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「お疲れ様です」
「おう、ご苦労さん」
店長が書籍の梱包を解きながら、返事を返す。ドルフィンの圧力が未だに掛かっているのか、何処の会社からも門前払いを受けていた。そんな中、店長だけが快く雇ってくれた。幾ら感謝してもし足りなかった。
家路を歩きながら、時計に目をやる。五時四十二分。二分、遅れている。早足で歩いた。交差点で曲がった所に在るコンビニに入る。髪をアップに結った百合が、ファッション誌を読んでいた。白い花柄のワンピースが良く似合っている。
百合が俺に気付き、笑顔を返す。いつも、お互いの仕事が終わった後、此処のコンビニで待ち合わせをしているのだ。読んでいた雑誌をしまって百合がこちらに向かって歩いてくる。
「お疲れ様、誠慈」
何気なく投げ掛ける言葉。
「お疲れ、百合」
何気なく返す言葉。
何気ない此の会話が今の俺には、とても大切だった。何かこう、とても幸せな言葉の様な気がした。何気ない一時が、何気なく幸せを運んでくる。そんな日々が堪らなく愛しいと感じていた。香を作っていた時には決してなかった感覚だった。只々、父に認められたいが為に、香を作っていた。けど、今は違った。作りたい香が在った。
——俺は幸せの匂いを作りたい。
ドルフィンとの事が片付いたら、調香師に戻るつもりでいた。
「早く行こう!!」
百合に手を引かれて、俺達は海に向かって歩いた。
「今日も疲れたぁ」
百合と海辺を歩く。仕事の帰り道、二人で海を散歩するのが日課となっていた。
「誠慈と出逢って、もう一年だね!!」
「うん。明日で全て終わる」
明日の土曜日、最後のギャンブルが行われる。其の勝負に勝てば、百合の父親の借金は完全になくなり、俺達二人は晴れて自由の身になる。俺も百合も縛られる物がなくなり、好きな様に生きられる。
「全てが片付いたら、二人で音楽活動をしよう。色んな所に行って、百合の歌声を響かせよう」
「そうだね!! そしたら私、いっぱい色んな歌を作って、皆に聴かせたい。勿論、誠慈の為だけに特別な歌も作るね!!」
目を輝かせて、百合が言う。そんな百合が堪らなく好きだ。
一緒に色んな所に行きたい。色んな物を見て、色んな事を感じたい。辛い時は互いに支え合って、楽しい時間を共有したい。
百合となら、どんな時でも大丈夫。百合の笑顔は俺が護ってやる
いつも、一緒で——。
いつも、幸せに——。
いつも、大切に——。
いつも、百合を想い続けている。
だから、俺は勝たなければならない。
もっと、もっと、強くならなければならない。
不意に、百合の歌声が聞こえてくる。
優しい曲調。
穏やかな気持ちにさせられる。
百合の声が、心に染み渡る。百合の想いが伝わってくる。俺は百合のメロディに合わせて、百合に教わったH・B・B(ヒューマン・ビート・ボックス)をする。
スネア・ハット・キック・ベースラインで音を組み立てていく。百合の歌声に合わせて、刻むリズム。
ゆっくりと——。ゆっくりと時が流れて、満ちていく。
浜辺の風に乗って、音楽は空を飛ぶ。二人の想いと願いを乗せて、音楽は空を飛ぶ。
百合のビブラートを、俺のビートがオブラートに包み込む。
もう、俺達は何も恐れない。何もかもを失ったとしても、百合さえ居れば何も要らない。
——護ってみせる。
絶対に。絶対に百合を護ってみせる。此の歌は、そんな誓いの音楽だ。
やがて、静かに沈黙がやって来て、風が俺達二人を包む。
——抱き合って。
——見つめ合って。
ゆっくりとキスをする。
「大好きだよ、誠慈」
「俺も百合が大好きだ。明日、絶対に勝つから。だから、何も心配するな」
「私は誠慈を信じてる。だから、何も恐くないよ」
そう言う百合の声は震えていた。
明日で全てが終わる。
俺は強く。
——強く、百合を抱き締めた。
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