第5話 不揃いのスカート

「明日から学校だよね。希美のぞみ、ちゃんと宿題終わったの?」

 電話の向こう、希美は『ちゃんと終わってますよー』と少し怒ったように言った。


「ほんと? 小学生のとき全然やってなくてめっちゃ怒られてたじゃん」

『昔の私と一緒にしてほしくないもんだね。今はもう愛の数倍は勉強できるつもり』

「何だとー」

『あ、月変わる』

 そう言われて時計を見ると、時計の長針と短針がともに12を指したところだった。

 九月のスタ-ト。電話の向こう、希美の家の、時計の鐘の音が聞こえた。昔遊びに行ったときには、あまりに大きいその音に飛び上がったものだ。


「そろそろ寝ようか」

『ん、そうね。おやすみ、愛』

「おやすみ、希美」

『うん』

 電話が切れる。海の写真のトップ画像が表示される。電話の時間は二時間にもなっていた。


(変って思うかもしれないけど、あたし、結構、愛のこと、好き)

 夕日に映える砂浜で、何の脈絡みゃくらくもなく、希美は真剣な表情で言った。


(えー。まあ、私も好きだよ希美のこと)

 私は笑って言った。まだ、その時には希美の「好き」が、私の想定している意味と違うと言うことには気づいていなかった。


(違う……! あたしは、愛のことが、本当に、ちゃんとした意味で、好きなの)


 その時のことを思い出すと今でも胸がドキドキする。

 誰かにあんなことを言われたことは無かった。女の子同士とか、そんな残酷なことは思わなかったけれど、回答にきゅうした。


 けれど、咲穂さほと話して、決めた。付き合ってみようと。頭の中の想定だけで、希美の告白をないがしろにするのは人としてだめだろうと。

 その後、直接会って、私は言った。


(私でよければ)


 まだ、恋人らしいことは何もしていない。恋人らしいことなんてよくわからないけれど。

 ただ、こうやって二日に一回くらい、寝る前に電話をするようになった。

 咲穂はあまり電話はかけてきてくれない。もともと、面倒くさがりな性格みたいだから仕方がないかもしれない。けれど希美は、話題がなくても、しつこいくらい電話をかけてきてくれる。それが私は嬉しかった。


 学校でも家でも、何の問題も起こらない。それは、中学生の頃の私が涙を流して希求した毎日だった。

 早く朝にならないかな。休暇の終わりにそんなことを思うのは、たぶん小学生の時以来だった。



 


 朝八時の住宅街。この道を歩いていると、いつも後ろから自転車に乗った咲穂が来る。そして咲穂は、徒歩の私に気を遣ってわざわざ自転車を下りて並んで歩いてくれるのだ。


 しかし、今日は学校に到着するまで、彼女が後ろから来ることは無かった。ただ、一緒に学校に行こうと約束しているわけではないから、仕方ないかもしれない。

「残念……」

 口ではそう言いつつ、教室に入ればどうせ話せるのだからと気を取り直す。


 新調したハンドバッグを持って、私は教室に向かった。少し前までは、こんなふうに早く教室に行きたいなんて思ってなかったのにな、と私は無意識のうちに笑っていた。

 


 教室の扉につくと、窓際に咲穂の姿があった。

 なんだ、今日は早く来てたんだ。てっきり遅刻だと思ってた。苦笑い気味に私は彼女の所へ一歩踏み出した。


 が、それをさえぎる者たちがあった。


「え……」

「ちょっとついてきて」

 村上道香。今は髪を染めた、中学の頃からの同級生。だけれど、私が苦手な女の子。あの頃と変わらない、にやけ顔。微かに香水の香りがする。

「ど、どうして……?」

 理由を問うと、彼女は浮かべていた顔を笑みを打ち消し、私の耳元でささやいた。


「いいから来いよ」


 全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。私は名前も知らない取り巻きに囲まれて歩かされる。


「咲穂っ」と親友に助けを求めようとして、寸前でやめた。咲穂を巻き込みたくなかったし、きっと呼んでも、机に突っ伏している彼女には、この声は届かなかっただろうから。




 体育館裏の、誰にも見つからないような場所まで連れていかれた私は、突然殴られ、突き飛ばされた。

「あぅっ」

「せっかく今まで手出さないようにしてやってたのに、馬鹿な子」

「どうして……」

「しっらじらしい」と取り巻きの一人が言った。

「お前のせいだからな。覚悟してけよ」

 そう言って、彼女は私の腕を踏み潰した。

「いたいっ……!!」

「ミチ、もうそろチャイム鳴るよ」

「ん。じゃあ、行くか」

 踵を返す直前、彼女は例の如くの低い声で言い放った。


「わかってると思うけど、誰かに言ったりしたら容赦しないから」

 ザッザッと砂を踏む音。

 私は二の腕を抑えて立ち上がった。上着を着ててよかった。これを脱げば汚れが目立たずに済むから。

「痛……」

 もう大丈夫だと、そう思っていたのに、どうして、今になって……。

 涙が浮かんだ。結局私はどこにいってもこうなるんだ。

 芝生しばふに吹き飛んだ新しいバッグを持って、私は教室に戻った。



「愛? 今日は随分来るの遅いね」

 席に着くと、隣の席から咲穂が不思議そうに言った。

「ちょっとね」

「ん? ちょっと愛、血出てる」

 そう言うと、咲穂は私の頬をハンカチで拭ってくれた。

「寝不足でこけちゃって。それで、上着とかもさ」

「ふぅん……」

 咲穂は明らかに不審ふしんがっているようだったが、問い詰めてくるようなことはしなかった。



 翌日も、私は体育館裏に呼ばれた。

「やられたくなかったら、一回につき一万」

「そんな……そんなお金ないです!」

「じゃあ」

 次の瞬間、右頬がはじかれた。

「うっ」

 さらにパシリと左頬。さらにえりをつかまれて地面に叩きつけられる。

「うう……」

「教師とか来ないか見張っといて」指示された取り巻きの二人が、ロボットのように動く。

 残った二人の取り巻きと村上に、私は殴られ蹴られた。私はただ丸くなって耐えるしかなかった。

 その後、何事もなかったかのように立ち上がって服やスカートをはたき、教室に戻る前にトイレに寄って、髪の毛や顔の汚れを落とす。鏡に映った自分が酷く惨めで、また泣いてしまう。


「もうやだ……」


 これからずっとこの地獄が続くと、そう考えただけで嫌になる。

 教室に戻る。さっきまで私に蹴りを入れていた取り巻きの一人は、私に一瞥いちべつもくれずに、誰かと笑っていた。

「愛、今日も遅かったね」

「うん。また、こけちゃって」

「二日連続でこける?」

「ね。ひじ、すりむいちゃった」

「……」

「咲穂?」


「何か、あったんじゃないの?」


 眉をひそめて、咲穂は言う。私はその視線から顔を背けた。

「え?」

「様子が変というか、昨日もずっと上の空だったから」

「……別に、何もないよ」

 言えない。咲穂まで、巻き込むわけにはいかない。

「嘘でしょ。じゃなきゃ、そんな顔しないもん」

「嘘じゃない」

「ほんとのこと言ってくれればいいのに」

「嘘じゃないって言ってるでしょ!!」

 ざわっ……と一瞬、クラスの空気が騒めいた。咲穂も驚いたような表情で私を見上げている。


 しょうがないでしょ。だって、咲穂に言ったら、私も咲穂もただでは済まない。そうなったらもっと大変な状況になる。


「私のことはもうほっといて……」


 頭を抱えて私は座る。その手が、不意に握られた。

「ほっとけないよ」

 そう言った咲穂は次の瞬間、私を引っ張って歩き出した

「えっ、ちょっと咲穂!」

「ついてきて」

「でも、授業が」

「どうだっていいよ。今は愛のことが優先」

 私の手を強く握って廊下を進む咲穂。

 ダメだ、と。私にかかわったら、咲穂まで不幸になる、と、私は言わなければならなかった。けれど、言えなかった。私は握られた咲穂の手を握り返した。この温かさが、唯一の救いだった。


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