珈琲の香りのように

第1話 コロンビア 〜甘い香りと柔らかいコク〜

「ただいま。」

 今日もいつもの時間に家のドアを開ける。

「おかえりなさい。」

 妻が出迎える。

 いつもの時間の、いつもの行為。

「お疲れ様。ご飯できてるわよ。」

「ありがとう。着替えたらすぐに行くよ。」

 いつも通りの受け答え。

 別に何か不満がある訳ではない。

 リビングに入ると、ふたりの子どもたちがテレビゲームをしていた。

「お父さん、お帰りなさい。」

「宿題はやったのか?」

「もう、終わった。」

 これもいつものやり取り。

 テーブルにつくと、温かい夕食が出てくる。

 今日のおかずはトンカツか。

 千切りのキャベツの上に、大きなロースカツが乗せられていた。

「今日は豚肉が安かったから、トンカツにしたの。好きだったよね。」

 私は熱々のトンカツを頬張った。衣はサクサクで、中はジューシー。

 妻の作る料理は大抵美味しい。

 妻は優しく、気立てもよく、近所でも評判が良い。

 家庭に関して、私自身特に不満を持ったことはない。

 それはそうだ。

 良くできた妻、素直な息子たち、ローンは残っているものの、庭付き一戸建ての我が家。

 これで犬でもいれば完璧な家族だ。

 私は妻を見た。

「どうしたの?」

 妻が私の視線に気づいて尋ねた。

「いや、何でもない。このトンカツ美味しいね。」

 私は誤魔化すように、ご飯を頬張った。

 妻ではないひとりの女性を思い浮かべながら。


 彼女と出会ったのは、6ヶ月ほど前の4月だった。

「本日より営業一課に配属されました、折原香織と申します。前職でも営業に就いていました。ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、宜しくお願いします。」

 そう言った彼女の、第一印象は隣の課の新人さん。

 私にとって、彼女はそれ以上でもそれ以下でもない。特に興味をそそられる事もない存在だった。

 私の勤めている会社は、広告のデザインを企画・立案している社員100人程度の企業だ。

 私が入社したのは15年ほど前、もっと規模も小さく細々と経営していた頃だった。あの頃は顧客獲得のために足が棒のようななるまで、必死に歩いたのを懐かしく思う。

 そんな私も30代後半にさしかかり、営業ニ課の課長となった。

 若い世代の指導の難しさを感じつつも、何とかうまくやっていると思う。

「課長、上半期の二課の売上目標ですが・・・。」

 話しかけてきたのは二課の主任である西岡君だ。私の業務を良くサポートしてくれる、良い社員だ。

 私は西岡主任の作成した書類に目を通すと、確認欄に押印して、自分の書類ケースに置いた。後で部長に確認してもらわなければならない。

「ちょっと休憩をしてくるよ。」

 さすがに、根を詰めすぎたようだ。ディスプレイの見すぎで頭が痛くなってきた。

 私はオフィス内の自動販売機でブラックコーヒーを買うと、屋上へと向かった。

 ビル風が強い。春は特にそうだ。

 私は髪を押さえながら手すりまで移動した。

 手すりに寄りかかりながら、コーヒーのプルタブを起こす。

 タバコを吸わない私の楽しみは、ゆっくりとコーヒーを飲むことだ。最近の缶コーヒーは味も香りも良くなってきたので、この午後の時間にブラックコーヒーで一息つくが日課になってしまった。

 目をつぶり、風に身を委ねる。

 春の日差しが心地よい。

「お疲れ様です、課長。」

 いつの間にか、かなり気を抜いていたのだろう。すぐ近くまで人が近付いて来たことに、全く気が付かなかった。

 声をかけてきたのは、折原香織。

 営業二課に配属された新入職員だ。

「あぁ、お疲れ様。」

 私はコーヒーを一口飲んで答えた。

「風が強いですね。」

 折原さんがカフェオレのプルタブを起こす。

「高いビルの近くにあるからね、ここはいつも風が強いよ。手に持っていた書類を飛ばされたこともある。」

「そうなんですか?私も気をつけなくちゃ。」

 そう言って、折原さんは楽しそうに笑った。屈託のない笑顔が魅力的だと思った。


 梅雨に入り、雨の日が増えてきた。

 午後の決まった時間。雨が降っていないときは、私はいつも通り屋上で一息つく。決まって右手に缶コーヒーを持ちながら。

「あ、課長!やっぱりいましたね。」

 振り向かなくても分かる。屋上のドアを開け、元気よく入ってきたのは折原さんだ。

 彼女も決まってこの時間に屋上に来るのだ。外回りが終わり、デスクワークへと向かう隙間の時間に、一息つきに来るのだろう。

 私が営業のときは時間があると、駅前の喫茶店で時間を潰したものだが、今の若い子達は少し違うようだ。

 ここ数年誰も踏み入れなかった私の時間に、折原さんはいとも簡単に侵入してきた。

 もちろん、彼女に他意が無いことは分かっている。ただ屋上という仕事場とは一線を引いた環境で、気分を変えたかっただけなのだろう。私もそうだから良くわかる。

「課長、最近コンビニのコーヒーって飲みました?」

 私は首を振った。美味しいという話はよく聞くが、コンビニに行く習慣もあまりなく、未だに手を出せずにいた。

「そうだと、思いました。はい、お土産です。目の前のコンビニで買ったので、まだ熱いですよ。」

 そう言って、折原さんは後ろ手に持っていたコーヒーを差し出した。

 どうやらビルの屋上に私の姿を認め、わざわざコンビニに寄って買ってきてくれたようだ。

 私は折原さんが持ってきたコーヒーを口に含んだ。思いの外、味も香りも良い。

「美味しいね。ホントに美味しいよ。」

 素直な感想が口から出た。それを聞いた折原さんは嬉しそうだ。

「そうだ、いくらだった?お金を払わなくちゃ。」

「いいですよ、そんなの。課長にはいつもお世話になっていますから。」

 手を振りながら、折原さんがケタケタと笑う。本当に楽しそうに笑う人だと思う。

 学生のときから、安定した生活を求めてきた。危ない橋を渡ったことも無ければ、ものすごく嬉しいことも無かった。

 それなりの大学を出て、普通に就職し、年相応に出世もした。知り合いの紹介で出会った女性と結婚して、ふたりの子供を授かった。

 「幸せか?」と尋ねられれば、「幸せだ」と答えるだろう。しかし、この歳になった今、物足りなさを感じるのも事実だ。

「それじゃ、私はそろそろ行きますね。今日中に資料をまとめて、メールしなくちゃならないんで。」

 踵を返し、折原さんは屋上の扉からビルに入っていった。

 全く忙しない人だ。 

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