第2話 ケニア 〜フルーツのような爽やかさとバランスのとれた苦味〜
茹だるような暑さの日々が続いていた。
こう暑いと、屋上でコーヒーを飲む気にもなれず、クーラーの効いたオフィス内で過ごすことが多くなっていた。
顧客の秋のイベントに向けた広告の多くが締切間近となっており、私のデスクの上も書類が山積みとなっていた。
「ふぅ、今日も残業になりそうだな。」
ため息混じりに独り言を言い、先程コンビニで購入したアイスコーヒーを口に含んだ。
折原さんに教えてもらって以来、たまにコンビニのコーヒーを飲むようになっていた。基本的にはホットコーヒーを好むのだが、今日のような猛暑日はアイスコーヒーを頼むことが多い。
時刻は4時を少し回ったぐらいだ。
少しづつ部下たちが戻ってくる頃だ。今日の営業報告を行い、明日の準備をしてから退社となる。連日のサービス残業をなんとかしなければと思いつつ、営業職なのだから仕方がないという頭もあり、なかなか手を付けられずにいる。
そういえば、営業一課はそういった業務改善の話は聞かない。
営業一課の課長の澤井は、私の同期だ。以前よりやり手の営業として、社長からも一目を置かれていた。
ふと扉の向こう、ビルの通路に目をやると、折原さんの姿が見えた。
オフィスの中に目をやる事もなく、足早に扉の前を通り過ぎた。
トイレかな?などと無粋な想像をしてしまい、私は頭を振った。
仕事に集中しなければ。
私はコーヒーを口に含んだ。すっきりとした苦味が口の中に広がる。
書類ケースの一番上の束に手を伸ばした。確かこれは、来季のビール販促広告の企画書だったと記憶している。
気がつくと、時計の針は8時を回っていた。
今日は忙しかった。既に夕飯に間に合わない時間であるが、早く帰ってゆっくり休もう。たまには晩酌をするのも良いかもしれない。
オフィス内には、まだ数人の社員が残って仕事をしていた。
「お疲れ様。まだ頑張ってるのか?」
私は営業二課の永田に話しかけた。
「お疲れ様です課長。秋のスタジオイベントのデザインなんですが、うまくまとまらなくて。」
永田が困った顔でパソコンを覗き込んでいる。
「頑張るのも良いが、まだ締切間近な訳じゃない。デザインってのは、根を詰めれば良いものが出来るとは限らないんだ。そろそろ帰って休んだらどうだ?」
永田の肩を軽く叩きながら、私は言った。
その後も私は自分の部下に声をかけて回った。やる気のある若者たちが多い。願わくば長く勤めてもらいたい。
時計の針は9時を回った。オフィスにはほとんど人が残っていない。
ふと隣の部署に目をやると、ひとりの女性が真剣な眼差しでディスプレイを見ていた。
折原さんだ。
営業一課の他の社員は、澤井課長を含め全員が退社済みのようだ。
「折原さん、まだ終わらないのかい?」
私は折原さんのデスクまで行き、声をかけた。
「あ、課長お疲れ様です。発注伝票の最終確認をしていたんです。」
確かにディスプレイには発注伝票が表示されていた。
こんなに遅くに発注伝票の確認を?
ディスプレイには「パンフレット1000部」というの発注伝票が表示されていた。
それほど難しくない業務であるため、遅い時間を疑問に思ったが、他の仕事もあったのだろうと思い、深くは考えない事とした。
「やっと終わったー!あとは明日メールで送るだけだ。」
折原さんはそう言って、両手を上げると大きく伸びをした。
「やっと、週末だぁ。明日はゆっくり休もう。」
本当に嬉しそうにそう言う折原さんの表情は、疲れが色濃く出ていたが、晴れ晴れとしていた。
「この後、一杯どうだい?」
自然に口から言葉が出た。私から誰かを誘うことは本当に珍しい。
「どこに連れてってくれるんですか?」
折原さんが嬉しそうに言った。
「連れてくって言っても、駅前の居酒屋だぞ。少し飲んで、一時間ぐらいでお開きだ。」
「十分です!それじゃ、急いで準備しますね。」
そう言うと、折原さんは荷物をまとめだした。そんなに急がなくても良いのに。
そんな折原さんの姿を眺めていた私であるが、私の方こそ急いで支度をしなければならない事に気づいた。
今の私のデスクは、物が山積みだ。
せめて大切な書類だけでも引き出しの中にしまっておかなければならない。
駅前の居酒屋は混んでいたが、二人ぐらいなら何とか待たずに入ることができた。
通された席は壁際にある、狭めの二人席だ。
「何だ、ずいぶんと狭い席だな。」
私は思ったことをそのまま口にした。
「良いじゃないですか。私、こういう狭い席好きですよ。」
折原さんが、私の横から覗き込みながら言った。
「昔っから狭いところ好きなんですよ。押入れの中とか、机の下とか。」
折原さんは今日もケタケタと楽しそうに笑った。
「それに、何だか密会みたいじゃないですか?」
悪戯っ子のような顔で笑う折原さんに、柄にもなくドキドキしてしまう。
「何を言っているんだか。最初は何を飲む?」
戸惑っていることに気づかれないように、メニューに視線を落としながら、私は尋ねた。
「とりあえず、ビールで!」
「お、良いね。いける口かい?」
「はい、お酒は大好きです。」
週末の仕事終わりだ。店に入る前から、仕事の話はしないことにしようと決めていた。短い時間だが、今日は私も楽しもう。
まずは、枝豆と漬物、焼き鳥の盛り合わせを頼んで・・・。
ちょっとオヤジ臭いか?
今の若い子達はどんな物が好きなのだろうか?
フライドポテト?
シーザーサラダ?
ピザ?
ちょっと迷った挙げ句に、折原さんに聞いてしまうことにした。おじさんの私にはいくら考えても分からないのだ。
「何でも大丈夫ですよ。お酒があれば幸せなんで。」
心底、酒が好きなんだな。
「あ、シーザーサラダを頼んでも良いですか?一応、野菜も食べておこうかなと。」
少し悩んで、折原さんが答えた。
野菜とは、何とも女性らしい発想だ。
「そうだ、妻にLINEだけ送っても良いかな?夕飯を食べて帰ることを伝えなければ。」
そう言って、私はスマホを取り出した。
既に夕飯の準備はしてしまっただろうが、仕方がない。明日の朝にでも食べる事も伝えておこう。
「へぇ〜、課長もLINEやるんですね。」
意外そうに折原さんが聞いてきた。どうやら私の事を、相当オジサン扱いしているらしい。
「LINEぐらいするぞ。それにSNSだってやってる。」
後輩に言われSNSはアカウントを登録しただけだが、嘘はついていない。
「そうなんですね!意外です!」
馬鹿にされた気もするが、酒に酔った部下の言葉に、いちいち目くじらを立ててるほどの事もない。
「じゃあ、部長!」
私は課長だ。
「私とも友達になってくれませんか?」
折原さんが、携帯を差し出しながら言った。
こんなオジサンと友達になっても、面白くないと思うが、特に断る理由はない。
「QRコードで良いですか?それともフルフルにします?」
QRコード?フルフル?
折原さんの口から聞き慣れない言葉が飛び出た。
「よく分からないから、折原さんがやってくれるか?」
やはり、私はオジサンのようだ。
帰りの電車の中で、さっきの居酒屋での出来事を思い出す。
折原さんの、気さくで陽気な所に好感が持てた。それでいて物怖じしない性格は営業向きだと言えるだろう。
しかし、支払の時の一悶着は笑えた。
最終的には上司の顔を立てるようにという命令で、私に払わせてくれたが、折原さんが頑として半分払うと聞かなかったのだ。
そんな事を考えていたら、あまり鳴ることの無い私のスマホのバイブレーションが震えた。
折原さんからLINEが来たようだ。
今日はごちそうさまでした。とても美味しかったです。
また誘ってください。
短い文章の後に、かわいいウサギのがビールを持っているスタンプが送られて来た。
思わず電車の中でニヤニヤしてしまった。
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