政治闘争

 「何の御用ですか」

 問いに答えずにヴァイスはエルヴィンの隣の席へと腰を下ろした。

 「あぁ、そう身構えないで。私はあなたの敵ではないですよ」

 そう言われて力を抜ける状況ではない。何せ相手は帝国保安局の長官である。証拠を捏造して粛清することなど造作もない組織に目を付けられたのかと思って安心できる者など存在しないだろう。

 「むしろ、私はあなたに協力いただきたいのです」

 今度こそエルヴィンは訳が分からず絶句した。

 「二二歳の若さで上級大将へと昇進し、手元に六万隻近い大艦隊を保持する提督、あなたには政略面で味方となり得る存在も必要ではないですか?」

 「何を仰りたいのですか」

 ヴァイスはマスターに注文を済ませるとエルヴィンに向き直った。

 「お気づきでしょう。軍部内においてあなたに敵対する勢力はかなり多い。軍部内で孤高の存在であるリヒテンシュタイン元帥のご子息であり、同時に下級貴族出身の若い上級大将。門閥貴族出身の高級士官らにとっては忌避すべき存在ですな」

 エルヴィンにとって軍部内における派閥対立などと言うものは想像の外にあるものであった。帝国の軍隊であれば本来皇帝陛下の元一丸となって結集し、鉄の規律と鋼の忠誠心で帝国の矛となり盾となるべき存在ではないのか。もっともそのような幻想をここで口にする愚かさを悟れないほどエルヴィンは世間知らずでもない。ディートリンデに指摘されてから、エルヴィンは自身に対する軍部内での反感を知覚し始めていたからヴァイスの言に反発することも無かった。

 「我々には政治的な影響力がある。私の背後にはネーリング公爵がいらっしゃり、軍部内における改革派や宰相ボーデン候とも関係が深い。しかし何せまだ勢力が小さく、実戦部隊の指揮官レベルでは人材が枯渇している。我々と協力し、互いの足りない面を補い合うべきだとは思いませんか」

 エルヴィンはそれにすぐに答えずヴァイスの発言を吟味した。

 ネーリング公や宰相らへのパイプができれば、確かに彼の立場が侵される可能性を減少させることはできるだろう。しかしそれは政治闘争に嫌でも巻き込まれることとなることを意味する。エルヴィンは軍人として生きる道を強制され、生きるために軍人として栄達を重ねてきた。その彼にとって権力闘争に身を投じることにメリットを感じることなどできない。軍人として目の前のことに集中していることだけが、彼にとっては最も楽な道であった。

 「政治闘争に巻き込まれたくはありません。お誘いには感謝いたしますが、お断りさせていただきます」

 エルヴィンはビールを飲み干すとバーの代金を机に置いて立ち上がった。ヴァイスはエルヴィンの姿が夜の闇に溶け込んで見えなくなるまで一言も発さず彼の背中を見送ると、指を鳴らした。

 近くのテーブル席で客のふりをしていた保安局の職員二人が席を立ち、ヴァイスの背後に立つ。

 「奴を追跡しろ。奴の一挙手一投足、全て監視するんだ」

 「はっ。それと、例の特使が先ほど…」

 職員の報告をヴァイスは遮って命令した。

 よし。では彼女も監視だ。急ぎ公爵にもお伝えしろ」


 帝国宰相と言う存在は法令上定められた存在ではない。本来帝国の統治権は皇帝ただ一人に帰するものであり、皇帝の命令が全ての法や決定の上に立つものであった。

 しかしかつてフリードリヒ・ヴィルヘルム二世が門閥貴族によって退位を強要され、五公を中心とする大貴族が皇帝にも匹敵する政治的影響力を持つようになってから、皇帝が直接政務を執り行い、五公を始めとする貴族と相対することは避けられるようになった。ある種のスケープゴートとして、宰相は置かれるようになったのである。

 宰相の役割は皇帝の代理として政務を執り行い、中央官庁を統率し、帝国の統治権を安泰ならしめることにある。そして同時に、五公ら大貴族に対して皇帝権力を維持し続けることも大きな役目であった。

 現在の宰相クラウス・フォン・ボーデン侯爵が執務を行うのはフリードリヒ・ヴィルヘルム二世が退位させられた後に帝位に就いたアルプレヒト一世が最初の宰相を任じた際に建造された宰相府である。カイゼルブルクの中心にある官庁街のそのまた中心区画に置かれ、流線形を持ったやや異質な形状のビルは、当時拡大の一途を辿った五公の権威に対して皇帝の権威をビジュアル面で示そうとするアルプレヒト一世のささやかな抵抗であったのだろうか。

 マジックミラー状の強化ガラスが一面に貼られ、帝国官庁街の夜景を眼下に見下ろすことのできる宰相執務室にはこの時一人の来客があった。

 帝国外務卿、アードリアン・フォン・リュッチェンス男爵である。リュッチェンスは閣僚の中で唯一ネーリング公爵の手の者であり、五公の中で唯一ネーリングが宰相に対して協力的であることから、ボーデン候にとっては強力な味方であった。

 「ルーシアの大使館経由の情報によれば、エリウスは再度の攻勢の姿勢を見せています。我々が講和に動かない限りは徹底的に叩くつもりのようです」

 ボーデン候は指で机を叩いた。

 「しかし未だに五公は講和を言い出す気が無い。言い出せば敗戦論者とレッテルを貼られることを恐れて全員が戦争の継続を指示しておる」

 もちろん五公の中で大真面目に戦争を継続すべきと考えているものは殆どいないだろうが。

 「連邦が帝国とエリウスの講和を斡旋する動きを見せているようです」

 ボーデン候の机を叩く指が止まった。

 「ほぅ…?」

 「昨日連邦のブラウン国務長官がエリウスに入りました。どうやら帝国にも大統領特使が入ったようです」

 「ようですとは…正規の外交ルートで特使の来訪は伝わっていないのか?」

 外務卿は頷いた。

 「はい。講和を斡旋する動きがあると言う情報のみです。大統領特使が入ると言う情報はネーリング公独自の情報です」

 「また保安局か」

 ボーデン候はため息をついた。

 「情報がネーリング公の内にあると言うなら別に構わぬ。これを機としてエリウスとの講和に動かねば。帝国はこれ以上戦争はできん」

 テーダー戦争以降数年に渡って戦争を続けている帝国の財政や人的、物的資源は限界に達している。勝っていればそれでも良かったが、負けているとなればとても戦争を続けていられる状況ではない。宰相としては五公に対して主導権を得た状態で一刻も早く戦争を終わらせ、帝国の内政を再建しなければならなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る