第二部

第六幕・三英雄の出発

再会

 統一銀河暦三三二年、西暦二七一九年八月十八日。

 銀河帝国軍遠征艦隊は長きに渡る戦いを終え、本国への帰還の途上にある。

 講和を賭けた「夏の嵐」作戦、エリウス側の呼称による「七月戦役」は最終的に三回の大規模な海戦全てにおいて帝国軍の勝利に終わり、講和会議における帝国側の要求——賠償金や領土割譲無しの白紙和平——が全面的に認められることとなった。勝利に逸ってエリウス領の併呑だの多額の賠償金だのと欲を出さなかった帝国の為政者たちは賞賛されてしかるべきであろう。もっともそのような条件の講和であっても文句をつけるような有権者が存在しない帝国なればこそ成し得た業でもあるのだが。

 戦役全期間に渡って活躍した帝国軍第五軍団は最もその損害が少なかったことから全軍の殿として帰還の途上にある。

 戦闘が終わっての帰還においては兵員たちにとっては基本的に暇な時間である。無論艦船の運用に携わるクルーや警戒要員はいるものの、艦隊の母数が桁違いに多いことから海賊が手出ししてくるようなことがあるわけでもなく、極めて平和な航海が続いていた。

 「これで元帥への昇進は間違いないな」

 二人だけの夕食の席で第五軍団長エルヴィン・フォン・ジークムント上級大将は彼が最も信頼する赤毛の参謀長に言い放った。

 「まぁ、そうでしょうね」

 さしたる感慨を示すわけでもなく応じ、第五軍団参謀長ディートリンデ・フォン・マンハイム大佐はスパークリングが満たされたグラスを傾けた。冷たい液体を喉に流し込み、置いたグラスを指先で叩く。

 「あいつと同階級だ。今までは見ることすらなかったが、いよいよご対面することになるだろうな」

 父たるリヒテンシュタイン元帥に対してエルヴィンが抱く感情を知っているディートリンデはそれに対しては何も言おうとせずグラスの縁を指でなぞった。

 自分を生まれてすぐに名もない騎士階級の家へと放り込み、抑圧的な少年時代を過ごして軍人としての道を強制させた父親に対しての恨みがエルヴィンの原動力となっていることに気づかないディートリンデではない。彼は生まれて一度も実の父親と対面したことが無く、同じ戦場であっても言葉を交わしたことすらなかった。

 しかし元帥ともなれば彼の意思でもって直接対面する機会も生まれるだろう。その先にエルヴィンが何を望んでいるのかはディートリンデを以てしても洞察しかねる領域だった。実際に口を開いたのは別の方向の懸念である。

 「本当にそう上手くいくかしらね。いよいよ貴方は敵視されることになるわよ。もしハインリッヒ提督がいなければ、貴方はランズベルク公の陰謀にまんまと引っ掛かることになったんだから」

 ランズベルク公やハウサー参謀総長がエルヴィンを敗退させるべく蠢動していたと言う事実をエルヴィンとディートリンデは情報参謀バルツァーから教えられた。彼の情報網に引っ掛かったのだと言う。証拠としての裏付けこそなくても事実と信じ込むべき材料には事欠かない。帝国における派閥意識の強さを身をもって実感させられることとなった。

 二十代前半の若さの元帥、大貴族に名を連ねているわけでもなく、むしろ改革派に近しいエルヴィンを軍中枢、或は政治中枢組織がどう扱うか。中央で要職に就く者たちにとってエルヴィンの存在は大変な脅威であろう。いよいよ彼が元帥に昇進するとなれば、彼の身辺に近づく脅威はより強大なものとなりかねない。

 リヒテンシュタインの息子であると言う事実もまた軍に強い影響力を持つロエスエル公やランズベルク公にとっては不快であろう。親子そろって元帥となり、軍中枢の要職を独占すれば彼らの勢力は弱体化する恐れがある。その前にエルヴィンの影響力を弱める、或は非合法手段に訴えてでもエルヴィンを排除しようとするかもしれない。

 「…分かっているよ」

 エルヴィンは笑顔を息を吹きかけられた蠟燭の炎のように消すと窓の外に広がる星の海に視線を向けた。

 「ここがスタートラインだ。ここから何を成すのかを、考える時が来たみたいだ」

 ディートリンデはボトルを持ち出して空になった自分のグラスに透き通った液体を注ぎ込んだ。

 「それって、目標って意味?」

 かつて皇帝に言われた言葉がエルヴィンの脳内で反響し続けていた。

 卿は何を望む?

 「この国は腐っている。この地位に立った時、それを嫌と言うほど自覚したよ」

 彼の脳内には帝国保安局長官ヴァイスの姿がくっきりと映し出されていた。エルヴィンの弱みを握り、それを武器としてネーリング公への協力を求めてきた彼が、次はどのような手段でもってエルヴィンを利用しようとして来るのか。

それに怯えながら彼はこれから帝国内の様々な勢力から敵視される環境に置かれることとなるのである。彼が望もうと望むまいと、これまでと全く違う次元の戦いをしなければならないのだ。

 「五公だか派閥だか知らないが、奴らの内輪揉めに巻き込まれて失脚させられてあいつに笑われたくはない」

 「あいつ」がリヒテンシュタイン元帥であることを察知し得たのはディートリンデの洞察力の明であろう。それ以上にエルヴィンがここまで明確に己の進む道を語ったことは無く、ディートリンデの意識はそちらの方に向かっていた。

 「五公と…いや貴族と戦うつもり?」

 エルヴィンは明確に答えはしなかった。

 「連邦に留学していた時に気づいたよ。貴族と言う特権階級が帝国の国益に適ったことなどただの一度も無い。腐敗の温床になっただけだ。これまではそれとも関わるつもりは無かったが…」

 その貴族がこちらに牙を剥いてくると言うなら、戦わなければならない。そして戦うからには必ず勝たなければならない。

 エルヴィンが言語化しなかった心情を、ディートリンデは感じ取った。

 「そう。貴方も決めたんだ。自分の進む道を」

 エルヴィンは初めて決意を口にした。

 「この国の貴族階級を排除し、帝国をまともに機能する形に作り変える。貴族の名誉のために奴隷のような境遇に置かれた俺みたいな人間をこれ以上増やさないために」

 赤毛の女士官は初めて微笑んだ。

 「決めたんだね。でも茨の道だよ?」

 エルヴィンの姿は覇気に満ち満ちて見えた。これまでに無いほどにエルヴィンの姿は神々しくディートリンデに映った。

 「もう失って恐れるべき物は俺には残ってない」

 自嘲じみた台詞をここまで不敵に言いのけた人物はエルヴィン・フォン・ジークムントを除いて他にはいまい。

 たとうべきかな、この覇気こそこれまでエルヴィンの殻の内に隠されていたものなのだろう。生まれ育った環境は彼の覇気を内側に閉じ込めさせていた。しかしそれが皇帝の言葉、かつての恋人の別れと嫌でも見せつけられた貴族社会の歪みを背景に、そして己が軍隊における最高階級に達した瞬間に殻を破って開花したのである。その茎はこれまでの数年の間に少しづつ伸びてきていたのだろうが、明確にエルヴィンが己の野望を自覚したのはこの時が初めてだった。

 「なら私も決意しないとね」

 ディートリンデは空になったエルヴィンのグラスにワインを注いだ。

 「私は君がいつか歴史を変える大人物になるって思って今日までついてきた。だから君がこれから進む茨の道を、私も一緒についていくから」

 エルヴィンは急に憮然としたような表情になって頭を搔いた。彼が今でも自分に対する恋慕の情を捨てきれないでいることに気づかないディートリンデではない。だが彼女がエルヴィンの気持ちに応えることは決してなかったし、これからもない。

その理由をエルヴィンに話すことも決して無いだろう。話せるようなことでは決してないのだから。

 だが彼女はエルヴィンのために尽くすと決めている。彼が歴史を変える瞬間に、その側にいようと望んでいる。それが彼女がこの銀髪の青年に求めるたった一つの願いだった。


 帝国軍第五軍団はエリウスとの講和が成立した後の九月二日に帝都星系エストマルクに帰還した。

 軍事省と内務省が企画した大規模な戦勝記念パレードが開かれ、エルヴィンは英雄として帝都ガルトに凱旋することとなった。

 馬鹿馬鹿しいものだ、とエルヴィンは思う。エルヴィンは今や貴族たちにとって最大の脅威となった。しかし帝国の臣民に向けては彼を英雄として演出しなければ帝国の権威を保てないのである。腐敗した貴族社会の下において、若い銀髪の青年はまさに理想の英雄像そのものであった。

 そこまでは彼は冷淡な批評家でいることができた。しかし現実は彼を嫌にでも回る人類史の当事者へと引きずり込もうとするのである。

 その足でエルヴィンは宇宙軍総司令部のリヒテンシュタイン宇宙軍総司令官の下へ向かうよう命じられた。

 「総司令官が閣下の事をお待ちでいらっしゃいます」

 総司令部から差し向けられた迎えの士官の言葉に、エルヴィンは目を見開いた。

 「元帥が?」

 「はい。どうぞこちらの車に」

 それはエルヴィンにとって憎むべき敵との初会合であり、そして実の父親との初対面である。まさか帰還してすぐに呼ばれるとは思いもせず、エルヴィンには心の準備ができていなかった。

 何を言えばいいのだろうか。自分をこの境遇に追いやったことを非難すればいいのか。いやそれは稚拙に過ぎる。ではあくまで一士官として他人行儀を装うか。しかしそれも自分にできるのか…

 肉親とそもそも会ったことのないエルヴィンにとって親と言う存在は別次元の存在であった。それを突然目の前に突き付けられたとき、彼が困惑したのも無理はない。ディートリンデはそれをこそ懸念していたが、彼女が手を講ずるよりも早く事態は進展していた。

 半球状の帝国軍本部ヴェアヴォルフの宇宙軍総司令部へとエルヴィンを乗せたスカイカーは滑り込み、士官に案内されるままに気が付けば彼は総司令官オフィスの目の前に立っていた。

 「閣下は中でお待ちです。どうぞ」

 どうぞと言われて素直に入ろうと言う気が起きるはずがない。この扉の向こうには自分がこの世で一番憎む父親がいるのである。対面して何を言えばいいのか、彼の脳に溢れ返る叡智はこの時一ミクロンとしてその役割を果たそうとはしなかった。

 しかし扉の前で立ち往生することが許されるはずもない。エルヴィンが一歩足を前に進むと扉はひとりでに横にスライドして来訪者を部屋の中へと迎え入れた。

 部屋の中は無個性極まりないもので、機能性だけを考慮して形作られていた。大貴族にありがちな華美な装飾や値段が高いだけで一体何が良いのか少しも理解できない絵画があるわけでもなく、無機質な執務机と応接用のテーブルとソファがあるだけである。そしてその応接用のソファに堂々たる体躯の男が身を沈めていた。

 帝国宇宙軍総司令官パウル・フォン・リヒテンシュタイン元帥。エルヴィンの実の父親に当たる人物である。

 エルヴィンは敬礼すら忘れていた。今自分が立っているのが霧の中かと思うほどに目の前の光景は非現実的だった。

 彼を捨てた男。家の伝統のためと彼をあの境遇に追いやった父親。憎むべき敵。

 「敬礼はどうした」

 リヒテンシュタインの最初の言葉がエルヴィンの意識を無理矢理現実に引き戻した。軍人の癖かその言葉だけで反射的に右手が動き、エルヴィンは直立不動で誰も非難しようのない完璧な角度での敬礼を施した。

 「第五軍団長、エルヴィン・フォン・ジークムント上級大将であります」

 リヒテンシュタインはすぐには答えず、五秒ほどエルヴィンの姿を観察していた。品定めされているようにも感じ、エルヴィンにとっては不快で仕方がない。

 「来たか」

 リヒテンシュタインは重々しく口を開いた。

 「ジークムント家に預けたお前が軍人となり、今この場に現れるまで二二年。まさか私が現役である間に、お前の姿を見ることになろうとはな」

 この男は何を言っているんだ?エルヴィンは思わず呆然とした。しかしそれ以上に、次の言葉がエルヴィンの感情を一瞬にして沸騰させた。

 「私の事を恨んでいるか?」

 「当然だ」

 仮にこの場が監視されていたとすればどうであろう。上官への不敬でエルヴィンは即座に憲兵に逮捕されていたに違いない。しかしこの時のエルヴィンにそれを冷静に考えるほどの理性は存在しなかった。

 「貴様が俺をあの家に送ったせいで、俺はどんな目に遭わされたと思う。普通の家庭の子供が与えられている最低限の境遇すら俺にはなかった。奴隷のように扱われ、なのに貴族としての教育を受け、軍人になることを強制された。逃げ出そうとすれば一晩中殴られ続けた。貴様が——」

 「当然だ。ジークムント家にはそうするように言ってあるのだから」

 今や蜘蛛の糸ほどにか細い理性が彼の身体の激発を押しとどめていた。しかし声帯と舌の赴くまま、彼の言葉は止まらず吐き出された。

 「家の伝統だ、高貴な家柄だと、貴様の家の体面のために俺の人生は決めつけられたんだぞ」

 「お前は大きな勘違いをしている」

 元帥は息子からの辛辣な言葉に少しとして動じなかった。

 「リヒテンシュタイン伯爵家に生を授かった子供は皆養子に出され、厳しく教育される。そうであるからこそリヒテンシュタイン家は帝国軍において確固たる名声と地位を築いてきた。家名に甘えないために騎士階級の家の養子としているのに、お前はどうやらリヒテンシュタイン家の人間であることに甘えているようだな」

 「何だと——」

 「お前が特別な存在なのではない。リヒテンシュタイン家に生まれた者は皆同じ宿命を背負っている。若くして昇進したからと言って自惚れるな」

 自分がリヒテンシュタイン家の者であることに甘えているだと。エルヴィンには到底受け入れることのできない考えであった。

 「お前が士官学校を首席で卒業する程の十分な叡智を受け、更に昇進を重ねたのはひとえにお前がリヒテンシュタインであるからだ。リヒテンシュタイン家には他の大諸侯のような財産も土地もない。お前を養子に出さなかったところでお前が今のように大成するはずがない。ただリヒテンシュタイン家の者であると言うその名誉だけが我が一族を生き永らえさせてきたのだ」

 エルヴィンは絶句した。父や自分の境遇を憎む感情と相反して、ささやかながら回復してきた理性はこの元帥の言葉を納得させようとしている。

 軍人として出世して騎士階級から成りあがったアルベルト・フォン・シュテファンが断絶していたリヒテンシュタイン伯爵家の家名を授かった時、彼の手元にあるのは軍人としての名声だけで財産も土地もありはしなかった。この名声が無ければ帝国数万家に及ぶ貴族社会の中に飲まれ無名のままに家は再び断絶するであろう。アルベルトは自分の三人の息子をそれぞれ別の騎士階級の家へと養子に出し、厳しく育てさせて軍人にした。リヒテンシュタイン伯爵などと言う砂上の楼閣の上で胡坐をかくような愚を犯させないための生存戦略であった。息子たちは軍人として確固たる名声を獲得し、三人ともが男爵の位を得た。アルベルトは死の間際、長男にリヒテンシュタイン伯爵家の当主たる地位を託して彼の息子もまたアルベルトがしたように養子に出すよう遺言を残した。

 その後遺言は忠実に実行され続け、現当主たるパウルもまた伝統に従ったのである。

 「お前の下に常にマンハイム大佐を付け続けてお前の欠点を補わせ、第五軍団を帝国でも最強の軍団にするために幕僚と戦力を固め、あの遠征でお前の活躍の座を何故与えたと思う。それが全て偶然の産物だとでも思っていたのか」

 「まさか、あなたが…」

 リヒテンシュタインは頷いた。

 「お前にはまだ自分を客観的に見るだけの視野が足りていない。この貴族社会の中で立ち回るだけの器量もない。だがお前のその才覚だけが一際輝き、お前を今の地位へと押し上げた。お前は危うい橋の上にいる。様々処置を講じてやらねばいつ谷底に足を滑らせたかも分からない」

 今の今まで憎んでいた父親が、自分を支えていたなどと、到底エルヴィンが想像の付くことではなかった。ディートリンデがこれまでずっと彼の側にあったこと、ブリュンヒルデやフーバー、ジーメンスと言った有能な提督たちが都合良く指揮下に入ったこと、縮小編成の師団が完全編成へと強化され、第五軍団が帝国で最も艦艇数の多い軍団となったこと。

 全てはリヒテンシュタインが仕組んだことだったと言うのか。

 「お前は今回の功績で元帥となる。これ以上私にできることはないし、お前は自分の身を守る術を自分で講じなければならない。お前が私を恨むのは自由だが、それ以上にお前にこれから向かうこととなる貴族社会の反感を撥ね退ける方策を考えよ」

 自分はこれまで守られていたのか。彼が最も憎んだ人物によって。それを自覚した時、彼は言うべき言葉の全てを見失った。

 「お前は恐らくリヒテンシュタイン家の中で最も才覚に溢れた男だ。しかし気を付けよ。己の才を過信した時に、足元を掘り崩される。お前がマンハイムと言う仲間を得たこと、彼女がお前と共にあることはお前にとって最大級の幸福だと思え」

 エルヴィンが元帥の部屋を出た時、彼は前夜の大嵐によって滅茶苦茶にされた部屋から快晴の青空を見上げている気分であった。

 彼が己の過去に感謝することは決して無いだろう。その意味ではリヒテンシュタインに対する恨みが消えることも無く、彼にとって素直に敬愛できるような相手であるはずもない。しかし貴族社会と対決しなければならない彼にとって、直接間接に心の芯を補強し、背中を押してくれたのは他ならぬリヒテンシュタインであったことを彼はここから先幾度も痛感することとなる。

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