2
イルカを連れて、浜辺を歩いていた。
「風が気持ち良いね、誠慈!!」
「そうだね、百合」
俺はイルカの事を、百合と呼ぶ事にした。此の数日で、イルカは随分と明るくなった。百合と同じ様に笑い、同じ様に音楽を愛していた。ピアノの前に座ると、指が吸い込まれる様にピアノを弾いていた。記憶がないのに、不思議と音楽は紡がれていった。其の一つ一つの音が、とても優しくて、とても楽しかった。まるで、百合が其処に居る様な錯覚を起こして、しばしば驚かされる。
「私今、凄い幸せだよ。此のまま、記憶が戻らなければ良いのになぁ」
「どうして?」
「だって、記憶が戻れば、私は私でなくなる気がする。私の中の百合さんが、私から誠慈を奪ってしまう気がするの。だから、記憶なんて戻らない方が良い」
無邪気な笑顔を向ける彼女が、妙に切なく感じた。
「君は、どんな時でも君なんだよ、百合。記憶が戻っても、何も変わりはしない。君は篠崎百合なんだから」
そう言って、後ろから優しく抱き締めた。
「うん」
甘く淡く、イルカは答える。
イルカから不安の匂いが感じられた。
「何も心配しなくても良いんだよ、百合」
ゆっくりと歩くイルカに、手を伸ばした。
「ありがとう、誠慈」
俺の手を取り、優しく微笑み返すイルカ。ゆっくりとした歩幅で、俺達は手を繋いで歩いた。
「Oh~! 貴方はもしかして、Mr.香元ではないですか?」
不意に呼び止められて振り向くと、見知らぬ旅行外国人(エトランジェ)が立っていた。
旅行鞄を持った白人の老人が、人懐っこい笑顔を貼り付けていた。彼はいつの間に現れたのだろう。全く匂いや気配が感じられなかった。
「失礼ですが、貴方は?」
俺は警戒していた。相手が何者で在るか解らないが、普通の人間ではないのは確かだった。
匂いを発しない人間が、黒部以外にいるのは驚きだった。
一体、此の男は何者で何が目的なのだろう。ポケットに忍ばせている毒香に手をやる。
彼女だけは何が在ろうと護らなければならない。
「失礼。私はクリストファー・レイ。気軽にクリスと呼んで下さい」
にこやかな笑顔を宿している。同時に友好的なフェロモンを嗅ぎ取れた。
敵意は全く感じられない。
「そうかい。で、何の用なんだい、クリス?」
警戒は怠らずに応えた。
「私は貴方のファンなんですよ。香元ブランドの香水は全て、ファンタスティックだ!!」
嘘の匂いはしない。畏敬の念すら感じられる。
「そいつは、どうも。だけど、調香師は廃業したんだ」
「Oh~! 其れは勿体無い。貴方は、パヒューマーを止めるべきではない!!」
残念そうな表情。匂いからも、其れは感じられた。
どうやら、本当に只の俺のファンの様だ。
「今は、やるべき事が在るんだ」
毒香から手を放し警戒を解いた。
「そうですか。では、私は何も言いません。おっと、帰る前に握手をして貰えませんか?」
満面の笑みで手を差し出していた。
「あぁ、良いとも」
クリスの手を取り握手を交わした。
――瞬間。
クリスから笑みが消えた。
「『油断』は命取りになるぞ」
ぼそりと英語で呟くクリス。完全に間合いに踏み込んでしまっている。
クリスからは、匂いが完全に消失している。異常な重圧(プレッシャー)を感じていた。身構える暇もなく地面に叩きつけられた――
……と、錯覚させられた。
何が起きたのか解らなかった。
「…………」
茫然と立ち尽くす俺。
隣りでイルカが不思議そうな顔をしている。
実際、何も起きていない。俺の頭の中で、クリスの攻撃を受けた。そう、錯覚させられたに過ぎない。
「今日は良い日だ。日本に来て、良かった。では、失礼するとしよう」
クリスは満面の笑みを浮かべていた。
確かに在の瞬間、とてつもない殺気を感じた。
一体、何者なんだ。
立ち去る彼を只、静かに見送る事しか出来なかった。
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