第2話
研究室全体としては地震もあったので帰っても良いということになった。
多くの仲間たちは家族などの大切な人のために帰っていったが、鳥越は帰る必要性がなかったので残った。
鳥越の他に研究室の長の教授と2,3人が研究室に残った。
研究室には安全な化学物質からそうではないものまで多種多様の薬品や重量の大きい機械があって何かあったときにはまず第一に確認しなくてはならない。
機械の転倒は研究室内部での問題にすぎないが、薬品瓶が割れて漏洩してしまったとなると只事では済まない。
なので薬品については研究室として責任を持った対処が要求されるのだ。
揺れが収まって鳥越を含めた研究室に残った5人は薬品棚に直行した。
勿論、薬品が漏洩していないかを確認するためだ。
薬品棚は転倒防止が他のところよりも厳重になされ、棚の固定と滑り止めシートが瓶の下には付いていた。
棚は確認しに来た人全員が安心するほど平穏だった。
鍵のかかったより人や環境に対する影響が大きい薬品も教授が確認して問題ないことがわかった。
取り敢えず薬品については問題無さそうだ。
研究室内の機械を含めて地震での大きな被害があったようなものは一つもなかった。
日頃からの対策が功を成したようだ。
ちょっと家の状況が心配だな、と鳥越は思った。
築10年くらいのアパートを借りていて建物自体に心配はないのだが、家具の配置が色々なものを密集させる形になっていて一つが倒れると周りへの被害も甚大になってくる。
転倒防止対策を一定だけは講じているので帰るほどのことにはさすがになっていないだろう、と思った。
研究室の被害状況を確認したから鳥越たちはさすがに家に帰るだろう、と誰かが思っているかもしれない。
しかしそれだけで終わるわけではない。
勿論、地震で困っている人が多くいるであろう状況の中研究をすることはない。
研究を早急にしなくてはならないとまでは言えないからだ。
では一体何をするというのだろうか。
答えは明白だ。
鳥越か勤務しているのは研究所ではなく、大学の一研究室である。
そのため鳥越は大学の職員だ。
普段は研究をしていれば良いが、何かあったときには大学の学生たちのためにも働かなくてはならないのだ。
大学にもなると高校とは違って人数は多く、よりキャラが濃いような人たちが集まってくる。
そのため人員は不足するし、色々な人の手を借りたくなってしまうのも無理はない。
学生たちは鳥越とはそこまでの年齢差はない。
それもそのはずで現役で大学に入学し、新卒1年目の新人なので一歳年下の後輩たちはまだ院生だ。
そういう意味で話の波長が似る部分があって教授が鳥越を色々なところに登用したがっているのだ。
大学職員や学生たちが好んで使う食堂は散らかっていた。
机や椅子が本来のペアを失っていた。
食券機が倒れていることはさすがになかったが、机や椅子に爪を立てられたようで多くの引っ掻き傷が付いていた。
机がこのように自由になってしまっていてはさぞここにいた人たちは怖かったんだろう、頭を隠せるものが凶器になってしまったのだから、と思えてくる。
今ここにいるのは復旧の作業をしている大学職員と自らやることを決意してくれた学生だけだった。
鳥越たちは前者の一員として加わったのである。
「ここの汚れ酷くない?机にやられたみたいだね。」
そんな声がちらほらと聞こえてくる。
大きな食堂に複数人が同じ悩みを抱えさせられている。
声をあげている人の一人のところへ教授は行って
「鳥越!!」
と呼んだ。
近付くと実験用のアセトンを持ってきてほしいとのことだった。
アセトンは別名ジメチルケトンと言われる有機化合物でマニュキアの除光液の主成分として用いられる。
人間への危険性が少ない有機溶媒で無機溶媒にとっての純水のように有機溶媒のアセトンは位置付けられている。
アセトンの黄色いボトルを最低2,3本は持って教授のところに鳥越が向かうと食堂で借りたと思われる雑巾に軽くアセトンを垂らして床を拭き始めた。
すると雑巾から顔を出す床が輝いてきた。
極性分子は極性溶媒に溶けやすく、無極性分子は無極性溶媒に溶けやすい。
それに加えて有機化合物は有機溶媒に溶けやすいという性質があってアセトンを持ってくるように指示した時点で有機なんだなとはんだんを付けた教授には感嘆しか出ない。
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