開かない棺

 遺影の父は笑顔だった。あの笑顔は確か、山陽新幹線の運転士として一旦の最終乗務を終えたときにホームで撮った写真だ。と京太郎は思い返す。

 その日は休日であったために自身も母と共に新大坂駅に向かい、家族三人の写真も何枚か撮った。父は後輩の運転士や車掌に囲まれ「また数年したら戻って来るよ」と話していた。

 まだ十三歳の京太郎に、『駅還流』という制度を完全に理解することはできなかった。知っていることは「五年から十年程の期間乗務すると、一度駅に戻らなければならない」ということだけ。

 京太郎は父の駅還流が決まった日、「駅に戻されて嫌じゃないの?」と訪ねたことがある。父はその問いに対して「別に嫌じゃないさ。駅にも、駅の楽しさがあるからね」と笑顔で答えていた。


 そう……いつも父は笑顔だった。不機嫌に当たり散らすこともなく、些細なことでも京太郎や母を褒め、家族の誰かが落ち込んだときには下らない冗談で場を明るくさせてくれた。だから今日も笑顔で帰宅してくれる! 「遅くなって悪かったな」といつもの笑顔で、京都駅で買ったお土産のお菓子を片手に帰って来てくれる!

 ……と、懸命に脳内で構築する幸せも、祭壇に飾られた父の制帽を視界に捉えた瞬間に脆く崩れ去った。逃れられない無情な現実が京太郎の心を引き裂き、拒絶していた外界の感覚が戻り始める。式場に響くお経の声、線香の匂い、隣に座る母の嗚咽――。


 そうだ……父は死んだんだ。京都駅の七番線で。酷く酒に酔った男二人に線路に突き落とされ、そこを貨物列車が予定通りに通過した。あの巨大な鋼鉄の車輪に轢かれたら人間の体がどうなるかなど深く考えなくても分かる。きっと、父の遺体は自身の想像通りなのだろう。だからこそ、あの棺はのだ。蓋は固く閉じられ、最後に死に顔を見るための小窓にすら封がされている。

 貨物列車は悪くない、悪いのは酔っ払った素行の悪い男共だ。京太郎は心の中で渦巻く怒りと憎しみの混ざりあったドス黒い感情を抑え込もうと、膝の上に載せた両手を強く握った。ゆっくりと慌てずに深呼吸を繰り返し精神を落ち着けようと試みるが、負の感情は溢れるばかり。

 やがて、心に溜めきれなくなった感情が京太郎の頬を濡らした。学ラン姿の肩が震え、小さく嗚咽が漏れる。母をこれ以上悲しませてはならない。と京太郎は必死に涙を拭うが止まらない。目から溢れる速度のほうが圧倒的に早く、瞬く間に頬や両手が涙で塗れた。


 ――父が、自分が、母が……一体何をしたと言うのだ!


 京太郎は涙を拭う手を止め、治まることのない怒りに任せて歯を食いしばった。



***



 ガーデンテーブルの上には、この結界内の景色に釣り合わない日本酒の酒瓶が鎮座していた。確か新潟の地酒で、父の好みの酒だった。だからラベルに見覚えがあり懐かしさを覚えるのだな、と京太郎は独りでに納得する。

 京太郎の手元には、薔薇の花が丁寧に彫られた赤色の切子グラスが置かれていた。正面に座る駅神の手元にも同形状のグラスがあるが、色は青。


「この酒は、京介が好きでよく飲んでいたものでな」


「ええ、知っています」


 駅神の言葉に、頷きと共に返事を返す。駅神は「そうか」と小さく漏らすだけで、特にそこから父の思い出話が展開されることもなかった。

 駅神の手によって酒瓶の封が開けられる。アルミ製のスクリューキャップが開封される音が京太郎の記憶を刺激し、奥深くに仕舞い込んでいた父との思い出が飛び出そうとする。京太郎は俯いて唇を噛み、思い出がこれ以上出てくることがないように心に雑念を振りまいた。

 父のことが決して嫌いなのではない。ただ、父との思い出には悲嘆に暮れた葬式前後の記憶が複雑に絡み付いており、良い思い出だけを取り出すことが困難なのだ。

 あの日のことは思い出したくない。少しでも思い出すと心拍が異様に乱れ、脂汗が滲み、抑え込んでいたこの世の中に対する憎しみが暴れまわり頭がおかしくなる。自分が自分ではなくなるような気がして、言い知れない恐怖を感じるのだ。


 そのため、京太郎は飛び出そうとする思い出を抑えつける術をこの七年間で必死に身につけた。そうしなければ精神が崩壊してしまうからだ。正に今も、その術を利用することで乗り切った。自身の精神がキチンとした形を保っていることに安堵しつつ顔を上げ、視線を駅神に戻す。


「二十歳の誕生日おめでとう、京太郎」


 駅神は柔らかな笑顔で酒瓶を京太郎に差し出した。京太郎は「ありがとうございます」と覇気のない声で答え、正面に置かれていたグラスを持ち上げて酒瓶に近づけた。トクトクと日本酒の注がれる音が一定のリズムを刻む。同時に漂ってくる日本酒の香り。これは風呂上がりの父の香りであり、終電後の駅の香りであり、そして……父を殺した香りだ。

 再び思い出が疼き出す。「出せ! 出せ!」と叫びながら鍵の掛かった記憶の扉を乱暴に蹴飛ばし始めたため、京太郎はとっさに「出て来るな!」と強く念じた。自然と体に力が入り、眉間にシワが寄る。


「顔色が優れんな、京太郎」


 テーブルの脇に伏せ、京太郎を見上げていた神使の声が耳に届いた。記憶の疼きが止むのを待ってから、神使を視界に捉える。神使の目はオニキスのような黒一色で非常に感情が読み取りにくいが、この時ばかりは僅かに同情に似た感情が向けられているのだと分かった。

 神使は、この大阪駅とほぼ同時期に誕生した存在であり、父のことも当然良く知っている。京太郎の心の内で何が起こっているかもお見通しだ。


「酒が嫌いか? まあ、無理もないが……だが、これは京介が望んでいたことなのだ。我慢してくれ」


「どういう意味ですか?」


 京太郎が尋ねると、神使は父が生前に語っていた『夢』を教えてくれた。それは丁度二十年前の冬、産まれたばかりの息子を前に語った夢だった。


 息子と一緒に酒が呑みたい。


「……親父らしいですね」


 京太郎は視線を神使からグラス内の日本酒へと戻した。父が自身と共に呑もうと考えていたのは、今ここに注がれている酒だろうか? と一考する。そして、まさか自分が物心付く前に既に神使と会っていたとは。と驚いた。もしかすると、父は息子が覚醒した後にその事実をサプライズ的に告げようとしていたのではないか?

 様々な思いが交錯し、京太郎の心を抉る。


「京太郎」


 駅神に呼びかけられ、京太郎は日本酒の描く波紋を覗いていた顔を上げた。


「乾杯しよう」


 グラスを軽く掲げながら言う駅神の姿が在りし日の父の姿と重なる。目頭が熱くなり、瞬く間に視界が歪んだ。


「……はい」


 力の無い返事をし、京太郎は同じようにグラスを軽く掲げる。人生初の日本酒は苦く、そして少し塩辛かった。

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