第8話 私だけを見ててよ 2

 八月の終わり。

 愛のSNSのプロフィール画像が私と一緒に出掛けた時の写真から、見ず知らずの女の子との写真に変わった頃、私は決めた。

 どうにかして、愛を振り向かせる、と。


 手段はいくつかあった。


 一番真っ当なのは、直接この想いを告げる方法だった。好き、とかそういうことではないけれど、例えば私の側に居てほしいとか、私のことだけを見ててよ、とか、そういうことを伝える方法だ。

 けれど、それをする勇気はなかった。プライドや気恥ずかしさが先行した。それに、もし失敗したなら、私はたぶん立ち直れない。そして優しい愛も、きっとひどく傷つく。

 苦悩の末、最終的に私が選んだ方法は、夏の登校日に、もしものときの切り札に盗撮とうさつした写真を利用する、恐らく禁じ手だった。


 まず、愛が心の底から恐れているあのグループの弱みを握る。登校日の日に盗撮した、彼女たちが煙草たばこを吸っている写真がその弱みとなった。

 次に、それを教師に流すのだが、このときに愛から預かったとして渡す。うちの学校の教師は悪い意味でまじめだ。きちんと生活指導をする一方、指導対象が情報の開示を求めたら恐らく口をすべらす。実際、そういう事件も入学当初にあった。

 もしも愛の名前が出なかったなら別の手段があったが、案の定、愛の名前はあのグループに流出したらしい。新学期の初めに、愛へのいじめが始まった。


 愛がいじめられることが重要だった。

 そうすれば必然、彼女は私に縋るしかなくなる。きっと愛は学校でのことを幼馴染だとかいう奴に話さない。極力自分の内に溜め込むはずだ。そのとき、いち早く対応できるのは、私を置いてほかにいない。私だけを彼女は向いてくれる。あとは私の努力次第で、愛と幼馴染との関係を切り離すことだってできる。


 乱暴な方法だ。けれど、これが一番有効な方法だと、私は思った。

 愛は中学生の時のように深く傷つくかもしれない。けれど、私が包み込んであげれば、きっと大丈夫だ。そして私の方だけを向くようにすれば。


 そう、思っていたのに、事態は計画とは違った方向に進んだ。


 愛は、私には手出しをしないように言ってきた。

 「咲穂に危険が及んでほしくない」とそう言ってあまり相談してはくれなかった。

 それだけならよかった。

 しかし、彼女は自分を取り巻く不条理に抵抗しようとし始めたのだ。自分一人で。

 愛にとっては大事な決意だっただろう。私に何もやましいことがなかったなら彼女を支援しただろう。だが、今は状況が違った。


 だから私は彼女の机に落書きをした。

 靴に画鋲がびょうを置いた。

 ノートを水浸しにした。


 愛は村上グループの仕業だと思うだろうし、村上たちは自分たちの誰かがやったことだとして大して気にも留めないだろう。

 愛を追い詰めなくてはならなかった。


 しかし、愛はそれに動じるどころか、対策をとり始めた。

 靴は週末でもないのに持ち帰るようになり、机の中は空になった。唯一机の上だけは無防備だったが、彼女は掃除当番でもないのにぞうきんを持ち歩くようになり、始業までにはふき取るようになった。


(なんで耐えるのよ……。私に泣きついてきなよ……)


 そう思いながら私は落書きをした。心は痛むけれど、この痛みが消えるくらいの未来のためなら、何でもできた。それなのに一番あってはならないことが起こってしまったのだ。




 どれくらい時間が経っただろう。私はようやく学校を出た。途端に焦りがこみあげてくる。

 もう私のことなど見たくもないかもしれない。けれど、だからといってあきらめることなどできない。それに、愛のあの様子は、危険な気がする。上履きも置きっぱなしにしていた。まるで、もう持ち帰る必要などないというように。


 携帯電話を取り出して、愛に電話をかける。しかし、無機質なコールが響くだけで反応はない。

「愛……」

 自転車にまたがり、愛といつも会う公園の道に向かう。不在を確認して公園を突っ切り、花火大会のときの川沿いの道に向かう。しかし、そこにもいなかった。

 その間にも、私は彼女に電話をかけ続けた。出てくれるとは思えないけれど、可能性はゼロではない。もし、彼女が変なことを考えているなら、私しか止められないんだ。


「お願い……出て……」


 不安で吐き気が襲ってくる。駅前駐輪場の壁にもたれて、胸を押さえながら、私はコールの音を聞いた。コールの音階も覚えてしまったくらい、繰り返した。それでも愛は出なかった。

 帰るわけにはいかなかった。けれど、どうしたらいいのか。私は愛の家を知らない。この街に住んでいることだけは知っているが場所まで走らない。

(どうしよう……)

 途方に暮れたその時だった。突然、ポケットの電話が振動して、音を立てた。


「えっ」


 画面に愛の名前が表示されている。何度も望んだけれど、心の何処かではかかってくることはないだろうと思っていた電話。恐る恐る、私は通話ボタンを押した。

「もしもし」

『咲穂』

「愛……!」

『咲穂、今どこにいるの』

「今は、駅前……。ねえ愛、私……」

『咲穂。何があっても咲穂は私の友だち?』

「も、もちろん! 私は、ずっと愛の味方だよ!」

 私は必死にうったえた。愛がこちらに戻って来てくれるように。またその腕をつかむことができるように。

「愛、ごめんね。本当に。私が間違ってた。愛の言うことなんでも聞くから。だから……、だからお願い……! 私のことを……」


『わかった』


 私の声をさえぎり、愛は溜息交じりに言った。予想外に、呆気あっけない答えだ。

「……え?」と私は聞き返す。


『その代わり、私の言うこと聞いて』

 その次の瞬間、ガンガンという轟音ごうおんが電話の向こうから響いた。

「……愛?」

『このまま電話切らないでいてね。それだけ、聞いててくれればいい』

「嘘でしょ……? ねえ愛? 何考えてるの……」


 返答はなかった。その代わり、ガサッという物音が聞こえてきた。それと同時に何かの叫喚きょうかんが一層強くなる。

『ね、画面見て』

「え……、あ……ああぁっ……!!」

 言われるがまま携帯の画面を見ると、ビデオ通話に変わっていた。

 

 遠くに青空と海と雲。

 目の前に下りた遮断機と、こちらに背を向けたセーラー服姿。彼女が、ゆらりと一歩を踏み出す。


「愛っ! 愛っ!!」

 画面に向かって私は叫んだ。

 ゆるりと不敵に、スカートがひるがえる。風が強いのか、スカートもスカーフも後ろえりもバタバタと揺れている。

 こちらを向いた愛は、口を動かして何かを言った。


「聞こえない……。どこに……」


 私は携帯をかごの荷物の上に置いて、自転車に乗った。場所は、非常事態のせいか、わかっていた。いつも通る、駅の近くの踏切だ。


 遮断機はもうすでにおりていた。しかし、だからといって彼女が消え去ろうとしているのをじっと見ていることなどできなるわけがない。

『咲穂』

「愛っ! 今から……、今からそっち行くから、お願い、ちょっとだけ待って!!」

 そう言って私は携帯の電源を切った。切って、しまった。



 乱暴にペダルをこぐ。サドルに意識を傾ける必要などない。ただはやくそこへ行かなければならない。

 秋蝉あきせみの鳴き声がどこからか聞こえた。

 彼らは命を散らすとしても、愛は生きないとだめだ。私が失望させたのだから、私が彼女を連れもどさないと……。

 幸い、電車は来ていないようだった。

(急げ急げ急げ)

 頭の中それだけを唱えてそこへ向かう。赤の歩行者信号も無視して、ひたすらに、ただ、ひたすらに。

 海沿いの商店街、あの角を曲がれば、それを悟ったと同時に、私は急ブレーキをかけた。意思と全く矛盾した行動をとった。


 知覚と理解とは同時に起こるんじゃないと、私は初めて知った。頭の中、「早く!!!」と、せかすような声が反響していた。しかし、ブレーキを握った手は動かなかった。

 もう目が見つけてしまっていた。赤いヘッドライトを回して集まるパトカーと救急車を。

 もう耳が聞いてしまっていた。踏切の音と同じくらいに人の心をかき乱し、混乱に陥れる、サイレンの音を。


 脚の力が抜ける。座り込むが、それを支える力すらなくバランスを崩して、自転車とともに、倒れこんだ。

 気を失っているわけではないのに、周りの景色がぼやけていく。けれど騒がしいサイレンややじうまの喧騒は確かに聞こえて、私はたまらず耳を塞いだ。



 それからどうやって戻ったのだろう。私は気付くと駅にいた。


(いつの間に……)


 夢でも見ていたのかもしれない。そう思って駅に入る。しかし、そうでないことはすぐにわかった。

 消えた電光掲示板。説明に追われる駅員たち。頻りに流れるアナウンス。携帯電話に耳を傾ける会社員や学生。

 振り替え輸送の案内。どこからか響いた舌打ち。溢れる人並み。遠くからサイレン。


 そのすべてが私を責め立てているようだった。いや、間違いなくそれらは、私の方にやいばの切っ先を、人差し指を向けていた。

「愛……」

 嘔吐おうとしそうなくらい、心の中に感情が氾濫はんらんしている。そう思う一方で、何もない、空洞くうどうのようになってしまっているような気もする。


 喧騒けんそうの中、私は立ち尽くした。

 愛との最後の約束すら果たせなかったことの後悔が襲ってきたのは、呼吸すら忘れてしまいそうになるくらいの喪失そうしつ感が降ってきたときと同じだった。

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