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「条件だと?」
煙草の煙りをゆっくりと吐き出して、灰を灰皿に落としながらドルフィンは言った。中肉中背をイメージしていたが、予想以上にスマートな男だった。六十手前とは思えぬ程に若々しく、引き締まった肉体は良く鍛えられている。広い部屋に置かれた木彫りの獅子を象った椅子に負けないくらいに、荘厳な其の男は腰掛けていた。鋭い眼光で、こちらを睨み付けている。
「篠崎義則の負債を肩代わりさせてくれるのなら、アンタの下に付いてやる。現在の負債は一億と聞いているが、どれぐらいで完済できる?」
「お前なら、一年で可能だろうな。其の後は、どうするつもりだ?」
「アンタの元を離れるさ」
ドルフィンの眼光が鋭さを増す。だが、引く訳にはいかなかった。キッと気を張り詰めて、睨み返す。まるで、心臓を鷲掴みにされている様な錯覚を覚えた。否、錯覚などではないのだろう。ドルフィンが其の気になれば、俺は人知れず消されていく事になる。
嫌な汗が全身を包む。どれぐらい時間が経っただろうか。実際には一瞬の出来事だろうが、俺には長い時間の様に思えた。
短く、低く、ドルフィンが笑った。冷ややかな其れは、俺の心臓を加速させる。
「良いだろう。契約書にサインすれば、篠崎義則の負債は目を瞑ろう」
俺は、安堵していた。
静かに溜め息を漏らすのと同時に其の老婆は声を上げた。
「御待ち下さい、ドルフィン様。其の者が本当に、一億円の価値が在るのか、試させて下さい」
嗄(しゃが)れた声が、とても不快だった。其の老婆は静かな笑みを認(したた)めながら、俺の元へと歩み寄る。
「待て、クズ婆よ。勝手な真似は許さん」
「御心配なさらずに。貴方様の不利になる様な事には、なりますまい」
不思議な老婆だった。
其の老婆は、まるで気配を持たなかった。何の匂いも放たずに只、其処に存在している。
「試すと言っても、此の者の眼を視るだけです。其れで、此の者の全てが視えます」
老婆はゆっくりと、俺の頬に手を当てた。静かな笑みを張り付けている。空洞の様な双眼には、何も映っていなかった。老婆は盲目だった。
「お前には、悲しい未来が視える。其の未来は過去からやって来て、必ず……」
——お前を喰らう。
不意に、脳裏を幼い頃の記憶が過ぎった。
母に手を引かれ、父と兄が待つ部屋へ連れられる自分。優しい桃の香りが、脳裏で蘇る。母の匂いが何処か百合の匂いに似ていて、記憶の中の母と百合の姿が重なった。其の瞬間、記憶と悲しみが触れ合った。母は此の日、死んだのだ。何故か、母の死と百合が重なったのだ。何故かは解らなかった。
——嘲笑。老婆は不気味な笑い声を上げていた。
ほんの少し苛ついた様な声で、ドルフィンが言った。
「クズ婆よ。もう、気は済んだか?」
「えぇ。此の者は、貴方様に利益を<ruby>齎<rt>もたら</rt></ruby>します。では、私は此れで」
老婆は去っていった。
去り際、老婆から香を感じて驚いた。
香元家に記録されている《悪魔の香》と呼ばれる物に、似ていたからだ。正気に戻った俺は老婆を追い掛け様として、寸前の所で思い留まっていた。
俺は今日、老婆に会いに来た訳じゃない。
ドルフィンに向き直り気合いを入れ直す。
——俺は、百合を救いに来たんだ。
「邪魔が入って、済まない。契約書にサインを頼む」
ドルフィンが数枚の書類を差し出してきた。契約書と篠崎義則の負債を示す証書が差し出され、俺は契約書にサインをすると証書を懐にしまった。
「では早速、一仕事して貰おうか」
通された場所は、ドルフィンの息が掛かったカジノだった。其のカジノのVIP室に連れられて、俺は四十代ぐらいの男とギャンブルをさせられた。
事前に男の詳細が記された資料を渡されて、目を通していた。
男の名前は相沢卓。四十二歳。奥さんと二人の子供が居た。下の子供はまだ二歳で、上の子は七歳だった。男は居酒屋を経営していて、ドルフィンに一億八千万円の借金をしていた。全てギャンブルで作った借金らしい。そして今夜の勝負に男は、経営している居酒屋と男自身の命を賭けていた。
「私は人の絶望に歪んだ顔を見るのが、好きなんだ」
好きなんだ、の部分を強調して言いながら、ドルフィンは笑った。其の様に腹が立った。だけど、俺は心を抑えた。
「香元よ。お前に人を殺す覚悟は、在るか?」
ドルフィンは冷ややかに、問い掛ける。
男の命が掛かった此の勝負に、俺は勝たなければならない。男の命を奪わなければならない。
そうしなければ、百合を救う事が出来ないのだから。
「覚悟なら、初めから出来ている」
俺は必ず勝つ。
「では、勝負を始めて貰おう」
渡されたイカサマカードを使って、俺は男とギャンブルを始めた。
辺りは絶望と狂気の匂いで埋め尽くされていた。
——勝負は思っていたよりも単純に進められ、予想していたよりも簡単に勝つ事が出来た。
明け方頃には解放されて、勝負は毎週、土曜日の夜に行われると言う取り決めとなった。
其れからと言う物、俺は毎週、ドルフィンの元へと訪れた。篠崎義則は百合の弟が匿う事になり、百合は風俗を辞めてパン屋でバイトをする様になった。俺も本屋でバイトをして、二人の僅かな収入で生活をする様になった。
貧しいながらも幸せだった。
只、ギャンブルの在る日だけは二人から笑顔が消えてしまう。
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