クレマチスの動輪【短編集】

ポエム

父の影

神使と嬰児

「これは……なんとも可愛らしい!」


「でしょう? 世界一の美男子ですよ! 目元は家内によく似ていまして、これがまた美男子っぷりを底上げしていますよね!」


 神田京介は、ベビーベッドで静かに眠る生後二ヶ月の息子『京太郎』を見つめる神使に、我が子の可愛らしさを興奮気味に説いた。

 京太郎は、京介の妻『雪子』が選んだ淡い水色の肌着に包まれ、その上には肌触りが良く暖かい毛布が掛けられている。その毛布の外にはみ出している小さな両手が、時々握られたり緩んだりする。

 今は年が明けて間もない冬真っ盛り。暖房が効いているとは言え、ここは断熱性がさして高くない官舎アパートの一室。京介はもう少し息子に着込ませてやりたい気持ちがあるが、雪子曰く「赤ん坊は体温が高く着込ませると汗をかいてしまう」とのことだった。

 そんな雪子は現在、京太郎のオムツを購入するために外出しており、家の中には夜勤を終えて帰宅したばかりの京介と神使だけ。神使を認識できない雪子の前で神使と会話することは厳しいため、雪子が買い物から帰って来るまでが京太郎を前にして神使と語り合える限られた時間だった。


「側に寄ってもよいか? 我慢できん」


「構いませんよ」


 京介が許可すると神使はベビーベッドの柵を軽やかな足取りで乗り越え、京太郎を踏みつけないようにそっとベビーベッドに上がった。小さな体に寄り添うようにして体を伏せ、柔らかい頬を鼻先で優しく突く。


「柔らかいな。壊してしまいそうだ」


「角、気をつけてくださいね」


 神使は京介の注意喚起に「分かっておる」と返事を返すと、京太郎の頭を嗅ぎ始めた。時折、口づけるように羽毛のような髪が生えた頭皮に触れる。やがて、神使は満足げな表情で京介を振り返った。


「赤子の匂いがする……私はこの匂いが好きだ。愛情の匂いだな」


「ええ、私も好きです。甘いミルクのような独特な匂いですよね」


 それは母乳の匂いなのか、将又赤子特有の体臭なのかは定かではないか、京介も隙あらば京太郎の匂いを嗅いでしまう。一度、驚いた京太郎が泣き出してしまったことがあり雪子には警戒されてしまっているが、どうしても止められないのだ。


「京太郎。お前は今、神使様と会っているぞ。凄いな」


 京介は、ことの重大さに一切気付かず気持ち良く眠り続けている京太郎のクリームパンのような肉付きのよい手を、人差し指で優しく撫でる。「可愛いな」と繰り返しながら、頬をこれでもか緩める京介に、同じくらい表情を緩ませていた神使が一転して真面目な顔つきで問いかけた。


「神田は、京太郎を鉄道員にさせるつもりか?」


 京太郎の指が止まり、表情から一切の緩みが消える。息子を溺愛する父の顔から、使命感に燃える鉄道員の顔に一瞬にして切り替わった。


「勿論です」


「返答が随分と早いな、もう少し悩むと思っていたが……。蠢穢の姿に腰を抜かして半べそをかいていた男とは思えん」


 神使からの指摘に、京介の顔が自然と赤らむ。もう十年以上前の恥ずかしい話だ。だが本当に怖かったのは事実であり、今でこそ慣れはしたものの全く怖くないと言えば嘘になる。

 そして、そんな蠢穢の姿を愛する息子に見せ、同じ恐怖を味わわせることに抵抗がないわけではない。だが、京介は蠢穢の討伐に身を捧げることになるマイナス要素を軽く上回るプラス要素を知っていた。


「確かに、あの醜く恐ろしい蠢穢の姿を京太郎に見せるのは酷だと思っています。しかし、それ以上に神使様や駅神様と会わせてやりたいんです」


 ベビーベッドの上で京太郎を護るように伏せる神使に、強い思いを乗せた口調で語る。


「私の素晴らしい家族の姿を……京太郎にも見えるようにしてやりたいんです」


 京介の思いを受け取った神使は「そうか」と照れくさそうに小さく笑い、大きな黒い目を僅かに細めた。


「やはり、お前は良く出来た息子だ」


 そう神使が京介を褒め称えた時、京太郎がモゾモゾと体を動かし「あふ」と小さく声を漏らした。その声に反応し、神使が「おや」と顔を向ける。


「京太郎も、私達と何か話したいか?」


 神使が尋ねるものの、京太郎は返事をしない。今は眠っているため当然ではあるが、そもそも京太郎には神使の声は聞こえず姿も見えない。コミュニケーションは一方通行だ。


「神使様とお話できるようになるには、あと十八年掛かりますよ。長いですね」


「いや、案外すぐだろう。子供の成長というのは本当に早い」


「そういうものですかね……?」


 二ヶ月前に父親になったばかりの京介には、いまいち理解できなかった。京太郎が立って歩く姿すら想像できないでいる。


「神田は、京太郎が大きくなったらやりたいことはあるのか?」


「そうですね……月並みですが、一緒に酒が飲みたいですね」


「酒か。まあ、子が出来た者は大抵そう言うな」


 神使が「宮下もそう言っておった」と付け足す。宮下とは京介の同期であり半年前に息子が生まれたばかりだ。半年という僅かな差ではあるものの、宮下は「父親としては先輩だ」とことあるごとに語り京介にやたらとアドバイスをしてくる。だが、そのアドバイスがためになったこともあるため、あまり無下には出来ない。


「酒を飲みながら家族三人で語り合って、雪子が眠ったら京太郎と二人で駅神様や神使様のことを話すんです。もし宜しければ神使様も同席してくださいよ!」


 後半になるにつれ、自然と言葉に熱が入った。雪子には申し訳ないが、早く息子と『家族』について語りたい。例え酒が飲めなくても構わない、その時はジュースで乾杯しよう。神使様には大好物の人参を。自分達は寿司でも頼んで豪華に行こう。


 ――ああ……。楽しみで堪らない。


「良い夢だな。是非私も同席して、駅神様に楽しい土産話を持ち帰ってやろう」


 京太郎の誕生を心待ちにしていたのは、父親である京介や神使だけではない。京介の『父』である大阪駅の駅神も出産までの日々をソワソワしながら過ごしていた。

 京介は、そんな駅神から「京太郎が成長する毎に写真を持ってくるように」と頼まれている。二ヶ月前に生まれたての写真を持って行ったのだが、写真を見た駅神は大興奮。「京太郎が如何に可愛いか」という話題で盛り上がり三時間近くも熱く語り合ってしまった。

 次に持っていくべき写真は掴まり立ちをした時のものだろうか? それとも首が座った時のものだろうか? と思考に集中していると、玄関からガチャリと鍵を開ける音が聞こえてきた。


「ただいま」


 雪子の声だった。買い物袋のビニールが擦れる音がする。


「おかえり」


 京介は玄関に向かって返事を返すと、神使に「雪子です」と囁き声で伝えた。神使が伏せていた体を起こし、京太郎を見やる。相変わらず眠ったままの京太郎の額に鼻を押し当て、目を閉じて語りかけた。


「京太郎……お前は、あの神田京介の子だ。必ず立派な鉄道員になれる。私には分かるぞ」


 京太郎は真一文字に結んでいた口をモグモグと動かし、微かな反応を見せた。そして再び「あふ」と小さく声を漏らす。


「お前と本当の意味で会えるのを楽しみに待っているぞ。またな」


 神使はベビーベッドから飛び降りると、京介が開けて待っていたベランダの窓を通り、京介の自宅を後にした。


***


「換気してくれているの? ありがとう」


 雪子の声を聞き、京介は網戸をしっかりと閉めてから振り返った。


「そうだよ。空気が籠もっていると、京太郎に良くないからね」


 「神使を外に出させるため」などとは到底言えるわけもなく、父親らしい言い訳でその場を取り繕う。雪子は、買ったばかりの赤いニットセーターに黒いスカートを合わせた姿でベビーベッドに寝る京太郎を覗き込む。


「あら?」


 雪子が驚いたような声を上げる。後に京太郎の「あー」というご機嫌な声が続く。京介も雪子の隣から覗き込むと、先程まで熟睡していた京太郎はぱっちりと目を覚ましていた。両親の顔を見つめながら、右手の拳を口に入れて舐め回している。


「お父さんと二人のお留守番、楽しかった?」


 雪子の問いかけに京太郎は顔をほころばせ、両手足をこれでもかと動かして溢れる喜びを表現した。それを見た雪子と京介の顔にも、自然と笑顔が灯る。


「雪子が帰ってくるまでは、ずっと眠っていたけどね」


 京介がそう伝えると、雪子は「じゃあ、何か楽しい夢でも見ていたのかな?」と京太郎の頭を撫でながら優しく語りかけた。

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