第一章【再会】
1
雨が降っていた。
本当に嫌な雨が降っていた。希望の灯を掻き消そうとする雨だ。早くしなければならない。
俺は辺りを窺った。懸命に老婆の姿を探す。焦りが、苛立たせる。
風が冷たく打ち付ける。深い闇が俺の心を蝕む。必ず、殺す。ドルフィンだけは此の俺の手で、必ず——殺す。
ドルフィンは俺から、全てを奪った。必ず見付け出さなければならない。
奴の居場所を、俺は知らなかった。以前、ドルフィンの元で働いていた場所は、疾(と)うに引き払っていた。だけどドルフィンの部下ならば、知っている筈だ。
俺の前に在の時の老婆が突然、現れたのだ。確かドルフィンに、クズ婆と呼ばれていただろうか。クズ婆は、俺の前に現れて言った。
——過去がお前を喰らう。
三年前の在の時と同じ言葉だった。其の瞬間、俺の脳裏に百合の最後の姿が過ぎって、怒りに我を失った。老婆に掴み掛かろうとした途端、忽然と姿を消してしまったのだ。
だが其の直後に、背後から不思議な香を感じた。俺は直ぐ様、香の入った瓶を投げ付けた。
「ぎゃあっ!!」
蛙が潰れた様な、不快な悲鳴と瓶の割れる音がした。取り敢えず、老婆にマーキングが成功した。気配は失われたが、香の匂いがした。
老婆の足ならば、そう遠くへ逃げる事は出来ない。近くに居るならば絶対嗅覚で、香の匂いからクズ婆を探し当てる事が可能だった。だが早く見付け出さなければ、此の雨で香が流れ落ちていく。
——糞が。
焦りが判断を鈍らせてしまう。少し落ち着かなければならない。
ポケットから、小瓶を取り出して香を嗅いだ。フランコン・ド・セルのきつい香りが、意識を引き締めていく。シトラスの心地良い香りが広がり、冷静さを取り戻してくれる。フランコン・ド・セルは十九世紀のフランスで流行った気付け薬だ。尤も俺が調合した物は、絶大な効果を自負する最高級の香で在る。思考が一気に鮮明(クリア)になっていた。俺は短く深呼吸をした。匂いがする方へ神経を研ぎ澄ます。此の辺は狭い路地が複雑に入り組んでいたが、必ず最後には一カ所の通りに繋がっている。
クズ婆は必ず、其処に行き着く。俺は先回りして、其の場所へと向かった。
予想していた通りにクズ婆は、此方に向かって来た。クズ婆に付いた香が此方へ現れるタイミングを測って、現れた人影に飛び付いた。
「きゃあっ!!」
若い女の悲鳴。目の前に飛び込んで来たのは、老婆ではなく二十歳そこそこの清楚な女だった。
そんな筈はない。確かに香の入った瓶をぶつけた時に、聞こえた悲鳴は老婆の物だった。
「何なんですか、貴方は!?」
驚嘆と恐怖の二重唱(デュオ)。確かに女からは、俺のオリジナルの香の匂いがした。鼻を刺激する強い薔薇の香りが、目の前に居る相手がクズ婆で在る事を証明している。老婆が若い女になったとしか言い様がない。
だが、しかし……有り得ない。目の前に居る若い女がクズ婆だと言う事は、まず有り得ない。老婆が若返る等と言う事は、起こり得るべくもない。其れに在の老婆の若い頃の姿が、こんな美女だなんて……有り得ない。
考え得れる事は、悪魔の香に依る幻覚作用だ。確かにクズ婆が姿を消した直後に、今まで嗅いだ事のない香を嗅いだ。そして香元家の古い記録には、幻覚作用を及ぼす香が確かに存在する。
しかし本当に、クズ婆で在るのだろうか。解らなかった。確証がなく、余りにも鮮やかな幻覚だった。俺は躊躇していた。
怯えた女の目。震える肩。恐怖と警戒の匂いが、俺を迷わせていた。本当に幻覚なのだろうか?
だが、迷ってる暇はなかった。
「おい、貴様!! 其処で何してる!?」
男の声がした。しかし、姿が見えない。
一体、何が起きている。此れも、幻覚に依る物なのか。其れとも、クズ婆の仲間に依る別の能力なのだろうか。
「助けて下さい!!」
女が誰もいない空間に縋り寄る。否、姿が見えないだけで、確かに其処に男が居るのかもしれない。
だけど、匂いが感じられない。
もしかしたら、誰もいないのかもしれない。
「何ぃっ!? 取っ捕まえてやる!?」
男の声がした直後、見えない力に抑え込まれ、俺は地に捩じ伏せられていた。
「こんな美女を襲おうだなんて、許せん奴だ!! もう、安心ですよ。お嬢さん……っ、何だぁっ、お前!? そ、其の姿は!?」
男が声を上げるのとほぼ同時に、俺も顔を上げていた。
突然、女に異変が起きていた。背が縮まり、皺だらけになっていく。急激に女が老けていった。
「チッ、もう効果が切れたか。まぁ、良いさ。どうするのかね、香元よ? 此の私を捕まえるのかい?」
目の前にはクズ婆が居た。矢張り、女はクズ婆だったか。しかし、まさか悪魔の香の効果で、あそこまで若返るとは恐ろしい力だ。其れ以上にクズ婆の若い頃があんな美女だなんて恐ろしい事実だ。
「私のA・E・P(アンチ・エイジング・パヒューム)の力は、中々の物だったろう? 香の力でホルモンバランスに異変を起こして、若返っていたのさ。悪魔のなせる業さね」
卑しく笑うクズ婆。俺を抑え付ける男は驚きながらも、力を緩める兆しはなかった。
「其の男を放すんじゃないよ。もしも放したら、アンタを呪い殺してやるからね!!」
老婆に言われた途端、男は抑え付ける力を強めた。
「ちなみに、其の男は全く知らない奴だよ。アンタから逃げてる途中、不可視の効果が在る香を吹き掛けておいたのさ。しかし、どうだった? 私の若い頃の姿は、思わず惚れちまいそうだろう?」
クズ婆は随分と饒舌に話している。
話し過ぎて若干、息が切れている。
「成る程。こいつは一杯、喰わされた。だが此れで、何とか成りそうだ」
俺は余裕の笑みを浮かべた。
「アンタ、正気かい? 此の状況が、解らないのかい!?」
クズ婆の息切れが、次第に激しくなっていく。
「さっき、アンタに瓶を投げた時、既にアンタは詰んでいたんだ。息苦しくはないか?」
抑え付けられながらも、余裕の表情をクズ婆に投げ掛けてやった。
「何を馬鹿な事を?」
「おや、まだ気付いていないのかい? 香料に毒草を使わせて貰ったんだ。暫くの間は、息苦しくなるが死にはしない」
そう言い終わった刹那の事。
「く、苦しい……」
男が手を放した。恐らく、喉に手を当てているのだろう。解放されて、俺は直ぐに立ち上がった。香の効果が切れたのか、男の姿がハッキリと確認できた。
男は警官のしていた。さっき、クズ婆に縋り付かれた時に毒草を吸ってしまったのだろう。常人には、割りと早く効果が在るみたいだ。まぁ此の際、仕方がない。
「さて、ドルフィンの居場所を吐いて貰うとしようか?」
観念したのか、クズ婆は抵抗しなかった。
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