときに、いつも目にしていた第三者の顔だ。


たちばな希美のぞみです。知ってますよね? 私のことは」

「……はい」

「私もあなたのことはよく聞きました。……話、いいですよね?」


 私は頷くしかなかった。有無を言わさぬ眼光がんこうが私を射抜いていた。


 愛の笑顔の遺影に背を向けて、私はその少女に促されるまま、人混みを離れていった。




 歩いている途中、前方の彼女は何一つ喋らなかった。それがかえって不気味だった。

 もうじき夜になる。海と空の境界は黒に落ちて、じきに曖昧あいまいになるだろう。

 潮騒しおさい、愛をひき殺した実行犯の警笛けいてき、線路の響き、踏切の叫喚きょうかん

 私は気付いていた。彼女は、あの踏切へ向かっている、と。

 シャッターの閉まった商店街を歩く。薄暗いアーケード、ここは愛の死出しでの道だった。


 目の前の、愛の恋人とかいう少女はゆっくりとした歩調で進んだ。私は彼女の少し後ろを、茫然ぼうぜんとついていった。



「ここ、座りましょうか」

 踏切脇のベンチに促された私は少し距離をとって座った。それと同時に、彼女は冷笑交じりに言った。


「まさか、あそこで会えるとは思いませんでしたよ」

「はあ……」

「あなたが、愛のお見送りに参列してるなんて思ってもいませんでした」

「……」

 冷汗ひやあせ背筋sえすじを伝っていく。不敵なその視線は、まるで、すべてを見透かしているというようだった。


「よく来れましたね。自分が追い詰めた人のところに」


 背後、踏切が悲鳴を上げた。




 踏切が泣き止み、列車が通り過ぎた。私は真っ白になった頭で、どうにか声を出した。

「な、なんの、ことですか」

 彼女の表情に、もはや笑顔はなかった。


「とぼけないで。人殺し」


 冷たい怒りを秘めた声。胸倉むなぐらをつかまれたわたしは、声が出せなくなる。鼻が触れそうなくらいに詰められた間合いに、動く事もままならない。

「っ!」


「あなたが愛を追い詰めたんですよね。愛は心からあなたのことを信じてたのにあなたは平気でそれを裏切ったんですよね。どうしてそんなことができたんですか。小さな嘘が重なってそれが嘘だってわからなくなったんですか。逆に教えてほしいくらいです。嘘ばかりついても平気でいられるなんて、正気じゃないですよ」


「ちょ、ちょっと待って……。どうして、あなたは」

「どうして知ってるのって? 私は愛のパートナーなんですよ。愛のことなら何でも知ってるんです。それくらい、当然でしょ」

「……」

「けれど、愛はもういない。あなたのせいでね……!!」


 起伏きふくのよめないその感情に、腹の奥底おくそこから恐怖が走ってくる。

 この勢いのまま立ち上がれないくらいにまで殴られて踏切に投げ捨てられてしまいう。

 そんな想像が頭によぎる。

 

 あるいはそれでもいいと思った。

 

 しかし、彼女はすぐに私から顔を離した。そして、胸倉を握りしめていた手の拳のまま自らの太腿ふとももをたたいた。何度も、何度も。


「うううっ!! ああああっ!!」


 咆哮ほうこうするように、彼女は泣いた。きっと電車の騒音すらもき消すくらいの慟哭どうこくだった。

 この子も私と同じだと、ふと、思った。

 私と同じように、彼女の死を激しくいたんでいるところが。違うのは彼女の死の責任を有するか否かだけ。


 髪の毛が頬に張り付くくらいに暴れた彼女は、ゼェゼェと苦しげに呼吸をもらしながらやおら立ち上がった。

 そして私の方にいささかも視線を向けることもなく、元来た道をふらふらと歩き出した。

「え……」

 私は思わずそうらした。しかし、彼女は乱れたセーラー服やスカートを直すこともなく、姿を消した。

「……」

 安心は、しなかった。安全に、なったというのに。もしかしたら、心の底で、私は彼女に殺されることを望んでいたのかもしれない。


(そうか。私は、もう)


 あの子に押し倒された姿勢のまま、私は動けなかった。冷たい風が吹く。

 胸の奥から、ざわざわと、こみあげてくるものがあるのが、分かった。



 どれだけそうしていただろう。海の向こう、分厚い雲のせいで、目にさやかには見えないが、陽が沈みそうになっている。

「……」

 背後、不気味に沈黙する踏切と誘うような波の音。商店街のシャッターはとうに下りた。色の禿げたベンチの上に残されたのは私と手提げだけ。

「……」

 ファスナーのキーホルダーが風に吹かれて揺れた。

「あ……」

 踏切の下、視界の端、同じ輝きにきづく。しゃがみ込んでそれを拾う。その白い花柄のキーホルダーは。

「愛の……」

 どうしてこれがここに? 愛はもう、私とのことなんてどうでもよかったのではないのか。


 実はすべて違ったのだろうか。全て私の勘違いだったのだろうか。

 愛が私の側を去ったのではなくて、私が自ら愛の手を振り払ってしまった、そういうことなのだろうか。


 だとしてももうすべて遅い。私にはもはや何もできない。とむらいの権利はおろか、私には後悔することすら許されていないんだ。

 そんな私の内心を察したかのように、踏切が声を上げた。世界はまだ優しかった。私に、道を示してくれていた。

 私にとって愛が死んだこの場所はつぐないの場所に他ならない。


「そういうことだよね、愛」


 閉じる遮断機。絶望の淵に立った私は、その間隙かんげきをくぐり抜けて逢魔おうまが時の空を見上げた。


 頭上には星が輝いている。あの中の一つに愛がいるとするなら、どんな気持ちでわたしを見ているだろう。背中を押すような気持ちか、引き留めるような気持ちか、それはわからない。

 しかし、もういい。どちらにしても私はもう愛の側に戻ることはできないのだから。


 遠くから、間もなく私を跳ね飛ばす機械音が聞こえる。さざ波に反響するその音はまるで愛と出かけた時に聞いていたせみの声のようだった。

 私は愛の側に戻るために現世を捨てるのではない。ただひたすらに、叶わないとしても償うために、ここに立っているんだ。


 カタカタと地面が震え始める。その振動がむずがゆいくらい足に伝わる。

 私の確信する最後の感覚。警笛けいてきが聞こえたら、きっと。

 止める者はない。なら、もはや視界も必要ない。目を閉じて、その瞬間を待つ。

 愛のいない世界に終止符を、なんて言えたなら格好がついただろうか。

 そんな能天気な想像が、最後の最後に頭をよぎって、つい苦笑した。


 風が吹く。それと同時に汽笛の絶叫ぜっきょうがこちらに飛んできた。

 意外と早かったそのピリオド。私は事前に息を止めてその時を待った。

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