第四幕・七月戦役

別れ、そして前へ

 西暦二七一九年、皇帝歴六〇九年六月一八日、帝国軍第五軍団は帝都ガルトを出立した。総勢五万二千三百隻に上る軍勢は一路針路をエリウス領へと向かって取り、ジャンプドライブを繰り返しながら進んだ。

 軍団長エルヴィン・フォン・ジークムント上級大将の司令部の元には新たに十名以上の参謀らが勤務するようになり、参謀長ディートリンデ・フォン・マンハイム大佐の下で動いている。彼らは司令官の意思決定を補佐するべく自身の所轄する範囲においての調整を行い、必要な情報を司令官へと提供した。

 五万隻を超える艦艇を一か所にまとめて航行させることは現実には不可能に近い。ジャンプドライブ航法は亜空間を経由することによって数百光年の距離を一瞬の間に跳躍するというものであるが、宇宙空間というのは無数の恒星系やブラックホール、重力異常や小惑星帯など重力を捻じ曲げる要素には事欠かない。当然それは亜空間にも影響を及ぼし、それらを回避できる航路を算出するにはスーパーコンピューターでも数分の時間を要する。無論万単位の艦船が同時にジャンプしようものならジャンプの際に亜空間との接続点を「こじ開ける」時に発生する重力震も巨大なものとなり、下手をすれば一瞬の跳躍の間に数千隻の艦船を喪失するような事態を引き起こしかねない。

 それを回避するために星系間航路には予め徹底した調査、計測の上で「跳躍航行許容艦船数」が定められている。これは四か国合意の下での国際基準が定められており、どの国も空間跳躍のために艦船を喪失するような不名誉を避けるため積極的に協力した。

 こうした跳躍航行許容艦船数は無論その星系の環境を鑑みてばらつきはあるものの、おおむね五千隻から一万隻程度に留まる。つまり同時にジャンプが可能な艦船数は第五軍団全艦船数の一割から二割程度に留まる、ということであった。

 通常であれば艦隊は縦列を成し、先頭の部隊から順番にジャンプすることとなっている。しかし、それによって艦隊の航海は尺取り虫のような移動となり、艦船のカタログスペック上の移動力の二分の一未満の速度でしか数千光年先の目的地へと到達できなかった。常識的に見れば第五軍団ほどの大軍ともなればガルトからエリウスとの国境線までは三十日近くはかかると思われていた。

 帝国選帝公ロエスエルから情報を得ていたエリウス軍は直ちに迎撃態勢を整える。内閣首席大臣アーサー・カニンガムは第一海軍卿アーノルド・テルフォード元帥に直ちに迎撃態勢の準備をするよう命じた。敵が五万隻ということはすでに明らかであり、それに対抗可能な六万隻、更に必要に応じてすぐに援軍に赴くことのできる八万隻の大兵力を準備させることとなった。

 エリウス軍の主力艦隊たる本国艦隊と帝国と連邦との国境線を守備するエルジア艦隊はエリウス側の呼称における「十九年戦役」で多少の損害を負っていたがその再編もほぼ完了しており、新任の本国艦隊司令長官ロバート・デーティ大将指揮の元艦隊は出撃した。

 もたらされた情報は帝国軍第五軍団が七月二十日ごろにエリウスとの国境へと到達することを示しており、これに合わせてエリウス軍は迎撃態勢を整えている。先発の第二本国艦隊と第五本国艦隊は国境付近のエルロモス星系に展開し、後続部隊の到着を待っていた。


 話はやや遡り、エリウスに対する軍事行動が決定されて第五軍団がその新発準備に当たっていた時期のこと。

 「分進進撃?」

 ガルト軌道上の宇宙桟橋に停泊する旗艦ザイドリッツの司令官公室においてエルヴィンは聞き返した。

 「その通りです。従来の移動方法では、敵軍の展開に対して遅れを取る可能性が大です。一個軍団規模での侵攻計画という大まかな情報は敵も掴んでいるはず。十万隻の大軍に包囲されれば我々には何もできません」

 声の主は新任の第十二師団長ブリュンヒルデ・フォン・ハインリッヒ中将だった。二六歳にして中将となった稀有な人材であり、機動的な艦隊運用を得意とする。

 その彼女が提案したのが少数に分散した諸部隊が別々の航路を辿り、敵地の目の前にて合流する、いわゆる分進進撃であった。一度にジャンプできる数に限りがあるから軍全体の機動力が落ちるなら、最初から小部隊に区切って個別に進撃させれば最大限の機動力を発揮できる。敵の防備が整わぬうちに急襲できればその後の戦闘における主導権を握ることができ、第五軍団の得る勝利の果実はより大きなものとなるだろう。

 概要を説明し終えたが、エルヴィンは俯きがちなままで目立った反応を見せない。それに満足できず、ブリュンヒルデは机に両手をついて身を乗り出した。

 「総司令部より命じられた任務は敵艦隊の釣り出しです。しかし小官は閣下がその程度の任務では満足されないであろうと考えておりますが、いかがですか?」

 エルヴィンの目がわずかに見開き、真紅の瞳に光が灯った。

 ヴァイス保安局長官に弱みを握られたこと、そしてかつての恋人のことで彼の脳は満たされ、その精神的活力は大いに鈍っていた。この出征に対しても彼が目立った反応を示すことはなく淡々と必要な準備をこなすだけで、ディートリンデも思わず心配になったが何かができたわけではない。

 この日の前日、惑星の地表にいたエルヴィンの下に私人としての資格で連邦の外交特使マーガレット・パタークレーが訪ねてきた。帝国軍本部ヴェアヴォルフを訪問してきたのは公の目に触れる場所であればあらぬ疑いをかけられることがないと言うマーガレットなりの配慮であっただろう。

 「結局、お互い忘れられなかったみたいね」

 エルヴィンは答えず苦いコーヒーをすすった。かつての恋人の前で見栄を張って飲んだコーヒーは、いつも以上に苦く感じた。

 「ごめんエルヴィン、こんなことになって」

 床を共にしたその日の朝、二人は自分たちの行動が何を意味するのかを悟らざるを得なかった。元恋人でありながら二人の互いへの想いは消し去ったわけではない。しかし、二人がかつての間柄を取り戻すには現実と言う溝はあまりに深く、広いものだった。心の渇きを埋めようと互いの身体を求めても、溝の深さに心は枯れるばかりで無意味な行為に過ぎなかった。

 「私さ、新しく彼氏作ろうかな」

 マーガレットの言葉はエルヴィンの心に槍を突き立てた。かつて彼が愛した女が、誰か他の男に汚される。エルヴィンがその事実をすんなりと受け入れることは、あまりに辛いことだった。

 しかし、彼に「元」彼女の行動を束縛する権利など無いし、それで諦めがつくなら良いことなのかもしれない。

 「それが良いことなのかもな」

 二人の間に沈黙が流れた。互いの立場はその心と現実の距離を乖離させるに十分で、もう元に戻ることはできない。その事実を二人が飲み込むために一分近い時間が必要だった。

 「ねえエルヴィン、あんたも新しい彼女を見つけてよ。お互い幸せになって、それでいつか自慢し合おうよ」

 思わず潤む彼女の瞳を見て、エルヴィンは思わず視線をそらした。わだかまる感情から逃げるように苦い液体を喉に流し込む。自分がディートリンデに何を求めたかを思い出し、正視出来なかったというだけ彼の羞恥心はまともに機能していたと言えるだろう。

 自分の感情と逆のことを言わないといけない苦しさに耐えたという意味で、マーガレットは数段この銀髪の青年より大人だっただろう。お互いに諦めなければならない思いがあるし、そうでなければ先に進むことはできない。彼らはロミオとジュリエットではない。現実を生きる義務がある。離れた二人が互いを恋慕するなど、空しいだけだ。

 「メグ」

 「何?」

 エルヴィンが迷いを断ち切って次の言葉を口にするまで、五秒の時間が必要だった。

 「俺は駄目な人間だったかな」

 マーガレットは涙になりかけの雫を拭き取り、微笑んで見せた。

 「君はもう中身のない抜け殻なんかじゃない。だから私は愛してた」

 「そうか」

 エルヴィンは自分なりに過去への別れを告げたのであろう。その後彼がマーガレットに対して恋慕の情を抱くことはなかった。そしてこの時が、マーガレットが外交特使として帝国に赴いている間最後の二人の面会となった。

 軌道上の戦艦ザイドリッツに入ってから、エルヴィンは一日放心状態寸前となっていたことは否定できない。同一人物に対して二度の失恋を経験したというのも不思議なものであった。

 そんな彼に戦意の火を灯したのがブリュンヒルデだった。多分に偶々ではあったであろうが。

 「前回の海戦で閣下は主導権を握ったからこそ勝利を握られた。今度も同じく主導権を握るべきです」

 その言葉がエルヴィンに与えた影響は予想以上のものだったであろう。

 「そうだな。防戦一方で後退するだけなど私の性に合わない」

 エルヴィンは立ち上がってブリュンヒルデに向き直った。様々な事象のせいで埋もれていた彼の性格の本質が、ブリュンヒルデの一言によって掘り返されたのである。

 大艦隊を率いて星々の海を征き、雄敵を倒す。その生き様は彼の精神の中核をなすものであった。生まれついての戦士であったと言えるだろう。その前には痴情の縺れも些細な事に過ぎない。

 「敵に急襲をかける。防衛の準備が整わない内に。中将、直ちに全軍団の行動経路を算出しろ」

 こうして第五軍団は誰も予想しえぬ速度を以て進撃することとなった。本来は七月二十日ごろと測定されていたエリウス領エルロモス星系への侵入はブリュンヒルデによる緻密な計画によって十日以上短縮され、七月九日には全艦隊がエルロモス星系に布陣することとなる。それは旧来の軍事常識を完全にひっくり返す革命的な出来事であった。ブリュンヒルデはこの行動の計画者として「騎兵提督」の異名を戴くこととなる。

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