6
エコーと行動を共にして、三日が経った。此れと言って変わった事は起きていない。緩やかな煙草の紫煙を眺め、ふとエコーに目をやる。酔い潰れたのか、カウンターに突っ伏して眠っていた。
「飲み過ぎだよ、馬鹿」
静かに短足する俺。
穏やかに眠るエコーは幸せそうだった。子供の様な寝顔だ。
今、店内にはマスターは居ない。先程、誰かに電話で呼び出されたのか二時間程、店を開けると言って出て行ってしまった。留守番を任された美香は一人、客の対応をしていたが、最後の客の会計をしていた。
――不味いな。
心の中で呟く。
先日の一件以来、美香と真面に口を聞いていなかった。店に来た時に顔を合わせても、お互い気まずそうに目を逸らし合っていた。エコーが完全に熟睡してしまっている以上、実質的には二人っ切りと言う事になる。
しかも、美香は香水を付けていなかった。いつもはキツい香水の匂いが抑えてはいるが、今日は彼女から発せられるアポクリンアンドロステノンが牙を剥いている。狂気的にまでに濃厚なフェロモンの所為で、美香は殆どの客に言い寄られていた。いつもキツめの香水を付けていた理由は解ったが、何故に今日に限って香水を付けて来なかったのだろうか。
恐らく、何か仕掛けてくるだろう。甘くも恐ろしい予感が脳裏を走った。マスターは少なくとも、一時間は帰ってこない。さて、どうやって切り抜けようか。
「おい、エコー。起きろよ!!」
気持ち良さそうに眠るエコーを揺する。幸せな奴だよ、全く。
早くエコーを起こして帰るのが一番、無難な手段だった。美香に迫られる前に御暇(おいとま)するとしよう。しかし、エコーは起きない。
「起こしても無駄だよ、誠慈」
最後の客の会計を済ませて、美香が戻って来ていた。発する声には、色気が帯びていた。
「其れはどういう意味だい、美香?」
警戒の色を強めながら、其れを悟られない様に問う。
「私が少し強めの睡眠薬を、お酒に混ぜたの。だから、最低でも一時間は、大地震が起きても起きないわ」
とても可愛らしく美香が笑った。どうすれば自分の魅力を最大限、引き出せるのかを計算しているのだろう。大抵の男ならば今頃、美香を押し倒している。
プロポーショナルな顔立ちは、心地良く胸を締め付ける。スタイル抜群の其の体は、淫らに性を刺激するパッション・フルーツ(情熱的な果実)だ。極め付けは其の狂気的なフェロモン。恋に墜ちるには十分な理由だ。
「大好きだよ、誠慈」
男心を擽る官能的な声。心を甘やかに縛り付ける視線。押し寄せる衝動は甘美で妖艶な欲求。恋に墜ちるには十分な動機だった。
「貴方が他の女の事を想ってるのは知ってるわ。けど、私は其れでも構わない。私なら、貴方を満足させられる」
甘く孤惑的に笑う。其の顔を見て、我が目を疑った。
「どうしたの?」
妖しく笑う美香。
「まるで、幽霊にでも出会った様な顔をしてるわね?」
そんな筈はない。
何故、彼女の顔を知っている。俺は訳が解らなかった。困惑と誘惑が、俺の胸中を仄暗く広がっていく。
「貴方の部屋を調べさせて貰ったわ。其れに、此の女物の香水。少し借りるわよ」
そう言って、美香は俺の作った香水を付けた。百合の為に作った香水だった。其の香水は、百合の為だけに作った貴重な一点物。故に、百合に匂いが近い。
美香の体臭が、香に喰われていく。
美香の体臭が、百合に近付いていく。
美香の体臭が、アポクリンアンドロステノンと香に依って、最高に俺好みの匂いへと変貌を遂げた。加えて美香の顔の変化だった。
どういう訳か美香の顔が、百合の顔と全く同じ物へと変わっていた。
「此れが私の『魅惑の恋人』(テンプテーション・ラヴァーズ)の真骨頂。私はホルモンバランスと骨格を変える事に依って、どんな人間にも成れる。どんな人間にも、化ける事が出来るのよ」
そう言って、俺の首に腕を回す。
「貴方はもう、私から逃れられない。だって、貴方は私を見ている。そして、私に魅入っている。そうでしょ、誠慈?」
唇に甘い毒でも塗っているのだろうか。言葉を発する美香の唇は、恐ろしく美しく、魅力的で吸い込まれそうだった。
物凄く、キスがしたい。本能的に、そう思った。抱き締めて、キスがしたい。
「私を……好きにしても良いんだよ、誠慈?」
潤いを含んだ美香の瞳が、尚も俺を惹き込む。
だけど、彼女は百合じゃない。
此の儘では、不味かった。
此の儘では、美香の思う壺だ。
此の儘では、美香に墜とされてしまう。
俺は懐から、人差し指ぐらいの小瓶を取り出して、美香に香を吹き掛けた。アポクリンアンドロステノンとは逆の効果を持つ香だった。此の匂いも又、人間の持つフェロモンに依って生み出される。
人間は此の匂いを生理的に受け付けない。
だが、美香の匂いが強力だった為、嫌悪感はなかった。
其れでも俺は、美香を無理矢理にでも引き剥がそうとした。そして、不思議な事に不意にだが、在る事を思い出していた。
幼い頃、俺には兄と姉がいた。兄とは腹違いだったが、血は繋がっていた。姉の方は兄の母親の連れ子だったと父から聞かされた事が在った。だから、俺との血の繋がりはなかった。兄も姉も俺を可愛いがってくれていたし、俺も二人が好きだった。だけど、在る日、姉は唐突に行方を眩ませた。
「どうして、私を拒むの? 貴方も私も、互いに互いを求め合ってる筈。ほらぁ。私の鼓動は、こんなにも貴方に狂わされている」
美香が俺の手を取り、自分の胸に押し付ける。豊満な胸の奥から、激しい脈動が伝わってくる。淫らに乱れ漏れる吐息。零れ落ちる声。掌に広がる柔らかな感触。恍惚と快楽に歪む顔。
其れ等の全てが、男を魅了する。美香の女の性が、全ての男を、獣としての本性を引き摺り出すのだろう。間違いなく、さっきまでの俺ならば美香を押し倒していた。
そう、美香が何者かを思い出す前の俺ならば――。
「もう、止めよう。こんな事は無意味だよ、姉さん」
美香の肩を優しく抱きながら、諭す様にして言った。
驚きの様子を微塵にも見せずに、美香が優しい笑顔で応える。
「やっと、私の事を思い出したみたいね」
其の笑顔は女としてではなく、姉としての笑顔だった。
さっきまで俺に惚れていた女としての匂いは微塵も感じられない。今は只、慈愛の匂いが感じられた。
「どうして、こんな真似を?」
「私はお前を試したかった」
ぶっきらぼうに言い放つ美香。
「もしも俺が姉さんを押し倒していたら、どうしてたんだい?」
「其の時は私の唇に塗った毒が、お前を殺していたさ」
妖しく笑う美香。嘘ではないな。我が姉ながら、恐ろしい女だ。だけど、俺に惚れていた女の匂いは紛れもなく本物だった。
在れは、演技でどうこうなる匂いではなかった筈だが。
「お前の考えてる事なら解るよ。私は獲物を狩る時、本気で相手を愛すのさ。其れが此の私、【性悪な猫】(ハニー・キャット)の流儀だからね」
なるほど。
流石は魔女の血を引く女と言う訳だ。美香の母は、魔女の家系なのだ。
「で、姉さんはどうして今更、俺の前に現れたんだい?」
思い当たる理由が全くなかった。
「其れは――」
「――其の理由なら、私が話してやろう」
突如、背後で声がした。聞き憶えの在る声。マスターの声だった。
「危ない、誠慈!!」
美香の声と共に、俺は押し出された。倒れる間際に、美香がマスターに刃物か何かで刺されるのが目に飛び込んできた。
「姉さん!!」
俺は慌てて起き上がる。エコーは相変わらず、眠っている。
マスターは血に塗れたアサルト・ナイフを持っていた。いつもと雰囲気が全く違う。顔に貼り付けた温和な笑顔とは裏腹に、とてつもなく暗く冷たい匂いを放っていた。
「ターゲットを庇うなんて、馬鹿な女だ。折角、目を掛けてやっていた物を。所詮は女と言う訳か」
まるで、壊れた玩具を見る様な冷眼を美香に向ける。
「私とこいつは、ドルフィンに雇われた殺し屋だ。すぐに、お前もあの世に送ってやる」
マスターとの距離が、いつの間にか縮まっている。既にマスターの間合いに入っている。全く隙がなかった。此の三年の間に闘う術は身に付けはしたが、一対一で面と向かってでは勝ち目はない。
――さて、どうするか。
香を使うだけの時間を与えてくれそうにはない。かと言って、普通に闘えば負ける。
――不味いな。
「どうした?もしかしてお前、びびっているのか?早く掛かって来いよ」
マスターの能面の様な笑みの奥から、どす黒く冷たい悪意が伝わってきた。どぶ臭い心の匂いに吐き気がする。
どうやらマスターは、人を殺す事に性的興奮を感じている様だ。ズボン越しにも解る程に、マスターの股間は怒張している。じっくり時間を掛けて殺すつもりなのだろう。でなければ今頃、俺は殺されている。だが、お蔭で助かった。
複数人の匂いが近付いて来ている。
「すぐに俺を殺さなかったのが、命取りだったな」
「何を言っている?」
――刹那、乱暴にドアが開け放たれた。
物凄い勢いで、影が走る。影は一気にマスターとの差を埋める。
影の正体は黒部だ。
黒部はマスターに向かって拳を叩き込んでいた。其の動きは流れる様に、とても綺麗に思えた。空手の正拳突きだった。
マスターは其れを左手で受け流して、右手に持ったナイフを黒部に切り付ける。が、黒部は其の軌道を読んでいたのか、マスターの右手の間接を取った。
渇いた鈍い音がした。マスターの右手は在らぬ方向へ折れ曲がっていた。
呻くマスターに黒部は銃口を向ける。
「危ない所だったな、香元よ」
微笑を携えて、黒部が言う。背後には黒服の男達が控えている。
「安心しろ。殺しはしない。お前には聞きたい事が在るからな。こいつを連れていけ」
黒部の言葉に従い黒服の男達が、倒れたマスターを拘束して運び出して行った。
「姉さん、しっかりしろ。大丈夫か!?」
俺は美香を抱き抱えた。息を苦しそうに乱す美香。其の様子に黒部は溜め息をついて、吐き捨てる様に言った。
「見事な演技だな」
「あら、良く解ったわね」
「――え!?」
突然、ケロッとした表情で美香が言った。そして、何事もなかったかの様に立ち上がった。そんな筈はない。美香の傷は明らかに致命傷だったし、確かに血の匂いがした。其れが何もなかったかの様に傷が塞がっている。只、服だけが破れているだけだった。
「其処の坊やと違って、場数を踏んでるんでね。しかし、魔女ってのは不死身なのか?」
「いいえ、致命傷を受ければ死ぬわ。但し、私の場合、特異体質だから直ぐに治っちゃうの。其れより、私を連れてかないの?」
呆然とする俺を余所に、二人は続ける。
「さっきの男から、必要な情報は聞き出すさ。其れに、俺にアンタを連れ出す権限はない。アンタ、狼(ヴォルフ)の人間だろ?」
「ちょっと、待ってくれ。姉さんが狼(ヴォルフ)って一体、どういう事なんだ!?」
益々、訳が解らなかった。
狼(ヴォルフ)とは賭博法改訂以降に出来た機関だ。賭博自体は違法ではなくなったが、賭博絡みの犯罪は激増した。警察だけでは事態の収拾が付かなくなり、特殊警察が生まれた。其の中でも更に特別な部隊が特殊警察機構特別編成チーム、通称【狼】(ヴォルフ)だった。ヴォルフは各分野のスペシャリストだけで編成されてると聞いたが、まさか美香がヴォルフのメンバーだなんて信じられなかった。
「そんなに驚かないで、誠慈。って、流石に無理かな?」
悪戯っぽく美香が笑う。其の眼には怪しい光が宿っていた。
「じゃあ、もっと驚く事を教えてあげる」
一拍、置いて。真面目な顔付きで口を開く。
「私の父の名は、ドルフィンよ」
『何だって!?』
俺と黒部の驚嘆の声が重なった。余りにも衝撃的な真実に流石の黒部も取り乱していた。
「私は父を捕まえる為にヴォルフに居る。誠慈に一つだけ教えてあげる。貴方のお父さんと私の父は、在る物を賭けていた。其れ以上の事は、教えられないわ」
そう言って、踵を返して出入り口の扉を開いた。
「そうそう」
此方を振り返って、笑顔を向ける。
「誠慈の前に現れたのは、アンタを試したかったの。取り敢えず、合格点をあげるわ。またね、誠慈!!」
美香は去って行った。
俺と黒部は訳が解らないと言った顔で、互いの顔を見ていた。
後には、エコーの寝息だけが残っていた。
「美香ちゃん、今度デートしよう」
間の抜けた声に、少し――いや、かなり呆れた。深い溜め息を付いて。
「幸せな奴だよ、本当に」
そう、吐き捨てるので精一杯だった。
「全くだ」
どうやら、黒部も同じ様な心境らしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます