エデン 1

  目覚めたとき、世界は光に溢れて、とても美しく、素敵なことが今から起きるんだろうと夢子は思った。

 現実では、そんな夢みたいなことほとんどないけれど。

 ううん。大丈夫。

 だって、今日の朝だけは、昨日とはちょっとだけ違う。明日からはほまれさんが一緒にいる素敵な毎日があるんだもの。


 痙攣する瞼がうっすらと開いて見た世界は不思議なくらい白に満たされていた。そのなかに黒い人影を確認した夢子は恐怖から現実に急いでもどってきた。

 それはほぼ本能といってもよかった。

 開いた瞳にはっきりと白と、対照的な黒が動く。

 視界が掠れて、揺れているのに夢子はますます困惑した。

 夢子の視力はとても弱い。だからメガネがないと何も見えない。

 急いで手を伸ばしてメガネを探る。

 と

「やぁ、おはよう。久しぶり、だね」

 ぎこちなく、しゃがれた声が黒からして目をこらすと何か差し出してきた。

 ほとんど反射的に、何も考えずに受け取ったそれが自分のメガネだと気がついてそっといつものようにつけていた。

 世界がはっきりと形を持った。

 真白い壁、真白い、ベッドとシーツ、床も・・・・・・白でないのは目の前にいる黒い、高級そうなスーツを着た初老の男だけだ。

 年齢は五十代半ば、若い頃からスポーツをしていたらしく引き締まった肉体に、穏やかな微笑みをどこかぎこちなく浮かべるのは夢子の警戒心を出来るだけ解こうとしているためのものなのか。

 見つめ合う瞳の、どこか憂いを含んだ輝きを夢子はじっと見つめていた。

「やっぱり、わからないかな」

「私の旦那さんに似た渋くて素敵なおじさまに、お友達はおりませんが? あ、やだ私ったら、えっとどちら様でしょうか?」

「ははは、そうきたか! 君が眠ってから長く時間が経ったものな」

 子供みたいに笑い声をあげる男性に夢子はきょとんとしたあと

「ほまれさん?」

 男が遠いものを見るように目を細めた。

 強い風が吹いて、カーテンが揺れて男の顔が一瞬見えなくなるのに夢子は目を細めた。

 どうして目の前にいる男を自分の大切な人だと思ったのか理由はちっとも思い浮かばないが、呟いていた。

 夢子の夫で、一番大切な人ーー牧間穂希。

 彼は夢子よりも三つ、年上だから今年で二十四歳のはずだ。

「うん。思い出してくれて嬉しいよ、夢子。正直、私が生きているうちにまた会えるとは思わなかった」

 光が揺れて、微笑んでいる男の――いつも自分のことを見下ろしながら声をかけてくる記憶のなかの牧間穂稀と一致した。

 夢子が覚えているのは二十四歳の牧間だが

「……ふ、ふわわわわわっ、私の旦那さんがものすごく渋い、イケメンおじさまになってる。え、どういうことですか? エグザイルに目覚めたんですか? 特殊メイクですか?」

 そもそも彼はこんな目覚めどっきりをしかける性格だったけ? いや、確かに無防備にあくびをしたら指をつっこんでくるおちゃめなところはあったけど

「いや、残念なことに私のシンドロームは二つだけだ。座って話してもいいかな? 君は小さすぎてここだと声が聞こえづらい」

「あ、どうぞ。どうぞ、え、けど、ここって病院ですよね? あのあと・・・・・・あれぇ?」

 傍らにある丸椅子を差し出しながら夢子は言葉に詰まった。

 あのあと、と口にしたくせに自分の記憶が抜けている。完全に零れ落ちている。自分が覚えている一番古い記憶――大切な人と朝を迎えるという自宅のベッドでのことだけだ。

「夢子、大丈夫かい? すぐに医者を呼ぼうか」

 唐突に動きを止めて黙りこむ夢子を心配したのか牧間が気遣うように声をかけてくる。

 夢子は慌てて首を横に振った。

「あ、いえ……私、覚えているのが、ほまれさんとベッドに入って明日の朝ご飯はなにかなってわくわくして、明日からは素敵な一日がはじまるって思っていて、それ以上覚えてなくて、けど、ほまれさんは、渋くなっているし・・・・・・あれ?」

 顔をあげて夢子は牧間を見る。真剣な瞳はやっぱりどこか疲れていた。自分が知っている正義と使命に燃える炎を宿した瞳と少し、違う。

「何があったんですか?」

「……君はジャーム化したんだ」

「ジャーム化?」

 言葉を繰り返して確認する。

 ジャーム――オーヴァードが最も恐れる理性をなくした化け物となり果てた末路。

「……私が?」

「うん。それを俺が止めて、君を冷凍保存した」

 絶句した。

 言われた意味を理解しようとして頭の、とても深いところが否定している。それは自分がジャーム化したことなのか、それとも彼にそんなことをさせてしまったことへなのか。

「君がジャーム化してから、三十年ほど経ったんだ、夢子」

「さんじゅうねん?」

 またしても現実味のない言葉だ。けれど目の前にいる年取った牧間の姿が、ありありと現実だと語っている。

「ああ。そして、君はもうジャームじゃない」

「ジャームじゃない?」

「そう。ジャームは治るんだ。君が眠る前と今では世界はかなり風変りしてしまった、ちゃんと説明しよう。ただそうだな、まずはこう言おうか

 おかえり、夢子」

 記憶では、素敵な一日がはじまりますように、と祈ってベッドに入った。

 横には前の日までいなかった大切な人が傍らに眠っていて、日常がちょっとだけ変化した。

 あたたかい空気に包まれて、大きな手に手を重ねて、優しい香りに包まれる。

 ああ、私は結婚したんだ。大切な人と。明日目覚めたら、その人におはようと口にしよう。その人とちょっとだけ変化した、素敵な明日を繰り返そうとわくわく、どきどきしていたあの日から三十年--。


 ようやく目覚めた世界はとっても美しいと夢子は思った。



 ―――

 被検体:牧間夢子 コードネーム:楽園の守護乙女【ガーディアン・クローズ】

 シンドローム:オルクス/ソラリス クロスブリード

 所属支部:樺ケ埼支部所属

 ジャーム:スピットアウトとの戦闘・捕獲後にジャーム化を相棒であり夫である牧間穂稀により確認、戦闘後捕獲される。

 ジャーム名:――【削除済み】


 ■■■の――により、本日目覚めたことを確認した牧間穂稀より報告が入る。

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