第4話 マンデリン 〜強い苦味に隠された甘美な香り〜
暦の上では秋となったが、まだまだ暑い日が続いている。
会社の業績は上々。業務は増え続け、嬉しい悲鳴が聞こえている。
これから年末に向けて、ハロウィンやクリスマスなどのイベントが目白押しで、ますます仕事量は増えてくるだろう。
私も体調管理をしっかりして繁忙期を乗り越えなければならない。
そろそろ部下たちが帰社してくる時間だ。
私は小銭をポケットに入れると、席を立った。西岡主任に離席することを伝えると、給湯室の自動販売機でアイスコーヒーを買い、階段を上がった。
西岡主任は私の行動を、特に気に留めることはない。私がこの時間に一回離席することが多い事を知っているからだ。
階段を二階分上がり、屋上へと続くドアを開ける。外から熱風が吹き込んできた。私は目を細めながら屋上へと足を踏み出した。
照りつける日差しがジリジリと肌を焼く。
9月に入り、朝晩の気温は多少下がってきたが、まだまだ昼間は暑い盛りだ。
私は屋上の手すりに寄りかかると、買ったばかりの缶コーヒーのプルタブを起こした。
小気味よい音を立てて、缶コーヒーが開いた。
缶コーヒーを口に含む。
コーヒーの爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、続いて軽い苦味が口に広がる。
少し缶の臭いが気になるのが残念であるが、十分に及第点を満たしている。
照りつける日差しに身を晒し、目を閉じて物思いに耽る。
別に仕事をサボっている訳じゃない。
頭の中でこの後の仕事の手順や、今後のスケジュールを検討しているのだ。こうする事によって、この後の仕事の効率が格段に変わる事を私は知っている。
カタンという音で、私は目を開けた。
おかしい。屋上の扉が開く気配は無かった。いくら鈍い私が考えを巡らせていたとしても、正面の扉が開いたらさすがに気付く。
最初から屋上にいた?
誰だろうか。
屋上という空間に足を踏み入れるのは、私ぐらいのものだろうと思っていたが・・・。
いや、もう一人いたな。この私の空間に平気で足を踏み入れてくる人間が。
「折原さんか?」
私は音のした方向に向かって、声をかけた。
これで折原さんじゃなかったら赤っ恥だ。
程なくして、物影からひとりの女性が姿を表した。案の定、折原さんだ。
「バレちゃいましたか?隠れて脅かそうと思っていたんですけど。」
その割には、なかなか姿を表さなかったな。
私は折原さんをマジマジと見た。
目が赤い?
折原さんの両目は少し腫れ、真っ赤に充血していた。
「こんな所で、何をしてたんだ?」
ゆっくりとした口調で、折原さんに尋ねた。
「だから、課長を脅かそうかと思って。」
折原さんからが口ごもる。
「何かあったのか?」
私は折原さんの目を真っすぐに見た。
「何、言ってるんですか。何もないですよ。そろそろ仕事に戻らなきゃですね。サボってるのバレたら、澤井課長に怒られちゃいます。」
折原さんは私から目を逸らし、そう言うと、屋上の扉を開けてオフィスへと帰っていった。
「申し訳ありません。」
私がオフィスに帰ると、折原さんが澤井課長に頭を下げている所だった。
「もういい!先方はカンカンだ。とにかく謝罪に行くからついてこい!」
そう言うと、澤井課長は折原さんを待たずにオフィスから出て行った。慌てて折原さんが後を追う。
私は何事かと、西岡主任に尋ねた。
「折原さんが発注数を間違えたみたいですね。パンフレットを1000部頼まなくちゃならなかったみたいなんですが、100部しか発注してなかったみたいで。もう納期に間に合わないですね、どうするんだろう。」
西岡主任は特に興味が無さそうに答えた。
「そういえば、折原さんのミスは今回だけじゃないみたいですよ。細かいミスが重なって、今回の件です。さすがに澤井課長の堪忍袋の尾も切れたって感じじゃないですかね。」
西岡主任が、椅子ごとこちらに振り返って答えた。
「発注ミスって、先月に担当していたパンフレットの事か?」
「よく知ってますね。営業一課のお得意さんらしいですよ。今回から担当が折原さんに変わったとか言ってました。彼女、営業成績は良いですから、そこん所を買われたんでしょうが。とんだ失態ですね。」
その発注書は折原さんと飲みに行った日に私も見ているが、確かに1000部と記載してあったと記憶している。
私は自分のPCで発注書を呼び出した。
発注書は100部と記載されている。更新日時は、飲みに行った日の翌日。
私の中で一つの疑問が生じた。一度仕上げた書類をいちいち修正するだろうか?修正するとしても、数量などの大事な部分は細心の注意を払うのではないだろうか?
「ミスが多い」というのも、引っかかる。多くの社員を見てきたが、折原さんのようなタイプはミスを繰り返すタイプには思えない。
ふと顔を上げると、営業一課の社員二人が席を立つのが見えた。何やら申し合わせたように目配せをしていたのが気になった。
どうやらふたりの行き先は喫煙所のようだ。喫煙所と言っても、ビルの裏口に設置された灰皿のある空間であるが。
「うまくいったな!見たか、あの女の顔!」
「あいつ、新人なのにいい気になってるからな。」
「数字だけ良ければ良いってもんじゃないんだよ!営業は!」
私は耳を疑った。何ということだろう。我が社にこんな社員がいるなんて。
「俺なんて、顧客取られてるからな。今回のミスで、折原じゃダメだって事になって返ってこねぇかな。」
ふたりの会話はしばらく続いた。
今回の発注書の改ざんも、度重なるミスもこのふたりの仕業らしい。
握った両手が怒りで震えた。
折原さんを陥れた事に対してなのか。
自分たちが守ってきたこの会社に、このような社員がいた事に対してなのか。
それとも、このような価値観を生んでしまう世間に対してなのか。
何に対する怒りなのかは分からなかった。
このままふたりの所に出ていって、怒鳴りつければ良いのか?
冷静になれ。それでは何も変わらない。
何か根本的な解決法は無いのか?
まずは当事者に確認しなければ。
・・・傷が深くなる前に。
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