出会い、そして…

 僅か三年で幼年士官学校を卒業して十三歳で少尉に任官し、軍人としてのキャリアをスタートしたエルヴィンが、五年後の十八歳の時には少佐に昇進していた。艦隊勤務、陸戦隊指揮官、参謀本部など様々な部局で経験を重ねた彼に与えられた新しい任務は、連邦ジョン・マクラカン大学への留学だった。それには同時に、同大学で研究されている軍事技術を盗み出すと言う密命が付属していた。

 無論軍事技術に触れるような研究室への接近を軍人であるエルヴィンが行えば国際問題に発展する可能性がある。そのため国立ガルト帝国大学のマティアス・フォン・ゼッレと言う立場をえて連邦へと忍び込んだのである。

 一か月近い航海の末連邦へと辿り着き、ジョン・マクラカン大学に向かったエルヴィンは研究室の場所が分からず校門で右往左往していた。そこに声をかけたのが当時二一歳の誕生日を迎えたばかりのマーガレット・パタークレーであった?

 「あなた留学生でしょ、場所が分からないの?」

 突然声をかけられてエルヴィンは身がすくむ思いだった。

 「どうして留学生と?」

 マーガレットはけらけらと笑った。

 「バッグも服も靴も全部帝国のでしょ。それでこんなところでまごついてるなんて留学生以外にいる?」

 その観察眼と洞察力は既に彼女の外交官としての才覚のあらわれであっただろう。後で彼女が外交官を目指していることを知り、エルヴィンはむしろ納得したくらいである。それ以上に自分が一目で帝国人と見分けられるのは仮にも技術スパイとして入国しているエルヴィンにとっては致命的な弱点だった。

 「私は国際政治学専攻のマーガレット・パタークレー。君の名前も教えてよ」

 「マティアス・フォン・ゼッレ。ガルト大学からの留学生だ」

 マーガレットは目を丸くした。

 「ガルト大学って、あの帝国大学の?エリートなのね」

 「エリートなんかじゃないよ」

 人慣れしていないエルヴィンにとっては一刻でも早く会話を終えて逃げ出したい気分だった。

 「それで、どこを探してるの?」

 「大丈夫、自分で行くよ」

 「絶対見つけられないでしょ。案内したげるから教えなさいよ」

 「…パーキンソン教授の研究室」

 マーガレットは答えを聞くとすたすたと歩きだした。ついてこないエルヴィンを振り返る。

 「ほら、着いてきなよ」

 エルヴィンは降参した。

 

 彼の人生で、ニューフィラデルフィアで過ごした二年間は人生で最も透明な時間だった。技術スパイとして研究室のデータを片端から本国へと送信する任務の時間の合間に彼は経済学や政治学、歴史学の講義を聴講して、普通の大学生として過ごした。数億冊の蔵書数を誇る大学図書館に入り浸って書を紐解き、時に街へと繰り出してただの一般人としての人生経験を重ねた。それまで「普通の人」としての生き方を知らなかったエルヴィンにとって何もかもが新鮮な体験であり、気が付けばエルヴィンがニューフィラデルフィアにいる目的と手段が逆転していたのである。

 そして彼の経験の全てでマーガレットが側にいた。エルヴィンの美貌は一流の彫刻家が大理石で造形したような整った形であり、エルヴィン自身自分の清潔感にだけは気を配る潔癖男子であったこともあって、その容姿にマーガレットが惹かれるのも無理ないことであろう。何しろその顔立ちの良さはマクラカン大学でも有名になるほどであり、エルヴィンも数人の女子とお近づきになる機会を得た。その度にマーガレットはともすれば他の女子に傾きそうになるエルヴィンの心の針を引き戻そうと彼を掴んでベッドに押し倒したものである。

 エルヴィンの根が優しく繊細な青年であることはディートリンデ・フォン・マンハイムが最初に知っていたが、マーガレットは二番目にそれを知ることとなった。一方のエルヴィンもマーガレットの気丈さの裏に隠れた純粋な乙女としての一面に触れるようになり、二人はすぐに惹かれ合うこととなったのである。だがそれはエルヴィンの正体を共有し得ぬ、偽りの関係でもあった。

 しかし、エルヴィンにとっての最初の恋愛が続いた二年の間に、彼が年頃の青年らしい情感を備えるに至ったのは紛れもない事実である。この二年間が後の彼に大きな影響を与えるようになったことは疑いが無い。もっとも二人とも感受性は豊かでもその思考は多分に散文的であり、それしか愛情表現を知らないかのように毎晩の如く床を共にしていたことは流石に二人とも人に語れたものではなく、歴史書のどれにも記述はない。

 エルヴィンにとって最も新鮮な出会いと経験に満ちた二年にもやがて終わりが近づき、マーガレットは卒業して国務省への入省が、エルヴィンは帰国が決まった。

 それが近づいたある晩、ベッドの中でマーガレットは突然切り出した。

 「知ってるよ。君がスパイだって」

 「え?」

 心臓が跳ねたエルヴィンが思わず飛び起きそうになったが、それよりも早くマーガレットはその滑らかな肢体を絡ませた。

 「初心なんだよ。そんなの君の言動聞いてたら分かっちゃうんだから」

 エルヴィンは不機嫌そうな表情を見せた。その顔を見てマーガレットは微笑む。

 「表情豊かになったね」

 銀髪の青年は思わず顔を背けたがそれを追いかけるようにマーガレットは唇を重ねた。

 「もうそろそろ終わっちゃうね」

 エルヴィンは答えなかった。伝わる鼓動が別れまでのカウントダウンに思えた。


 エルヴィンは目を開いた。

 夢を見ていたようだ。彼が覚えている遥か昔の、彼が一番彼らしくいたであろう時の夢を。

 寝ぼけたまま起き上がって横を見た時、黄金色の髪が視界に入った。その横顔も、白磁の素肌も彼が最後に見たマーガレットの姿からほとんど変わっていない。

 連邦で任務に当たっていた時はまだ少佐に過ぎなかった彼が本国へと戻った時に彼がもたらした軍事技術の豊富さは帝国の総合的な軍事力を底上げするほどの質と量を持っており、その功績から二階級特進で大佐となったのである。彼が本国に戻った時にはエリウスとの戦争たけなわであり、すぐに前線へと赴任して戦功を重ねて今や階級も上級大将である。しかしマーガレットと別れてエルヴィンの心にできた穴は埋めようのない巨大なものだった。それほどにニューフィラデルフィアで過ごした二年間にマーガレットがエルヴィンに与えた影響は大きかったのである。思わずマーガレットの代わりになる存在をディートリンデに求めたが、その返答は取り付く島もないものだった。そこまで良く今まで支えてくれたなと苦々しい気恥ずかしさを残すエルヴィンである。

 起き上がって軍服を着ようとしていると目をこすりながらマーガレットが起き上がった。

 「おはよう、メグ」

 マーガレットは二年ぶりに身体を重ねたベッドを見渡してからかつての恋人に視線を向けた。

 「…おはよう、エルヴィン」

 その呼び方は彼女には慣れないものであった。

 

 エルヴィンがいつも通り軍事省へと向かい、車を降りると声をかけられた。その声は聞き覚えがある者であり、誤解しようがない。そしてこの状況下において最も話しかけられたくない相手だったであろう。

 「おはようございますジークムント提督」

 エルヴィンは愛想笑いを張り付けて振り向いた。

 「おはようございますヴァイス長官、いかがなさいましたか?」

 帝国保安局長官ヴァイスの顔は笑っていたが、落ち窪んだ眼窩の奥からは黄色い瞳が尋問者らしい厳しい眼光を放ち、エルヴィンに逃げる余地を与えなかった。

 「どうやら昨晩は随分とお楽しみだったようで」

 嫌でも心音が高鳴った。一時の感情に任せた己の行動を、エルヴィンは心から後悔せざるを得なかった。

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