第5話 モカ 〜強い酸味と共存する果実のような誘惑〜

 澤井課長が折原さんを引き連れて帰社したのは、6時を過ぎた頃だった。

 印刷会社の手配もでき、何とか事なきを得たようだ。取引先に損害が及ばなかったことに対し、安堵を覚える。

 私は昼間の出来事を思い出していた。

 折原さんは、いつ頃から嫌がらせを受けていたのだろうか?

 何故そのようなことが起こっているのか。

 そもそも、何でそのような意味のない事をするのかが理解できなかった。

 澤井は知っているのだろうか?

「西岡主任、聞いても良いかな?」

 私は近くで仕事をしていた西岡主任に話しかけた。

「社内でイジメというか、嫌がらせをされたとかいう話を聞いたことはあるかい?」

 西岡主任は、しばらく呆気に取られていたが、首をひねって考え出した。

「人が集まれば、多少なりとも派閥ができます。意見が合わない人も出てくるでしょう。ですが、いい大人がイジメをするというのは考えづらいですね。」

 やはり、西岡主任も私と同じ見解だ。となれば、巧妙に隠しているということだろうか。

「そもそも、この御時世にそんなことしたら、ハラスメントで訴えられちゃいますよ。」

 確かにそうだ。

 どこの企業もハラスメント撲滅に躍起になっている。しかし、その中でいったいどれくらいの人間がハラスメントを正確に理解できているのだろうか。

「そんな事を考えるのは、時間の無駄ですよ。それよりもデスクにある書類、早く目を通しておいて下さいね。」

 西岡主任はそう言うと、ファイルの束を持って資料室に行ってしまった。

 刻々と時間が過ぎていく。

 時計の針はもうすぐ9時に届こうとしている。

 社員のほとんどは帰ってしまい、残っているのは折原さんと私だけになってしまった。

「ふぅ。」

 私はディスプレイから目を離すと、目頭を押さえた。

 目の奥が痛い、少しPCを見すぎたか。

 折原さんの方に目をやると、懸命に何かの書類を作っていた。鬼気迫るとは正にこういう事なのかもしれない。

 話しかけられる雰囲気ではないな。

 私はそう思うと、小銭入れを手にオフィスから出た。

 エレベーターで一階まで降り、ビルの目の前のコンビニへと向かう。

「小腹がすいたな。」

 と言っても弁当を買う気にもなれず、ブロックタイプの栄養補助食品を手に取った。

 こういうものはあまり食べる機会が無いが、チーズ味、ココア味、メープル味と色々な味があって、なかなか美味しそうだ。

 私はレジに栄養補助食品を持って行くと、一緒にブレンドコーヒーを頼んだ。

 料金を店員に渡して、お釣りを受け取る。

「あ、あと、カフェラテを一つ。」

 少し考えて、私は折原さんの分のコーヒーも注文した。

 頑張っている部下に、コーヒーぐらいは買っていっても良いだろう。


 私がオフィスに帰ると、相変わらず折原さんの打つキーボードの音だけが響いていた。

 カタカタカタカタ。

 小気味よいリズムでキーボードを打つ女性だと思った。エンターキーを打つ音だろうか、時折聞こえる少し荒れた大きな入力音が彼女の今の心境を反映させているのかもしれない。

「まだやってるのかい?」

 折原さんの後ろから話しかけた。

「はい、もう少しだけやってから帰ろうかと思います。」

 ディスプレイから目を離さずに、折原さんが答えた。

「あまり根詰めても、いい仕事はできないぞ。」

 私は先程買ったカフェラテを、折原さんのデスクに置きながら言った。

 折原さんのキーボードを打つ手が止まる。

「ありがとうございます、課長。」

 折原さんが、買ってきたカフェラテを口に含んだ。

「やっぱり美味しいですね、ここのカフェラテ。わざわざ買いに行ってくれたんですか?」

 椅子ごとにこちらに向き直って、折原さんは尋ねた。

 その仕草に、思わず鼓動が早くなるのを感じる。

「折原さん、今日の発注書の事だが。」

 唐突に私は口を開いた。

「すいません、ご迷惑をおかけしました。」

 折原さんは椅子から立ち上がり、深々と私に頭を下げた。

「いや、そうじゃないんだ。」

 私は折原さんに椅子に座るよう促しながら、言葉を探した。

 うまい言葉が見つからない。どうしても誰かを非難せずに終わらせられるように思えない。

「あれは、本当に折原さんのミスかい?」

 意を決して、私は話し始めた。

「どういう意味ですか?」

 怪訝な表情をして折原さんが答えた。

「そのままの意味だ。あの発注書の数字は折原さんが入力したのかと聞いているんだ。」

「はい、私が入力したことに間違いはありません。」

「それは本当かい?」

 折原さんの目を見て私は尋ねた。

「飲みに行った日さ、私も一緒に見ただろう発注書。私は1000部だったのをはっきり覚えてる。」

「保存、しなかったのかもしれませんし。」

 折原さんが口ごもった。

「最終の更新履歴は次の日だった。折原さんがメールを送ると言ってた日だ。」

「じゃあ、次の日に間違って入力しちゃったんですよ。」

 折原さんが目を逸して言った。

「何故、隠すんだ。誰かにやられたんだろう?」

 折原さんが、体をビクッと震わせた。

 思わず声が大きくなってしまった。

「今までも、嫌がらせをされてたんだろう?やった人間の目星もついている。明日、澤井に言いに行こう。」

 そうだ、これで丸く治まるはずだ。

「言って、どうするんですか?」

 俯いた折原さんが言った。

「知ってますよ!誰がやってるかも!全部知ってるんです!」

 折原さんが立ち上がり、声を張り上げた。

「でも、しょうがないじゃないですか。こういうのは相手が飽きるまで、我慢するしか無いんです。」

「そんな事はない、しっかりと上司に相談して・・・。」

「相談してどうなります?前の職場でもありました。手口が変わってエスカレートしてくだけなんですよ。」

 折原さんは力なく椅子に座り、視線を床に落とした。

「だいたい、何で課長がこんな話をするんですか?自分の課でも無いのに。」

 床を向いたまま折原さんが言った。

「それは・・・社内で起こったトラブルは課長として対処しなきゃいけないし、社会的に見たって改善はしなきゃならない。・・・あと、目の前で起こってるんだ。見過ごせるわけ無いじゃないか。」

「最初に課長と屋上で会った日・・・。」

 唐突に、折原さんが話し始めた。

「屋上に、泣きに行ったの。」

 まさか・・そんな前からイジメを。

「そしたら課長がいるんだもん。風に吹かれながら、気持ち良さそうに。優しそうな顔で。」

 折原さんが顔を上げた。

 目にはこぼれそうなほど涙が溜まっている。

「そんなの見たら、泣けなくなっちゃったよ。」

 折原さんは、指先で涙を拭いた。

「それから辛いことがあると、いつも屋上に行ってた。午後3時半、課長はいつも屋上にた。変からずブラックコーヒーを持って。課長は私に元気をくれた。」

「そんな、私は何も・・・。」

「何もしてないあなたで良かったの。何も知らないあなたが良かったの。」

 一筋の涙が頬を伝った。

「やだ、お化粧が落ちちゃうよね。」

 折原さんが立ち上がった。

 私も続けて立ち上がる。

 走り去ろうとする折原さんの手を取り、私は強引に折原さんを抱きしめた。


 何故、嫌がらせを止めるのか?

 課長としての責務?

 社会的な改善?

 ・・・違う!そんなのただの建前だ。


 君が苦しんでいたからだ。

 君の力になりたかったからだ。


 「幸せか?」尋ねられたら「幸せだ」と答える。

 物足りなさを感じながら。

 その答えを求めて。

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