椿の縁側
子との語らい
「……参りました」
駅神は、将棋盤を挟んだ正面に胡座をかいて座る今年で三十歳になる息子『武雄』に首を垂れた。
片町駅の結界内に建つ茶室の縁側に面した和室では、つい先程まで熱い勝負が繰り広げられていた。だが、熱いとは言っても戦局は一方的であり、駅神は瞬く間に追い込まれ見事なまでの完敗を喫した。悔しい気持ちは勿論あるが、今まで以上に喜ぶ息子を見ると何だかどうでもよくなってしまう。
例え、これが二十連敗目だとしても。
「相変わらずお強いですね。私には敵いません」
「いやいや。駅神様も、以前より腕が上がってますよ! どうですか、もう一戦――」
武雄が話し終える前に、駅神は顔の前で手を振った。断られたと理解した武雄は太い眉を八の字に下げ、残念そうに駅神を見つめる。
「これ以上連敗を重ねるのは嫌ですよ。申し訳ありませんが遠慮させていただきます」
「そうですか……。駅神様は、上達の見込みがあるように思えるのですが……」
武雄は、その顔に似合う低く太い声で呟きながら頭を掻く。
「時には諦めも肝心なのですよ」
駅神は言いながら、体の右側に置いていた湯呑みに手を伸ばす。美しい椿の絵が描かれた美濃焼きの湯呑みで、中の緑茶は将棋を指していた間に少しばかり冷めてしまっていた。
その緩くも味わいのある緑茶を一口呑み込んでから、縁側の先に広がる自身の結界内を眺める。
片町駅の結界内は、いつものどかな空気に包まれている。それは、開業から二十年以上が経ち元号が大正となった今でも変わらない。依代である椿の心が安らぐような甘い香りが立ち込めており、駅神はこの駅の主として生を受けたことを誇りに思っていた。息子達も、どこへ出しても恥ずかしくないくらい立派な者ばかり。
本当に恵まれた環境だ。
「何度見ても美しいですね。ここは」
武雄はのそりと立ち上がると、縁側に出て駅神と同じように結界内を見回した。がっしりとした筋肉質で長身の体に『鉄道省』の黒い詰め襟制服がよく似合っている。
「ええ。本当に――」
そう思います。と続けようとした時、結界内への進入を望む声を聞いた。聞いたと言っても実際に鼓膜を震わせているわけではない。心に直接語りかけてくるような感覚だ。
この柔らかな声は『正治』だ。駅神は彼の進入を喜んで受け入れる。
「どうされましたか? 誰か来ましたか?」
突然黙り込んでしまった駅神を気にして、武雄が声をかけてきた。駅神は「正治です」と短く答えると、縁側の真正面に見える池の脇から伸びる小道の先を見つめ、彼を待つ。その道の先には結界の内外を繋いでいる場があるのだ。
正治の到着にさほど時間はかからなかった。小道の石畳を踏みながら一人の少年が歩いて来る。背が低く線が細い体。彼は片町駅職員の中で最年少の十六歳であり、他の職員から大変可愛がられている。これまた駅神自慢の息子だ。
正治は胸の前で、団子の乗った木皿を両手で抱えていた。団子を転げ落とさないように慎重に歩みを進める姿が可愛らしく、つい頬が緩んでしまう。
そんな正治も武雄と同じ鉄道省の制服を着ていたが、暑いのか上着を身につけていなかった。白いワイシャツに、黒色のスラックス姿。
「駅神様! こちら、駅長からのお土産です!」
なんとも嬉しそうな表情で告げながら、正治は駅神に向かって歩みを進める。駅神は将棋を打っていた畳の間から縁側に移り、縁側の縁に足を下ろして腰掛けた。
「どうぞ!」と差し出された木皿に載っていた団子は美味しそうなみたらし団子で、合計三本。木皿を受け取ると団子とタレの合わさった重さが両手に掛かり、期待で喉が鳴った。
「これは美味しそうですね。ありがとうございます」
「いえ、お礼は駅長へ――」
「運んでくださった正治にも、お礼をしているのですよ」
謙遜する正治にそう語りかけると、正治は照れ臭そうに頬を染め「そんな、僕なんて」と遠慮がちに呟き始めた。武雄が「自信を持たんか!」と吠えながら、正治の背中に平手で愛の鞭を叩き込む。
スパン! という小気味良い音を聞きながら、いつも食べている三色団子よりも多少大振りな団子が刺さった串を持ち上げる。艶のあるタレに包まれた団子に視線を奪われ、再び喉が鳴った。
タレを落とさないよう慎重に団子を口元に運び、一番上に刺さっている団子を咥えてゆっくりと串を外す。口内に入れた団子を転がすと品のある甘さが口一杯に広がり、やがてその風味を保ったまま鼻を抜けた。
間違いなく、この団子とタレは絶品だ。弾力のある団子を味わいながら噛み砕き、飲み込む。その美味しさに、思わず吐息が漏れた。
「美味しいですか?」
正治が尋ねながら隣に腰掛けてきた。近くで見ると、本当に細くて小さい。こんな体で鉄道の仕事が出来るのかと心配していたが、それは杞憂だったようだ。駅神を見つめる正治の両目は、すっかり鉄道員の雰囲気を纏っている。
「ええ、とても。この団子は絶品ですね! 駅長はどこのお店でこれを?」
「
「そうですか」
正治の回答に頷きながら、二本目の団子を口へ運んだ。病みつきになる甘いタレを口内でじっくりと味わう。
そういえば、天王寺駅の駅神は随分と豪快な性格だと以前に神使から聞いたことがあったな。何やら武雄に似ているとか……。などと思い出しながら団子を咀嚼し、失う寂しさを覚えながら飲み込む。その行為を三回繰り返し、串だけを木皿に戻した時、正治の男性にしては随分と高い声が響いた。
「わっ! 駅神様、負けてしまわれたんですか!」
その声に驚き隣りに座っているはずの正治へ顔を向けるが、彼はいつの間にか縁側から和室内へと上がり込んで将棋盤を覗き込んでいた。
「ええ。とうとう二十連敗です。お恥ずかしい」
「流石は先輩ですね。僕は一度も駅神様に勝てたこと無いのに……」
縁側で胡座をかく武雄は、どこか誇らしげに腕を組み口元を緩めている。彼は、後輩の前では分かりやすく喜ぶことがないが、恐らく先輩としての威厳がそうさせるのだろう。二十連勝目を勝ち取った瞬間の子供のような喜び方を、是非とも正治に見せてやりたいものだ。
「正治、こちらに来なさい」
将棋盤の上に並ぶ駒を真剣な表情で見つめる正治を、駅神は手招きも交えて呼んだ。正治は子犬のように小走りで駆け寄り、再び駅神の隣に腰掛ける。
「はい! 何でしょうか」
「最後の一本は正治に差し上げましょう」
みたらし団子の最後の一本が乗る木皿を正治に差し出す。正治は「え?」と素っ頓狂な声を上げ、団子と駅神の交互に視線を送った。そして、もう一度「え?」と同じ調子で声を漏らす。
「でも……これは駅長から駅神様への――」
「駅長には黙っておきますよ。私は正治に沢山食べて大きくなって頂きたいのですよ。さあ」
正治は「はあ……」と一定の理解を示したかのような反応をしたが、やはり貰ってよいものかを判断できないのか、困惑した表情の顔を真後ろに立つ武雄に向ける。
「遠慮なく頂いておけ。駅神様は正治のためを思っておられるんだ」
武雄のアドバイスを受け、正治の顔が正面に戻る。再び、視線を団子と駅神の間で数回行き来させた後「では」と迷いのないしっかりとした口調で放ち、みたらし団子を木皿から持ち上げた。濃厚なタレが糸を引き、落ちる。
正治はタレが落ちきったタイミングを見計らい、口に運んだ。先頭に刺さる大振りな団子に齧りつき、一気に串から外す。数回の咀嚼の後、正治の両目が見開かれた。
「美味しい!」
正治の口元はこれ以上無いほどの立派な弧を描き、笑窪がくっきりと浮き出ている。年相応な笑顔に駅神も釣られて笑みを零した。
息子との対話ほど楽しいものはない。彼らは私を癒やし、楽しませ、時には新しい世界を教えてくれる。これから先、一体何人が私の子になってくれるのだろうか? 百年、二百先の子とはどのような会話をすることになるのだろうか?
ああ……。私は幸せものだ。この片町駅の駅神として生を受けられて本当に――
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