第3話 君は友達 2-2

「海行こう!」

「えぇ、何?いきなり」 

 昼休みの教室、例のグループがいないおかげで活き活きしている愛が言った。

「海だよ海。明後日から夏休みでしょ?行こうよ海」

「うーん……」


 やたらと海を連呼する愛に若干怯ひるみつつ、飲み終わったジュースの紙パックを机に置いて、口先に残ったストローを何の意味もなく噛む。

「もっと興味持ってよ」と愛はストローを引き抜いてきた。二週間くらい前に全く同じやりとりをした気がする。

「海は日焼けするし、砂熱いし、ビーチとか人多いし、汚いし……」

「文句ばっかりだなぁ」

「ちょっと気が進まないな。海は」

「何でよー。なんだかんだ祭りは行ってくれたじゃない。だから海だって……」

「海は、むり」

 愛の言葉を遮って、私は言った。

 確かに、ここからすぐ近くに海水浴場はある。自宅に戻れば、それこそ自転車で10分くらいのところにある。


 けれど祭りの件のときとは違って、私は子どもの頃からずっと、深刻な、けれど一方、単純な理由から近づかない。 

 愛はいぶかしさを抱いたか、首をひねった。

「じゃあ、プールは?」

「……プールも、やだ、かも」

 そう言うと、愛は目を逸らし続ける私の顔を覗き込んできた。


「もしかして咲穂、泳げない?」


 冷汗ひやあせが頬を伝った。それをぬぐって、私はそっぽを向く。

「いやいや、泳げる泳げる。けどほら、海って危ないし……」

「二回言った」

「……はい。泳げないです。前溺おぼれかけて以来海には行きたくなくなりました」

 ぎりぎり学校のプールなら入れるが、それでもカナヅチなのは変わらない。

 まさか、こんな流れで弱点をさらすことになるなんて。


「そっか……。泳げないんじゃ、行ったって楽しくないね」

 愛はくるくると毛先をいじくりながら不満げに唇を尖らせて言った。

「ごめん」

「ううん。しょうがないよ。トラウマがあるんじゃ」

 それは自分自身の投影とうえいなのだろうか。いや、違うか。単純に私のことをおもんぱかってくれているだけか。

 いずれにしても、せっかくの誘いを断ってしまうのは申し訳ないように思える。でも、海にだけは行きたくない。


「咲穂行けないんじゃ、どうしようかな。誰か別に誘うしかないか……」


「えっ」


 その、おそらくは何の他意もない呟きに、私はつい反応してしまう。

「何?」

「いや、その……」

「咲穂とは、そうだなぁ、じゃあ、束稲たばいねのイオンでも行こうっか。映画でも見にさ」

「うん……」

「咲穂?」

「ちょっと、ゴミ、捨ててくるね」

 紙パックと愛の持っていたストローを取って教室の外のゴミ箱の前に立つ。


(何をそんなに落ち込んでいるの? いいことじゃない。夏休みにも会えるって確約されたようなものなんだから。だから、愛の隣に他の誰かがいたって、私が落ち込む必要ないじゃない……)


「ねぇ」

 ふいに背後から声をかけられて振り返ると、スカートを短く折った、やけに瞳の大きな女が立っていた。髪も染められ、いやに甘ったるい香水の香りがする

「どいてくれない? ゴミ捨てたいんだけど」

「あっ。ごめんなさい」

 逃げるようにその場から離れる。彼女はこちらには全く興味もないようで、用を済ますとすぐに立ち去って行った。


 愛が怯えているのは、あの目と声だ。私にもその気持ちはわかる気がする。愛以外に心を許せるとまで言える友人のいない私にも。

 けれど、その圧力が、トラウマが、愛の中にあるからこそ、私は愛の隣にいることができている、そんな気もする。だとするなら、愛がそれを克服したなら、私は……。

「いや、違う……」

 飛躍ひやくしすぎだ。何をナーバスになっているんだ私は。

 友人の何気ない呟き一つでこんなに思い込んでしまうのは、滑稽こっけいだ。ただの、滑稽な推量すいりょうだ。

「忘れてた……」

 ポケットにしまっていた紙パックをゴミ箱に捨てる。空疎くうそな思考も一緒に投げ入れてきびすを返し、教室に帰る。




 終業式を終えてから一週間ほど、前の浴衣ゆかた騒動の反省から制服を着ていこうかとも思ったが、それだと味気ないので、白の半袖とデニムショートパンツを穿いて家を出た。

 

 最寄りの駅から盛谷もりやで乗り換え、束稲たばいね駅で下車する。ショッピングモールは目の前だが、愛が来るまで待とうと、駅の柱に背を預けて改札から出てくるのを待つ。


 ジリジリと夏の日差しが照り付ける。飲み物でも持ってくればよかったと、私はかげりに移動する。しかし、まったく涼しくない。

「うぅー……」

 つむじをおさえるように髪に触れると、びっくりするくらい熱を持っていた。

 溶けそうになりながら待つこと十五分、麦藁むぎわら帽を被ったワンピース姿の愛がようやく現れた。

「あ、咲穂! 何、ここで待ってたの?」

「あ……? 愛? おっす……」

「もうクタクタじゃない!! ほら、中入るよもう」


 腕を取られて店内に入る。空調のきいた清涼な空気が、汗がにじんだ服に染み込んでくる。そのさわやかさに思わずくしゃみがもれる。

「水飲んで、ほら」

「うう」

 彼女がかばんから差し出したペットボトルを受け取り、求めていた水分を補給する。ようやく身体中が冷えてきた。


「汗だらけだよ。咲穂の背中」

「うん、でも、先に入るのは良くないかなって」

「倒れそうになる方がよっぽどよくないよ。もう……」

 愛は頬を膨らませて言った。私は素直に「ごめん」と謝り、ペットボトルを返す。

「全く……」

 愛はあきれたように息を吐いた。しかしすぐに笑みを浮かべて、ペットボトルのキャップを開ける。


「あ……」


 そして何のためらいの様子もなく、彼女は口をつける。

「映画館行こ。確か三階の奥だったと思う」

「う、うん」

 かすかな身体の熱を感じながら、私はその後ろを歩く。


 愛は全然どきどきしたりしないんだな、と少し残念にも思うが、しかし、今それをひきずるときっと楽しめなくなるだろう。

「何見る―?」

 笑顔を頬に、彼女の横に立った。



 映画はラブコメディーものだった。

 私はホラーが見たかったのだけれど、愛が絶対無理と譲らなかったので、妥協だきょう案としてこの結論となった。


 中ほどの列に並んで座り、宣伝の流れる画面をぼんやりと眺める。

「あんま人いなくてよかった」

 愛がささやくように言った。私たちのほかには五人くらいしかおらず、静かだった。私も頷き返す。

「まだ始まらないかな」

「意外と長いよね、こういう、宣伝」

「ね。……んん、ちょっとじゃあ、トイレ行ってくる」

「ん」

 ちらりとその後ろ姿を見る。彼女の手には、なぜか携帯電話が握られていた。 


(なんで……。……いや、きっと、貴重品だから自分でもってったんだよね。うん、そうだよ。きっと)


 そんな自己解決に反して、心の中にはもやが立ち込める。

 みにくい感情かもしれない。けれど、私といるときは私の方だけを向いてほしい。


 見つめる大画面、流行の映画の宣伝動画。私があなたを失ったのは、あなたの側に居すぎたから。そんな字幕が、どこか暗示のように思えて嫌だった。


 


 ありがちな映画は、ゆるやかに展開していった。隣の愛は、「おお」とか、「わぁぁ」とか、しきりに反応していたが、私はただぼーっと画面を見つめていた。


 映画がつまらなかったわけではない。脳裏のうりにさっきの携帯電話がちらついたせいだ。


 愛は、誰かと海に行くと言っていた。その約束でもしていたのだろうか。あるいはその誰かと連絡を取っていたのだろうか。私と一緒にいるというのに。

 心の中には靄が満ちていた。そうなるともう、映画の内容など頭に入ってくるわけがない。


 ポップコーンの容器に入れた手が空をかく。確認すると、いつの間にか容器は空になっていた。放心極まれりといったところか。

 愛を見ると、ハンカチ片手に涙を流していた。感受性が高い割に人の機微きび鈍感どんかんなこの子の言動に、私は一喜一憂いっきいちゆうしてばかりだな、と、少し嫌になる。




「あー泣いた泣いた。笑いとシリアスとが絶妙な配分でほんとによかった」

 評論家のような感想を言った愛はとても上機嫌だった。

 そして、大きく伸びをして私の方に振り返る。

「どうする? ちょっと遅いけどお昼食べようか?」

「あ、うん」

 胸の中の靄は今や喉元まで迫っていた。


「咲穂どした? お腹、すいてない?」

「いや」

「じゃあフードコート行こっ」

 愛はにこりと笑って、不意に私の腕を取った。

「あ、愛!?」

「映画は私の見たいの見たから、お昼は咲穂が好きなの食べよ」

「う、うん。でも、この腕は……」

「いや?」

「いやじゃないけど……」

「じゃあいいでしょ。ほら、行こう」

 何なのだろうこの子は。こちらの煩悶はんもんに気付きもせずにこんな……。

ほんとに調子が狂う。


「夢だったんだ。こうやって手つないで、友だちと歩くの」

「夢?」

 手どころか腕まで組んででいるけど。

「夏祭りの時とおんなじ。こうやって誰かと一緒に並んで歩くことなんてなかったから」

 愛の頬には桃花とうか色が浮かんでいる。恥ずかしがっているのか、喜んでいるのかよくわからない表情だった。

 私は熱さを感じる顔を背けて「そう」とだけ言った。

 胸の中の靄は、いつの間にか消えていた。私は私で単純な人間だと、心の中で苦笑した。




「じゃあ、ばいばい、咲穂」

「うん。また」


 盛谷駅のホームで、私と愛は別れた。電車に乗ってから、まだこの先長い夏休みの約束を、何一つ決めていなかったことを後悔した。

 でも、何故か自信があった。愛にどんな知り合いがいたとしても、きっと私以上に近い距離にいるはずがない、と。

 食事の後に雑貨屋で買ったお揃いの、白い花柄のキーホルダーを見ていると思わず頬が緩んだ。


 顔を上げた向かいの車窓には海が広がっている。

 沈みかけの太陽がきらめいている。

 何気なく、そのキーホルダーをかざしてみると、光を反射して、さらに綺麗にえた。その輝きと綺麗な海景色とを交互こうごに見ていると、なぜか胸の奥が温かくなった。


 他の人には首をひねられるくらい、ささやかな幸せかもしれないけれど、私のとっては何物にもえがたいものだった。

 


 けれど、いだいたその自信は、ただの過信にすぎなかった。そのことを、私は長期休暇の最後に思い知ることとなる。

 通り過ぎる踏切の音は、やはり、不自然なくらい大きな響きを持っているように思った。

 

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