イルカ

81monster

序章【誓い】

 人間の心の匂いが嫌いだった。どす黒くて濁った溝の匂いに似ている。


 全てがそうではない。誰もが汚れている訳ではない。確かに綺麗な匂いも在る。確かに、綺麗な心も在る。けれども人間の持つ負の感情は、確実に大多数を占めている。腐った心の匂いだった。


 そして其の匂いは、俺の中からした。


 ——けったくそ悪い。


 何もかも、胸糞悪い。


「糞っ。畜生……」


 苛立ちを抑え切れなかった。糞っ垂れな此の現状が堪え切れなかった。どうしようもなく腹が立つ。


 薄暗い街の灯りに照らされて、俺は覚束無い足取りで歩いていた。薄暗いネオン。仄暗い喧騒。陽気に昏い街の灯と、人々。聞こえて来るのは雑踏。錯交する声と音と人。色んな物が入り混じった匂いに、吐き気がする。


 歩きながら、俺は人々をぼんやりと眺めていた。喜怒哀楽、様々な感情が其処には在った。無表情で歩く者もいた。自分は一体、どんな顔をしているのだろうと、ふと思った。きっと、酷い顔をしているのだろう。


 今朝、俺の部屋に黒服の男達が突然、押し掛けて来た。男達は無言で俺の部屋のあらゆる物を差し押さえていった。戸惑う俺に男の一人が、父の死を告げた。理由はギャンブル。ドルフィンと呼ばれる男に昨日の晩、全てを奪われた挙げ句、命を失ったのだ。俺の持つ財産も全て、父が賭博で負けた事に依って失った事も知らされた。俺の全てが失われてしまった。不思議と悲しみや怒りは無かった。只々、全てがどうでも良かった。俺は煽る様にして酒を飲んだ。


 酒を飲んでいると何故か、俺の中から泉の様に怒りが湧いてきていた。其の感情に戸惑いながらも、俺は酒を飲んだ。


 俺は下戸だったが、飲まずにはいられなかった。激しい吐き気に襲われながら、夜の街の片隅で項垂れながら、酷い醜態を晒している自分が許せなかった。


 薄暗い裏路地に、飲食店や風俗から出たであろう生ゴミが捨てられていた。ゴミ箱に収まり切らず、ゴミ袋が山積みになっていた。野良猫がゴミを漁っていて、俺の足音に気付きこちらを見た。野良猫と目が合い立ち止まる。不意に喉元まで熱い物が込み上げてきて、俺は吐いていた。野良猫は俺の嘔吐に驚いたのか、何処かに行ってしまった。


 自分が薄汚い下衆野郎に思えて、酷く腹が立つ。父を失い、財産を失い、住む家も失った。父の所為で周りの信用すらも失っていた。


 正確な判断をする思考をなくして、恥もなくして。そして、自棄酒をして、自分をも見失っている。愚かな男だ。恐ろしく無知で無力で酷く情けない。


 此の街も醜く見えて、死にたくなる。本当に、どうしようもない自分がいる。どうしようもなく、歩いている。


 急に美しい物が見たくなって、俺は海に向かって歩いていた。


 二時間程、歩いてようやく海に辿り着いた頃には、酔いは醒めていた。


 人の姿はなく、とても静かだった。


 静か過ぎて、海を見ていると波に飲み込まれそうになった。


 ——其れも悪くないな。そう思った時、誰かがいる事に気付いた。


 こんな時間に何をしているのだろう。若い女が一人、海に足をつけて月を見ていた。何故だか知らないが、胸を締め付けられた。まるで、恋をしている時の様に、其れでいて少し違う感情が芽生えていた。


 其れが何なのか、解らない。俺は彼女を見つめ続けた。


 海辺で佇む彼女。悲しそうな顔をして月を見ている。こんな時間に、こんな所で何をしているのだろう。俺は立ち止まり、彼女を見続けた。波の音が耳に優しく届くのを感じながら、心を奪われている自分に少し驚く。


 幻想的な風に誘われて、甘い想像を抱く。一目惚れと言う奴だろうか。彼女に急速に惹かれている自分に少し、驚く。程良く、心地良く、冷たい風が体を包み込んでいった。


 穏やかな波の音に紛れて、イルカの鳴き声が聞えてきた。まるで、彼女に何かを囁く様に、慰める様に、とても優しい声だった。だけど、彼女の表情は変わらない。


 ——悲しげな彼女。


 彼女はとても美しかった。小さな整った顔は、子猫の様な柔らかさを感じさせる。其れでいて何処か寂しげで、今にも壊れてしまいそうな脆さが在った。細い体の曲線は優雅で気高く、其れでいて愛しく思えた。俺は寂しいのかもしれない。悲しいのかもしれない。


 だから、何の面識もない彼女に惹かれているのかもしれない。穏やかな空気が流れていた。彼女の長い髪が、風と共に流線形に流れている。彼女を照らす陰美な月が、とても神秘的に感じられた。


 幾許(いくばく)かして、彼女が俺に気付いた。驚いた様な表情をして、すぐに笑顔を作る彼女。けれど、彼女から発する悲しみの匂いは消えない。嗚呼、此れは涙の匂いだ。


「ねぇ、泳がない?」


 唐突な言葉。刹那、上がる水飛沫。バシャバシャ、夜の海に響く彼女のリズム。とても美しい彼女はまるで、イルカ。


 優雅に、無邪気に泳ぐ彼女は笑顔を向けて叫ぶ。


「気持ち良いよ〜!! 泳ごうよ?」


 子供っぽいな。と、思った。しかし、大人びたスタイル。アンバランスな彼女。涙の匂いがしないのは、海の水に紛れた所為ではないのだろう。全く、初対面なのに何時の間にか、彼女のペースに巻き込まれてる。


「変な奴……」


 微笑を浮かべて呟く俺の手を引いて、静かに笑う彼女。


「貴方も随分、変わってるわ」


 優しげな口調でいて、弾む彼女の声。


 水の中は冷たいかと思ったが、思ったより温かい。誘われる儘(まま)に彼女と海に潜る。彼女は微笑んで、俺を内へと惹き込む。彼女に手を引かれる儘に、心を惹かれる儘に、身を委ねる。


 暫(しば)しの水中遊泳を楽しむ俺と彼女。ひんやりとした水の感触。幾重にも広がる波紋。そして、彼女に墜ちていく俺。どうしてだろう。どうして、こんなにも彼女に惹かれているのだろう。


 ——そんな事、解り切ってるだろう?


 聞こえてくるイルカの声。


「見て、彼も貴方と友達になりたがってるわ」


 振り向くと小さなイルカが居た。


「まだ子供だ。群れと、はぐれたのかな?」


「密漁者に、親と引き離されたのよ」


 声を潜める彼女。とても悲しそうな眼でイルカを見ている。


「どうして、そう思うの?」


 髪を掻き上げる仕草に、暫し目を奪われる。


「彼から聞いたの」


「彼?」


 イルカに視線を戻し訪ねる。


「えぇ。私にはイルカの声が聴こえるの。イルカだけじゃない。動物や植物の声が。時には物の声も聴こえるの」


 視線を落とす彼女。


「こんな事、誰も信じないわよね」


 ほんの少し、彼女は表情を暗くする。


 其れが、妙に切なかった。穏やかに流れる細波(さざなみ)が、鼓膜で響ている。其れ以上に胸の鼓動が大きく響いている。海の水が優しく俺達を揺らしている。


 俺は優しい口調で言った。


「信じるよ。匂いで解るんだ」


 不思議と笑顔が浮かんだ。


「何其れ?」


 釣られる様にして、静かに彼女も笑った。


 ——イルカの鳴き声。彼も笑っている。


「今日は月が、とても綺麗ね」


 彼女は静かに歌い出した。優しい声。穏やかなメロディ。ゆっくりと時が満ちていく。


 六月の初夏の風は、濡れた体には肌寒かったが、そんな事は気にならないぐらい彼女に引き込まれていた。出来る事ならば、此の儘いつまでも聞いていたい。其の澄んだ歌声は、心地良く耳に染み入る。


 月に照らされた彼女が美しくて、何故だか涙が出た。どうしてか解らないが、心が温かくなる。


 彼女の笑顔が、俺の涙と重なる。


「どうして、泣いてるの?」


 解らなかった。


 急に真面目な顔をして、無言でこちらを見る。クールな瞳に尚も魅せられる。普通にどう見ても、彼女は最高に綺麗だ。優しげな笑顔。けれど、瞳はとても悲しそうだった。そして、其処には俺の悲しみが在る様に感じて苦しくなる。けれど、彼女から目を放せないでいる。


 堪らなくなって、彼女を抱き締めていた。俺の腕の中で、静かに戸惑いが揺れる。


「辛いんだね……」


 とても苦しそうな彼女の呟き。


「貴方の心の声が聴こえるの」


「心の声?」


「うん。やっぱり私、おかしいんだろうね」


 悲しそうな声。今にも消え入りそうだった。


「俺にも、不思議な力が在る。匂いで解るんだ。だから、君の悲しみが匂いで解る」


 ほんの少し、彼女が驚いて。暫く黙り込んで——彼女が笑った。


「やっぱり貴方、変わってるわ」


 そう囁いて向けられた眼差しが、潤いを含んでいた。吸い込まれる様に、静かに口付けをした。彼女の唇はとても柔らかく、俺は彼女の中に墜ちていく。お互い濡れた体で抱き合っていると彼女の温もりが伝わってくる。とても暖かく、溶け込む様な錯覚と、甘やかな時間とが俺達二人を包み込んだ。


 暫く見つめ合って、穏やかな沈黙が訪れた後、クスクスと笑う彼女を見て我に返る。


 彼女は静かに言った。


「寒いね。此の儘じゃ、風邪ひいちゃう。私の部屋、すぐ其処だから。ね?」


 彼女の上目遣いと笑みに又、心が濡れた。


 彼女を抱き寄せて、もう一度、抱き締めた。とても温かくて、不意に愛しさが込み上げた。

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