第6話 キリマンジャロ 〜焙煎が織りなす七色の味わい〜
「課長・・・だめ・・・です。」
折原さんが消え入りそうな声でそう言ったのは、悠久とも一瞬とも捉えることのできるような時間が経過した後だった。
女性特有の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
自然と折原さんを後ろから抱きしめる私の両腕に力が入る。
まるで呼応しているかのように、折原さんも私の両腕を抱くように手を回し、顔を埋めた。
現実味を帯びない時間が流れた。
窓の外から聞こえる喧騒が、どこか遠くの音のような錯覚を覚える。まるで、ふたりの周りの時間だけが止まってしまったのではないかと思えるほどだ。
思考が停止して何も考えられなかった。
「奥さん、悲しみます。」
そう言った折原さんも、私が後ろから回した両腕を抱きしめ離そうとする素振りを見せない。
社員が帰ったあとのオフィスは驚くほど静かだ。窓の外の雑音だけが、この空間と現実を結びつける唯一の鍵のようにも感じる。
ふと、折原さんが私の腕を抱く力を緩めた。
同調するように、私も折原さんを抱きしめている腕の力を緩める。
私の腕の中で、折原さんが首だけひねるようにして私を見た。
その目は溢れそうなほどの涙でいっぱいだった。夜景に彩られ、彼女の目はキラキラと輝いていた。
奇麗だ。
涙に濡れる女性を見てそう思うのは、不謹慎かもしれない。しかしそう思わずにはいられなかった。
折原さんが目を伏せる。
頬を一筋の涙が伝った。
私は折原さんの顎に指をかけると、軽く力を入れた。
抵抗なく折原さんの顔がこちらを向く。
目と目が合った。
ゆっくりと吸い寄せられるように、ふたりの唇が静かに重なる。まるで、そうすることが最初から決まっていたかのように。
最初は優しく、次第に激しく私達はお互いの唇を貪るように求めた。
思考が麻痺して、何も考えられなかった。
妻、子供たち。
仕事、立場、信用。
全てがどうでも良くなっていた。
あぁ、ダメだ。これは破滅へ誘う道だ。
頭の中でいくつもの思考が交錯する。
頭では分かっている。
しかし、感情が言うことを聞かないのだ。
私はこの感情に抗う術を持ち合わせてはいないのだ。
私達はしばらくそうしていたが、どちらともなく唇を離した。
折原さんは一度俯いてから、私の腕の中で反転してこちらを向いた。
涙の浮かんだ瞳が、キラキラと光っていた。
折原さんは目を閉じてから、軽く顎を上げた。
今度は優しく唇を合わせる。
窓の外から聞こえる喧騒とは、全く別の空間が私達の周りに存在していた。
優しく、
静かで、
それでいて官能的な。
私はもう一度、折原さんを強く抱きしめた。
折原さんは私を受け入れ、私の胸に顔を埋めた。
愛おしい。
愛おしいとはこういう想いを指すのだと、私は初めて気づいたのだ。
このまま、ずっとこのまま。
折原さんも私の胸に顔を埋める事を止めようとはしなかった。
折原さんはが、屋上に姿を見せるようになったのはいつ頃からだろうか。
最初は自分の空間に入ってきた異物のような感覚であった。しかし、次第にその存在が心地よくなっていった。
職場という場所にある、業務とはかけ離れたほんの少しの時間。
部下が戻ってくるまでの、少しだけ空いた時間。業務中であるという後ろめたさが逆に後押しして、私は彼女の存在を否定することができなくなっていったのだ。
誰にも知られてはいけない私の淡い感情。
もちろん折原さんにも悟られてはいけないことは、重々承知の上だった。
知られれば、私の周りの環境の全てが崩壊する。
それは火を見るよりも明らかだった。
しかし、感情とは頭でコントロールできるものではない。
私の中の彼女の存在が、どんどん大きくなっていくのを感じずにはいられなかった。
違和感を感じることが、できなくなるほどに。
何故、彼女は屋上に来たのか。
何故、彼女は私と会ったのか。
最初にそれを感じるべきだったのだ。
彼女のSOSをもっと早くに感じ取っていれば、結果は違っていたかもしれない。
今日も私はひとり、屋上でコーヒーを飲む。
「今日は空が高いな。」
手すりにもたれかかりながら、私は空を見上げた。
雲ひとつない、見事な秋晴れだ。
そろそろ部下が戻ってくる。このあとの業務を整理しておかなければならない。
自販機で買ったコーヒーを口に含んだ。少し物足りなさを感じ、ひとり苦笑いをする。
営業一課内で起こっていた嫌がらせは、今に始まった事ではなかったらしい。澤井課長の売り上げ第一の考え方が、このような影の部分を生んでしまったのだろう。
この問題は、辞めていった職員による内部告発によって、明るみになったと聞いている。事実を黙認していた澤井課長は減給処分を言い渡され、現在業務改善に躍起になっている。
この分だと、しばらくは被害に遭う職員もいない事だろう。
「さてと、そろそろ仕事に戻るかな。」
私はそう言うと、残ったコーヒーを一気に飲み干した。
少しだけ肌寒かった。ビル風が冬の訪れを知らせているのだ。
屋上の入り口をくぐる時、誰かに呼ばれたような気がして振り返る。
「屋上とはこんなに広い空間だっただろうか?」
やけに広く感じる屋上を背に、私は仕事に戻った。
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