ゲヘナ 1
墨と硯をひたすらにすすると心が清められていくのがわかる。
艶やかな墨の色を見ると、ほぉと息がこぼれ落ちる。
今日もいい色が出ていると夢子が満足していると、背後から遠慮がちな気配がした。
「夢子、ごはんが出来たからそろそろ食べよう」
「はぁーい。今行きまぁす」
墨をおいて、ゆっくりと立ち上がる。
今日もいい仕事が出来そうだ。いいや、今日はいつも以上にいいかもしれないとわくわくする。
夢子の朝起きてからの日課は仕事道具の墨をすすることだ。文字を書いて売る――筆耕士であるせいか、朝になると墨の匂いを嗅がないと落ち着かず、満足いく墨の色を見るといいことが起こるんじゃないかとわくわくしてしまう。
なんといっても結婚一日目だ。
悪いことなんて絶対に起きやしない。
仕事部屋として与えられた日差しのよい西に面した畳部屋からそろそろと顔を出すとリビングのテーブルにはほかほかの真っ白いお米と味噌汁、具は夢子の希望で大根。焼き鮭ときゅうりとなすの漬物、ゆで卵が一つ。
「わぁ~~」
つい歓喜の声が漏れる。
「おいしそう~」
駆け寄ってテーブルに並ぶ朝ご飯を見て夢子は声をあげていた。
「ほら、手を洗って」
キッチンで昨日の残り物の肉じゃがを大皿についで、どん、と真ん中に置いて牧間が口にした。
仕事用のスーツにネクタイを胸ポケットにいれて邪魔にならないようにしてある。
どこの角度から見てもどきりと胸が高鳴るいい男だ。
同じUGNに所属するオーヴァ―ドで、同じ支部に配属され、そのときからコンビを組んですでに五年。十七歳からずっと一緒に苦楽をともにした相棒であり、二十歳のときから付き合い、同棲して、つい先日プロポーズをして承諾を得て昨日籍を入れた旦那さんだ。
対する夢子は着物をリメイクして洋服にして身につけている。動きやすさ重視だ。古いものが好きというよりも、着物はお金がかからないし、着回しがとてもラクだからだ。けれど着物をリメイクしていると和が好きと思うのか、知り合いからは簪を送られた。赤玉のついたそれは高くないうが、使い勝手がよくいつも身につけている。長い髪の毛を乱暴にまめて一つに刺せばいいのだ。今日も髪の毛の間で輝いている。
「はぁい、洗ってきまぁす」
いそいそと洗面台で手を洗って急いでリビングの椅子に腰掛ける。
二人で両手を合わせて、いただきますと口にして食事が開始される。ほかほかの米は蜂蜜をいれてしっとりと少しだけ甘く、ふっくら。味のしみこんでぽりぽりとし漬物とさっぱりとした味噌汁の味が体を目覚めさせてくれる。
「仕事はもういいのか」
「はい。昨日書き上げてお届けしたもので一段落つきました」
夢子は、筆耕士として賞状や宛先の文字を書くことを生業にしている。昨日は小学校の卒業式ということで百枚以上の賞状を書いて納めてきた。
この仕事は癖がなく、客の求めるものに応じて筆をとる。資格が必要ないぶん経験やツテが必要で、高校のときに通っていた書道の師から回された客が今の食い扶持だ。
UGNエージェントとして、あっちにこっちにと忙しいので自由のきく仕事でいろいろと助けられている。
ここのところ、つききりの仕事があるが、せっかく入った表の仕事を優先していいと昨日は半休をもらったのでがんばって仕上げた。
「このじゃがいもさん、ほかほかでおいしいですねぇ」
「そうか。それはよかった」
ふぅと息をかけて味噌汁を冷ましながら牧間がゆっくりとすする。一口、飲み込んだ味噌汁の味に満足して、舌で濡れた唇を嘗めたあと
「支部の仕事も一段落つきそうだから、予定していた旅行もいけそうだ」
「ですねぇ。えへへ、すごいですね。北海道のチケット、よくとれましたよね」
ぽりぽりと漬物を頬張りながら夢子は口にした。
自分でお願いしたが、まさか本当に北海道に旅行にいけるとは思っていなかった。
「以前、協力捜査した隣の支部の人に旅行会社の人に知り合いがいて融通してもらったらしい。霧谷さんにもお礼を言わないと、休みをとるのに他の支部からエージェントをまわしてくれたから」
「ですねえ」
相槌を打ったあと、んふふふと夢子が唇が自然と綻ぶままに笑った。自分でも思うが大変気持ちの悪い笑い声が漏れてしまった。
実際目の前にいる牧間は胡乱な視線を向けている。
「なんだ藪から棒に」
「いえ。式とかしてないぶん、すごくこう、すごいですよね」
「……それについては悪かった。支部の仕事がたてこんでいたとはいえ」
牧間にとってそれについて触れられるのはプライドに関わることらしい。夢子はぜんぜん気にしてないのに。
「いえいえ。そうでなくてその分、旅行に行きたいってわがままいったのは私ですしねぇ」
「北海道グルメツアー」
ぼそっと牧間が口にした。
「まさか、新婚旅行にそういうものを指定するとは思わなかった」
「怒ってます?」
きょとんとした顔で夢子は聞き返した。
「いや、すごく君らしいと思ったんだ。食べることがとても好きな君らしい。なんせ、プロポーズが支部の仕事のあと、私に味噌汁を毎日作ってくれ……とはなぁ」
はぁと牧間がため息をつく。
「ほまれさんも、うんって言ったくせにぃ~」
「……徹夜あけで疲れてたんだ」
つい先日、ーー一週間前に二人してUGNの事件が多数勃発し、三徹の朝、牧間がおにぎりと味噌汁を作ってくれたのだ。
家には二人とも服を替えるばかりだったのだが、味噌のもとを丸めて、湯をいれれば味噌汁が出来るそれと鮭と梅干しのはいったおにぎりを食べながら夢子は思わず
ーー一生、私の味噌汁を作ってください
ーー……わかった
とやりとりを見た支部員たちが唖然としたのは仕方がないことだ。
ただ二人ともそのやりとりをきちんと覚えて、ちゃんと結婚するための手続きをはじめたのだ。
三徹のノリは大切だ。
「ほら、魚、俺の分も食べるといい」
当たり前みたいに半分きれいに残った鮭が差し出される。艶やかなピンク色のそれはごはんによく合う。
「わぁ、ありがとうございます。牧間さんの焼き鮭は本当に絶品ですね。肉じゃがたべます?」
「貰う。弁当の具は何がいい?」
「じゃあ、お肉入れてください。お肉」
「太るぞ」
「牧間さんが抱えれないほどに太りませんからぁ~」
にこにこと機嫌よく笑って言い返したあと、ふと夢子は物言いだけな視線に気がついた。
「なんですか?」
「いや、その」
「……? あ、あーー。私たち、もう同じ名字なのに、名字呼びっておかしいですよね? ほまれさん」
小さな牧間が咳をするのに夢子はまたえへへっと笑った。
昨日はなかったささやかな変化した日常--愛する人と結婚してはじまったばかりの日常。
今日は素敵な日になる。
絶対に。だって、こんなにも大切な人がいて、おいしいものがある。
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