2

 目が覚めたのは、彼女の部屋でだった。窓の外は、うっすらと明らんでいた。新聞配達のバイクの音が近付いては止まり、又、遠退いていった。薄闇の中、時計に目をやると四時半を少し回った処だった。


 二時間半程しか眠っていない。俺も彼女も裸だった。


 昨夜の事を思い出す。


 海から上がった後、彼女の部屋に招き入れられて、俺達は愛し合った。互いを求め合った。甘やかで、艶やかな——そして、優しい夜だった。


 天使の様な安らかな彼女の寝顔に癒されながら、頭の中に彼女に合う香水を焼き付ける。淡い桜の香りが似合いそうだ。俺は頭の中で匂いの調合をする。彼女の優しい匂いと桜の香りとが入り混じって、とても繊細な優しさが匂いとなって、頭を埋めていく。触れれば壊れそうで、其れ故に愛しい匂いだった。イメージが消えない内に、材料と配合をメモしていると彼女が目を覚ました。


 寝惚けているのか無言で只、優しい眼差しを俺に向けている。愛しさが抑えられぬ程に俺の体を満たし、彼女を抱き締める。


 柔らかく、暖かな彼女の体は繊細な迄に細く。鼻に触れる彼女の長い髪から香る匂いが体を満たし、狂おしい程に彼女を求める。優しく唇で、彼女の唇に触れる。柔らかで濃艶な感触。絡め合った舌は別の生き物の様に彼女を貪る。彼女の舌の感触が、理性を飛ばさせる。


 彼女を優しく押し倒し、首筋に口付けする。舌を這わせながら、手は彼女の四肢を愛撫する。滑らかな彼女のラインを、舌で優しくなぞる。乱れる彼女の息。唇で優しく彼女を愛していく内に、彼女の敏感な場所に触れたのか、漏れ出る声。不思議と俺の意識は、二日前の夜に飛んでいた。



   ●



 俺は調香師の一族に生まれた。父は厳しかったが、其れ以上に優しかった。母は幼い頃に死んだ。


 俺——香元誠慈は香元家の次男として生まれたが、父の後を継ぐべく僅か三歳の頃に、あらゆる香りを嗅ぎ分ける訓練を強いられた。其の結果、十歳の時に特殊な能力が芽生えた。


 異常な嗅覚と匂いに対する記憶力である。


 人間には体臭と言う物がある。そして其の匂いは人、其々だ。体臭を嗅ぎ分け記憶する事が出来た。


 父は此の能力を、絶対嗅覚と名付けた。絶対音感を持つ者は、あらゆる音を音階として捉える事が出来る程、聴覚が発達している。俺の持つ絶対嗅覚は其れの更に上を行く進化を遂げていた。


 人は怒った時にアドレナリンと言う物質が脳内で分泌される。其れ等の脳内物質を嗅ぎ分け、相手の感情を嗅ぎ分ける事が出来るのだ。


 父は此の能力に目を付けた。


 絶対的な才能の前では、努力は霞む。だが、絶対的な才能が努力を重ねると神の領域に到達する。そう言い聞かせて父は、俺を育てた。俺には人が必要としている香りが、手に取る様に解った。其の為、俺の調合した香水は全てがバカ売れだった。


 だが、父は俺を認めはしなかった。


「お前の生み出す香は、人々を魅了する。其れは、お前の匂いが透明だからだ」


 食事の際に父が淡々と語る。いつも、父は俺に漠然とした言葉を投げ掛ける。


 決して答えは言わない。俺には父の言葉の意図が解らない。いつも父は俺に何を求めているのだろう。


「何を言ってるんですか、父さん?」


 食事の手を止め、戸惑いながら父を窺う。父の考えが解らない。


 常に理解不能の儘、父との会話は曖昧な終着を迎える。だからなのか、俺は父に認めて貰える事に執着している。


「お前は、どんな匂いにも染まる事が出来る。だが、どの匂いにも成る事は出来ない」


 深く溜め息をついて、父は食事を再開した。俺には父が、お前は出来損ないだと言っている様に聞こえた。


 腹が立った。


 自分自身に腹を立てた。


 立ち上がり、其の場を去ろうとする俺に父は静かに言った。


「お前は透明なんだ」


 其れが、父の最期の言葉だった。



   ○



 ——ならば、俺は何者にもならない。


 彼女を抱きながら、心の中で呟く。


 父が俺に何を求めていたのかなんて、知った事じゃない。彼女の喘ぎ声が、更に俺の感情を加速する。其れが深い怒りなのか、彼女に対する愛情なのかは解らない。だが、今は快楽を貪りたかった。


 彼女が俺の首に其の細い腕を回す。引き寄せられる様にしてキスをする。


 涙が出た。彼女の愛を孕んだ体温が伝わる。


 此の女だけは、何が在っても護ってやる。絶対に、失って堪るか。そう、壊れ掛けの心に誓う。


 悲しみと憎しみと怒りと愛しさが混じり合って、香(パフューム)と化す。


 彼女と俺を一つに繋げていく香(パフューム)。


 俺の中で何かが満ちていく。


 気持ちが最高潮に達して、俺は果てていた。


 だけど、想いは溢れていた。


 俺は崩れる様にして泣いた。声を張り上げていた。


 呻きと言うよりは、叫びだった。


 深く、深く、心の奥深い部分を彼女に曝け出している。其れは本能だ。


 淡く、淡く、儚く消えてしまいそうな程、脆い俺の感情を彼女は抱きしめている。——慈愛? ——憐れみ? 違う。けど、解らない。彼女の内側が全く解らない。彼女の前では、俺は無力な子供と変わらない。だが、本能は其れを許さない。俺は香元家としての誇りにどれ程、縋っていたのだろう。


 父が死んで全ての財産を失った香元家は事実上、没落した。俺は自分の力を過信しながらも、結局は香元家の地位に甘えていた。


 香元家の財力なしでは、必要な香料すらも集められない。第一、俺は何故、調香師として生きてきたのだろう。俺が香元家の人間だからだ。父に香を作る事を課せられていたからだ。たった其れだけの理由でしかない。


「貴方がどうして苦しんでいるのか、私には解らない。きっと私じゃ、貴方の苦しみを理解する事も出来ない」


 赤子を諭す母親の様に優しい口調で彼女が言う。俺は静かに、彼女の言葉に耳を傾けた。不謹慎だけど、彼女の声が心地良かった。


「私も、苦しんでる。いっそ、死んでしまったら楽かもしれない」


 嗚呼、だから昨日の夜、あんな顔で月を見ていたのか。一体、彼女は何を苦しんでいるのだろう。だけど、俺には理解、出来ないのだろうな。其れが、悔しくて仕方がない。


 悔しさを振り払う様に、彼女の体から離れた。


 ゴムを外して後処理を済ませると再び横になった。


 左手で彼女を抱き寄せると其の身を預けてきた。


「昨日、死のうとした?」


 呟く様に訪ねると彼女は少し戸惑って、直ぐに又、笑顔を浮かべて言った。


「うん。けど、貴方が来たから」


 腕の中で、彼女が笑う。


「何か、親に怒られた子供の様に見えて」


「何其れ?」


「ごめんなさい。けど、何か其れがおかしくって、つい」


「つい?」


「ううん、何でもない」


 言葉をつぐむ彼女。


「何か腹立つ」


 ぶっきらぼうに言い放つ。


「けど、当たってる。前の日の夕方、親父に怒られたから」


 クスクスと笑う彼女。


 釣られて苦笑する俺。


「どうして怒られたの?」


「内緒」


「そっか」


 気が付けば朝日が差し込んできて、部屋は晴れていた。雀達の歌声が聴こえる。穏やかな朝が心を落ち着け、睡魔となって襲ってきていた。


「とうっ!!」


 不意に、叫びながら彼女が胸に顔を埋める。意外な彼女の行動に眠気が散っていった。


 目を閉じて、彼女は静かに呼吸をする。穏やかな吐息が伝わってくる。


「貴方の胸の鼓動は、とても優しいリズムを奏でてる。だけど、心の奥底から、とても悲しいメロディが聴こえるの。貴方の苦しみが何なのかは解らないけど、其れが何なのかが、解る気がするの。……ごめんなさい。変な事、言っちゃって。けど、貴方と私は何処か似ている気がするの」


 彼女の匂いが、優しく澄んでいた。さっきまで感じていた不安や悲しみの匂いが、全く感じられなかった。


「貴方の側に居ると、不思議と安らかな気持ちになれる。だから、私も貴方の苦しみを消し去ってあげたい。例え、其れが一時の事で在ったとしても」


 彼女の匂いは、聖母の様に慈愛に包まれている。


 俺の心と彼女の心とが触れ合い、唇が重なり合った。互いの匂いが絡み合い、混ざり合った。


 そして其の儘、微睡みの中へと俺達二人は、溶け合った。

 



 目を覚ますと腕の中には、彼女が居なかった。まな板の上で、包丁がタップダンスを踊る音が聞こえてきた。小気味良い断続音を奏でる彼女の後ろ姿が、目に入った。部屋と部屋を仕切る壁がない為、ベットからキッチンが窺えた。鼻腔を擽る味噌汁の匂いが、二日酔いの胃を締め付けた。昨夜は彼女との情事で忘れていたが、生まれて初めての自棄酒をしたのだ。頭の奥底で、小さな爆撃が行われていた。鼻歌を歌いながら卵を掻き混ぜていた彼女が、俺に気付き笑顔を向ける。


「もう少しで出来るから、待ってて」


 油を引いて熱したフライパンに卵を注ぐ音がした。ベットの脇に有るピアノに視線を移した。随分と古びているが、大切に使われているのか綺麗だった。ピアノを弾く彼女の姿を脳裏に映した。今にも優しいメロディが流れてきそうだった。


「どうしたの?」


 いつの間にか、彼女が目の前にいた。


「食べよ!!」


 手を引いて、テーブルへと促された。


 湯気を立てる味噌汁。艶のある炊き立ての白米。程良い焼き色の卵焼き。良く脂の乗った鮭の塩焼き。光沢の在る沢庵。並べられた昼食を見て、口内で唾液が広がった。テーブルに着くなり、俺は味噌汁を口に運んでいた。穏やかに胃が刺激されて癒される。


 朝食を食べながら、俺は此れまでの経緯を彼女に話した。


 父の死や財産を失った事。住む場所や行く宛がない事を話した。


 彼女の事も色々と知った。年は俺の一つ下の二十四歳だった。仕事は少し離れた場所の花屋で働いてるらしく、今日は休みだった。彼女の名前が篠崎百合という事も、今頃になって知った。


「誠慈は、どうして調香師になったの?」


 春の温かい陽射しの様な優しい笑顔を注ぎながら、彼女が言った。穏やかな木漏れ日が、窓から差し込んで部屋を照らす。


「俺が物心ついた頃から、親父は俺を調香師として育てた。だから、俺は気が付いたら調香師になってたんだ」


 とても穏やかな空気が流れていた。彼女の長い髪が、日に透けて茶色に染まっている。


「そうなんだ。誠慈にとって、パヒュームって何なの?」


 言われて、返事に困った。


「じゃあ、香を作るのは楽しい?」


「楽しくない」


 今度の質問には、直ぐに答える事が出来た。香を作るのは嫌いではないが、楽しいなんて思った事はなかった。


 俺にとって香を作るのは、朝起きて歯を磨くのと同じ。生活習慣として深く根付いている。只、其れだけの事だ。


 ——お前は透明なんだ。


 父の言葉が頭を過ぎる。


「親父は俺に何を求めていたのかが解らないんだ」


 百合は黙って俺の話しを聞いている。


「香を作る事を強いて、俺を調香師として育てた。俺は親父の期待に応えられる様、努力した」


 現に俺の香は、多くの者達に評価されてきた。


「だけど、親父は俺を認めはしなかった。俺は親父に認められたいが為に、新しい香を作り続けた」


 其の度に、父は俺を突き放した。決して、父は俺を認めやしない。


 百合は優しく微笑んで、諭す様に言った。


「きっと誠慈のお父さんは、誠慈の事を思ってくれてたんだよ。人は頂点に立つと、必ず奢る生き物なの。だからこそ、誠慈のお父さんは、常に誠慈の壁で在り続けたんじゃないかな?」


「そうかな?」


「きっと、そうだよ。誠慈のお父さんって、どんな人なの?」


「親父は厳しかったけど、優しかったと思う」


「ほら、やっぱりそうじゃない!!」


 楽しそうに笑う百合がとても可愛らしくて、愛しさが増した。


 肩を抱き寄せて、頬に手を当ててキスをした。愛しくて、堪らなくなって、俺達は疲れるまで互いを求め合った。

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