双つの命

 山陽新幹線のぞみ号は約二時間前に博多駅を発車し、現在新神戸新大阪間を走行していた。新神戸駅は定刻通りの発車であり、極めて順調だ。

 マスコンを握る京太郎の本日の乗務予定は、次の新大阪駅でNR中日本に引き継ぎ一時間の休憩。その後、ひかり号で再び博多駅まで乗務する内容となっている。


 京太郎は運転台に置かれた懐中時計に時折視線を配りながら、頭の中で次駅へ定着するために必要な計算式を素早く立てていく。

 新幹線には信号が無い。そのため列車を定刻通りに駅に到着させるには、運転士が必要な距離と時間を現在の速度を元に割り出さなければならないのだ。勿論、運転中に電卓や算盤など使えるわけがない。自身の頭だけを頼りに、新幹線の誇る時間の正確さを守っていく。ハイテク設備が備わっていそうな新幹線であるが、まだまだアナログだ。


 計算に集中し、尚且つ運転に必要な計器類にも注意を配る。そんな最中、運転席の電子錠が解除される音がした。続いて慌ただしい足音。


「神田さん、大変です! 今、司令所から連絡がありまして……」


 運転室に駆け込んで来たのは、先月独り立ちしたばかりの新米車掌『たいら』だった。車掌室から走って来たのか息が上がっている。


「どうした? 他の列車で急病人でも出たか?」


「いいえ、その……」


 平が制帽を整えながら大きく息を吐き、乱れた呼吸を整えた後に発言する。


「神田さんの奥さんが破水したみたいで、新大阪に着き次第乗務を降りて病院に行けと……」


 予想外の報告に思わず振り向きそうになったが、運転中にそのようなことは許されない。ゴクリと生唾を飲み、動揺する心を無理矢理押さえ込んだ。

 京太郎の三歳年下の妻『百合子』は現在管理入院中だが、出産予定日は一週間後だったはずだ。出産に備えての有給申請も終えている。妊娠判明から今まで何事もなく順調だったというのに、何故ここにきてトラブルが起きるのか。

 京太郎の心は乱れに乱れていたが、そんな情けない姿を後輩に見せるわけにはいかない。京太郎は、突然の報告にも一切動じていないような冷静な口調を取り繕い平に質問する。


「代務は?」


「見つかっています。『山名さん』が引き受けてくれるそうで」


 その名を聞き、神田は顔を顰めた。山名さん――『山名直武』運転士は京太郎の師匠だ。それだけでなく、山陽新幹線の運転士の中でも一目置かれている一流の運転士でもある。そのような人物に代務を引き受けてもらうなど前代未聞だ。


「あの! 山名さんは気にしなくていいと……弟子が父親になる時に代務を引き受けるのが夢だったと言って――」


「もういい! 分かった!」


 京太郎は正面を向いたまま、後ろに立つ平を一喝する。

 悩んだって仕方がない。代務は既に決まっていることなのだ。申し訳なさで胃がキリキリと痛み出したが、本人が望んでいるなら甘えよう。本心かどうかは分からないが。


「とにかく事情は理解したから、司令所に『神田運転士了解』って連絡返しとけ」


「分かりました」


 平がまたもや慌ただしい足音を立てて退室すると、運転席は再び静寂に包まれた。

 新大阪までは後十分。頭の中で行った計算が間違っていなければ定刻通りに着けるはずなのだが、京太郎は不安だった。計算の真っ最中に平からとんでもない連絡を受けたことで、折角弾き出した数字が一部吹っ飛んでしまったのだ。焦る心を落ち着かせ、再度式を立て直す。

 新大阪駅が近づく。京太郎の運転するN700系新幹線が二十五番線ホームに滑り込んだ。在来線とは逆の左側に設置されているブレーキを徐々に強めると、新幹線はいつも通りにスピードを落とし始める。運転席の左窓から見えるオレンジ色の停止位置目標を確認しながら車両を停めた。文句無しの定位置ピタリ。

 京太郎は素早く懐中時計に目を送る。示された秒針の位置に僅かながら苛立ちが起こり、強く舌を打った。


「五秒延着だ……! くそっ!」


***


 胴乱を片手に乗務区に戻り掲示板などの並ぶ廊下を歩いていると、点呼を行うカウンターの上に神使の姿を見つけた。運輸所には滅多に姿を見せないことから違和感が否めない。

 神使は京太郎を視界に捉えるや否や、カウンターから飛び降り素早く京太郎のもとに駆けつけて来た。苛立った様子で蹄を何度も床に打ち付ける。


「何をトロトロしているんだ! 妻が間もなく出産するというのに!」


「知ってますよ。とりあえず、乗務報告書を上げないと――」


「そんなものは後でよい! さっさと向かわんか!」


 神使が怒号を上げ、京太郎の脛を角で力一杯叩きつけた。あまりの激痛に声が漏れる。壁に寄りかかったはずみで制帽が床の上に転がり落ちた。

 その姿勢のまま痛む脛をさすっていると誰かに肩を叩かれた。顔を上げた京太郎は眼前の人物の姿に驚き、素早く手本のような敬礼姿勢を取る。肩を叩いたのは、師匠の山名だった。体重を掛けたことで脛が痛んだが、痛む脛を庇うことと師匠への敬意を示すこと、どちらが大切なのかなど一考の余地もない。


「子供産まれるんだろ? 早く行ってやれ」


 山名はニコニコと優しい笑みを浮かべながら京太郎に語りかける。山名はいつも笑顔を絶やさない人だ。細かい皺に囲まれた垂れ目は、いつも柔らかく細められている。だが、運転中は鉄道員としてのプライドに溢れた真剣な表情に変わることを京太郎は知っている。仲間への優しさと仕事への情熱を持ち合わせた、素晴らしい師匠だ。


「折角産まれたばかりの我が子に会えるかも知れないのに、勿体ないぞ」


「ですが……報告書や点呼が――」


「気にしなくていい、もう話は通っているよ。さあ早く」


 山名は京太郎の肩を納得させるように数回叩く。


「実は……私は子供の誕生に立ち会えなくてね、弟子達には同じ思いをさせたくないんだ」


 山名の浮かべていた笑顔が消え、後悔や懺悔の混じった悲しげな表情に変わる。京太郎は、山名の父親の顔をはじめてみた気がした。どうやら、平から聞いた話は本心のようらしい。

 ここは甘えてしまおう。と京太郎は勢いよく頭を下げた。「ありがとうございます! 行ってきます!」と告げ、運輸所を出入り口に向かって引き返す。もう脛の痛みは消えていた。

 二三歩歩いたところで制帽を落としっぱなしであることに気付いて振り向いたが、その制帽はすでに山名によって拾い上げられていた。


「制帽は預かっておくよ。立派な父親になって取りに来なさい」


 山名が制帽を持った手を京太郎に向かって振る。京太郎はもう一度師匠に向かって深く一礼し、神使と共に廊下を駆け抜けた。



***



 京太郎が病院に駆けつけた時、すでに百合子は手術室に入っており帝王切開が始まっていた。仕方なく手術室近くの小さな待合室のソファに腰掛ける。同行してきた神使は落ち着かない様子で待合室内を彷徨き回り、ときたま興奮の波が来ると体をヤギのように飛び跳ねさせるという動作を繰り返していた。

 

「孫が産まれるぞ! 京介の孫だ!」


 神使は飛び跳ねながらそう口にし、京太郎にも『神田京介の孫が誕生することの重大さ』を説いてくる。京太郎は神使に言葉は返さず、溜息だけで一向に落ち着こうとしない神使をあしらった。神使は興奮のあまりあしらわれていることを理解出来ないのか、京太郎の対応に不満を零すことはない。

 京太郎はそんな神使を眺めながら、待合室に来てから何度目かも分からない溜息をついた。


 ――何故、神使様も駅神様も、自分を『神田京介の息子』という目線でしか見てくれないのだろうか……。


 覚醒した際も「京介の息子が来てくれた」と言われ、昇進試験をトントン拍子にクリアした際も「流石は京介の息子だ」と言われた。そして今も、「京介の孫が産まれる」と騒がれている。父の存在が如何に偉大であるかは分かっている。しかし、それを抜きにした自身の姿も見てほしい。この思いは我儘なのだろうか……?


 京太郎は、自身に覆いかぶさるように落ちる『父の影』の大きさに辟易し、抵抗する気力すら失っていた。


***


「神田百合子さんの旦那様ですか?」


 待合室に入ってから二十分程すると、一人の看護師の女性が京太郎を呼びに来た。神使の興奮がピークに達し「産まれたか!」と飛びかかるように看護師との距離を詰めたが、彼女に神使は見えていないため驚く様子はない。

 看護師の問に「はい」と返事を返すと「こちらへ」と手術室の前へ案内された。到着すると、すぐに扉が開き保育器に入れられた二人の息子が姿を表した。紙おむつを履き、心電図を貼り付けられた姿だが、我が子の愛らしさは変わらない。保育器越しで触れることは出来ないが、会えただけでも十分だった。

 自身の足元で「見えんぞ!」と騒ぐ神使を無視して、この世に生を受けたばかりの息子たちを見つめる。あまりにも小さく、可愛らしい。


「可愛いですね」


 「可愛い」などと口にしたのは何年ぶりだろうか。京太郎はその言葉のくすぐったさに頬を緩めた。

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