プロローグ
もうすぐ夜があける時刻なのに、世界は暗がりに包まれていた。
それに抗って、必死に片腕を振るった。
もう痛みも冷たさすら感じない腕は鈍器といっても過言ではなかった。
緩慢で疲れた意識に従ってハンマーの役目を果たすだけだった。
唐突にあれほどうるさかった嵐が止んだ。
停止した世界はひどく静かで、自分の心臓の音が聞こえてくる。
水で濡れて肌に張り付いたスーツの気持ち悪さと体の芯の火照りとの温度差にぶるりと一度震えが走った。
決して、今、目に倒れた彼女に欲情しているからじゃない。
自分の目の前で赤黒い血を流し、ひゅーひゅーと息をする彼女はまだ幸いにも生きていた。
醜く歪んだ顔が少しだけ動く。黒く、淀んだ瞳に見つめられると、殴られたような衝撃を受け、息を飲む。
自分のほうが体格も、力も勝り、強者のはずなのにまるで追いつめられた弱者のように怯えていた。
もう、いい。
もうやめてくれ。
お願いだから、もうそれ以上はやめてくれ。
懇願が頭をもたげる。
冷たい片腕が伸びる。まるで星すら掴もうとするように。小刻みに震えながら彼女の血で汚した手で掴んでいた。祈るように両手で掴み、己の額をのせて、獣みたいに荒い息を何度も吐いては吸い込んだ。
「うそつき」
掠れて、しゃがれた声が罵ってくる。
「裏切者」
今度ははっきりと鼓膜を叩いた。
涙にくれた声で自分のことをなじる言葉をただただひたすらに祈るように聞いていた。嗚咽ばかりがこぼれ落ちる口からは謝罪も、罵りも出てこなかった。ただ祈っていた。嘘であってくれとひたすらに月が欲しいとねだる子どもみたいに祈っていた。
涙が歪んだ視界に潮騒の味が口にする。血の味だ。彼女を殴ったせいでついた血の味だ。
ぐったりとした彼女を見つめて、声をあげて泣くこともできずに震えながら両腕を伸ばした。
「ざまぁみろ」
悪魔の声がする。
「お前だけが置いていかれたんだ。お前だけが、お前だけが、置いていかれたんだ、ざまぁみろ、テンペスト!」
哄笑する悪魔は血反吐と泡を吹いて、本当に嬉しくてたまらないように告げてくる。
「連れていった、それをつれていった、おまえはもうとどかないっ」
「黙れっ」
声をあげたとき、力の制御が一瞬外れた。
空気を振動させ、見えない風の刃が悪魔の首をかき切り、もう一度殺した。
かくんと糸の切れた人形のように倒れた悪魔を、今度こそ殺してやろうかと一瞬、誘惑が走ったが、そんなことをしたらなにもかも終わってしまうと微かに残った理性が訴える。
かまうものか。もうかまうものか。
置いていかれてしまった。
一番置いていかれたくない大切なものに。
守ろうときめた日常に。
そのあとに待つ変化した日常をどうして受け止めれるか――と激情にかられて立ち上がり、殺意を持って歩き出したとき、彼の目に眩しい輝きが入り、一瞬動きを止めた。
なんだと思ったとき、明るい光が襲ってきた。
なにもかも照らす夜明けだ。
白む世界の光と、そこに見える歌う星の姿を。
眩しくて狂ってしまいそうだったのに足を止めて両膝をついて、ただ呆けていた。
血と涙に濡れた瞳がゆっくりと世界を認める。
この世界は美しい。
憎み切れないくらいに美しい。
自分の腕のなかに抱えた彼女の左手にある指輪は輝いて、目に眩しく、魂を救ってくれた。
ああ、ほら、また。と小さく罵る。
君はそんなことばかりする。
遠くでサイレンの音に仲間が来るのだと悟り、絶望と悔しさに声をあげて誓った。
決して諦めない。絶対に諦めたりしない。
だから今は裏切りを許してほしい。
なにもかも、太陽に包まれる世界で誓った。
次は必ず手に入れるんだと。
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