第7話 私だけを見ててよ

 九月半ばの休日の朝、愛に呼ばれて、私は学校に向かった。


「何で学校?」

 そう聞くと、電話の向こうで、『学校の方が話しやすいから』と言った。その声はかすかに震えているように思えた。

 制服に着替えて学校に向かう。愛が電話してくるのは珍しい。よほど追い詰められていると見える。


 彼女のことは心配だけれど、かえって好都合だ。

 彼女には悪いけれど、事はうまく運んでいる。


「咲穂、どっかいくの?」

 テレビの前に寝転がりながら、仕事明けの母が言った。

「うん。友だちに会ってくる」

「そう。お母さん、七時から仕事だからね」

「うん」

 簡単なやり取りを終えて家を出る。この時の私には、その後のことなど予想できなかった。


 季節外れの入道雲が海の向こうに見えた。夏の余韻よいんが残るこの季節が私は好きだ。夏の透き通った世界が、少しずつ秋に向かっていく、その空気が心地いいから。


 電車の中は、まだ冷房が効いている。制服はまだ半袖。海で泳いでいる人も一瞬見えた。けれど季節は確かに秋に向かって進んでいるのだ。

 

 駅を出ると冷たい風が吹きつけてきた。向かい風、自転車で行くのが億劫おっくうになるが、愛に会うためならそれも苦しくない。

 もう少しで、きっと愛は私の側に帰って来てくれるはず。

 立ちこぎ、鼻歌気味に道を進み、愛といつも出会う公園前を過ぎ、ついに学校に到着した。


 吹奏楽部の演奏する有名な曲のメロディーが聞こえる。遠く、校庭からは運動部の声援の声がする。練習試合でもやっているのだろうか。

 下駄箱で靴を交換し、校舎に入る。帰宅部の私は休日に学校に来ることはめったにない。だから、いつもより緊張してしまう。まるでお前の来る場所じゃないと言われているようで。

 一段飛ばしに階段を上り、三階の教室に入った。涼風すずかぜ、水色のカーテンが揺れている。


「愛ー」


 愛は奥の席で、窓の外を眺めていた。その身体をゆったりとこちらに向けて、愛は笑みを浮かべた。苛烈かれつな虐めのせいだろう、ひどくやつれた笑みだ。痛々しく思うけれど、きっとそれもあと少し。


「どうしたの突然」

 隣の席に腰を下ろし、バッグを置くと、彼女は何も答えずに立ち上がり、窓際に寄りかかった。

「……愛?」

「咲穂は、私の友だちだよね?」

「うん」

「そうだよね。何があっても、私のこと、裏切ったりしないよね?」

「あたりまえでしょ」

「……」

 何を誤ってしまったのだろう。

 彼女は失望の色をその顔に浮かべて、窓の縁をなぞった。

「愛」

「もういいや。もう……」

「え? あっ、ちょっと!!」

 次の瞬間、彼女はくるりときびすを返した。

 慌てて腕を手を握って引き戻そうとした。しかしその勢いが強かったせいで後ろに転倒してしまう。机の端に背中を強打して、鈍い痛みが走る。

「痛っ……!」

 腕をつかんだ私の手を振り払って、愛は何も言わずに立ち上がり、私を見下ろした。


「愛……?」

「……」

「どうしたっていうの? ……ううん、違うね。それはわかってる」

 もとは私が植えた種だけれど、例のグループによって、思ったよりも彼女は追い詰められてしまっていたらしい。

「愛、どうしようもなくなったら慰めてって言ってたじゃない。私も、うんって言ったよね? なのになんで」

 手で抑えることのできない背中の激痛に顔をしかめつつ、私は必死に声を出した。

「愛、私ら友達なんでしょ? ねえ。なら、何で……」


「ふふっ」


 その時、彼女は突然頬をほころばせた。いつも通りに見えて、その実、あざけりと怒りと絶望が詰まった、そんな笑顔だった。

「何笑ってるのよ……」 

 逆光ぎゃっこうのせいだろうか、彼女の表情は妙に神々こうごうしく、き通って見える。普段は包容力にあふれた彼女の笑みが、今は畏怖いふを与える恐ろしいものに見えた。


「もういいよ」

「よくないよ」

「それはそっちの都合でしょ」


 愛は冷たくそう吐き捨てると、顔をしかめて一歩、扉の方に踏み出した。

「待ってよ愛!」

 バッグを持って、私は走り出す。開けっ放しの窓から追い風が吹きつけた。



「待ってってば!」

「離して!」

「ちゃんと説明してよ!」


 昇降口の前、私は愛の前に回って言った。しかし愛は私と一切目を合わせず、身体を揺すって私を下駄箱に突き飛ばした。未だ痛む背中に再び痛みが加わる。たまらず私は座り込んだ。

「痛っ……」

「裏切り者に話すことなんてない」

「うらぎりって……」

 靴を履き替えた愛は、涙の溜まった瞳を私に向けた。

「信じてたのに……。咲穂のこと。咲穂は絶対、私の側に居てくれるって、味方だって、友達だって、疑わなかったのに!」

 初めて聞く、愛の感情的な声。まさか、と頭に浮かんだのは、絶対に起こるはずのない事態の可能性だった。


「咲穂が全部やってたの、知ってるんだから」

「……」

 頬に汗が伝う。彼女はすべて知っているのか? 私のやったことの、すべてを。

「私が憎かったの? 嫌いだったの? 鬱陶うっとうしかったの?」

「違う……!」

「……ふぅん。もういいや。それも嘘かもしれないし」

「いや……」

「咲穂が友だちでいてくれないなら、私は……」

「違うの……。違うのよ、愛。私は、愛を苦しめたいわけじゃないの」

 矛盾むじゅんしていると思われるかもしれないけれど、これは本心だった。確かに少しは痛い目を見ればいいという醜い気持ちがあったことは認めるけれど、それが目的だったわけではない。


「わけのわからないこといわないで」

「待って、話を聞いて……」

「その話を聞いたら私は納得できるの?」

「っ……、それは……」

「……」


 愛はやはり失望を瞳に宿したまま私を見つめた。そして彼女は何も言うことのないまま昇降口を駆け出ていった。何もかもどうでもいいというような態度だった。

「愛……」

 追いかけようとした。けれど、なぜか金縛かなしばりにでもあったかのように動けず、離れてゆくその背に手を伸ばす事しかできなかった。

 開けっ放しの愛の下駄箱にはたくさんの傷がついていた。


上履うわばきは持ち帰るようにしてるんだ。なんかされたら困るでしょ?) 

 たった一週間くらい前にそう笑っていた愛の顔が遠い昔のことのように思える。花火大会など猶更なおさらだ。

 今、下駄箱には持ち帰ることにしたはずの上履きが残されていた。それがなぜか不吉な前兆のように感じた。



 

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