皇帝ヴィルヘルム四世

 エルヴィンが玉座の間へと足を踏み入れた時、巨大な空間には誰もいなかった。

 高い天井に奥行きのある部屋には、豪華と言う言葉の限りを尽くした装飾が施され、奥に数段上がった台座の上に玉座が置かれている。これまで六百年余りに渡り四十人以上の皇帝がこの場所から臣下を見下ろした場所である。

 エルヴィンは玉座へと上がる段差の目の前まで歩き、そこで跪いた。この謁見の間において皇帝に相まみえる臣下の儀礼である。

 すぐに台座の上に式部間が現れ、肺活量の限りを尽くして声を張り上げた。

 「皇帝陛下、ご入来!」

 エルヴィンは一層首を垂れた。軍隊の階級においては大将でも貴族としての地位は騎士にしか過ぎない彼にとって、帝国皇帝など雲の上の立場の人間である。皇帝に一対一で会うなど初めての経験であり、思わず心臓が高鳴った。

 わざと音が反響するように設計された空間の中で、靴音だけが強調されるように響き渡る。

 「面を上げよ」

 その声に応じてエルヴィンが顔を上げた時、そこに座っていたのは銀河帝国第四二代皇帝ヴィルヘルム・フォン・ローゼンベルク四世である。荘厳な服装に、どこか疲れた老人のような雰囲気と言う相反する要素のカクテルのような男は椅子の座り心地が悪そうに僅かに座り直した。

 エルヴィンは無言で皇帝を眺めた。無論絶対君主相手の機嫌を損ねて良いことがあるはずも無いので、あくまで平静を装いながら、である。平静の維持のためにエルヴィンの精神力は七割ほどが使われた。

 「エルヴィン・フォン・ジークムント、と言ったか」

 「はい、陛下」

 皇帝の言を受けて初めてエルヴィンは口を開いた。臣下から話すことは不敬とされている。

 「リヒテンシュタインの息子、であったか」

 その言葉に嫌でも表情が歪み、思わずエルヴィンは顔を下げた。

 「…はい、陛下」

 エルヴィンの心情に気づいてか気づかずか、皇帝は話を変えた。

 「卿はまだ若く、貴族としての確固たる地位もまだ無い。貴族共は地位がどうのとか、土地がどうのとか、そのような話しかしないが、卿は何を望んでいる?」

 今度こそエルヴィンは思わずぽかんとして皇帝を見返した。何を望むかと皇帝に問われてすらすらと返事が出てくる人間がいれば、それは相当な野心家であるだろう。少なくともエルヴィンはそこまでの野心家ではない。

 エルヴィンの反応を見て皇帝は哄笑した。

 「何を望むのかと問うているのだ。軍人としての名誉か?それとも貴族としての地位か?それとも金か?」

 銀髪の青年の頭はフル回転していた。想像を絶する問いの返答に迷っていたのである。

 「…帝室の安泰と名誉のため、非才の小官の僅かばかりの力を使い奉るのみにございます、陛下」

 この時のエルヴィンに周囲を観察するだけの精神的な余裕があれば、その回答に物足りないような反応を皇帝が示したことに気づいたであろう。もっともそれをこの二十代も頭の青年に望むのは酷と言うものである。

 「卿は僅かに七年の期間でこの階級まで駆け上って来たと聞く。卿の力を持ってすれば武官としての高位を目指すことは容易いことであろう。或は貴族としての栄達を望むこともできような。卿は何を望む?」

 エルヴィンは回答に詰まった。宇宙艦隊を率い、雄敵を打ち倒すことが彼にとっての今の望みであり、それが叶うだけの地位を欲しただけである。軍人としての栄達、更には貴族としての栄達など彼の視界の射程には入っていなかった。

 返答に窮したエルヴィンを眺め、皇帝は微笑した。

 「望みが無いと言うのなら、探してみよ。卿はまだ若く、才覚に優れた稀有な男だ。これから己の目指す道を探しても、遅くは無かろう」

 「…はい」

 これまでの二二年の人生で彼は一般人としての生活を送ったことは無い。その彼にとって皇帝の言葉は想定外の方向からの奇襲攻撃のようなものであった。当惑するという経験を、彼は久々にすることとなった。


 一国の皇帝など、下級貴族にしか過ぎないエルヴィンにとっては雲の上の人としか思えない。その皇帝からかけられた言葉はエルヴィンに強い影を落とすこととなった。

 卿は何を望む?

 エルヴィンにとって軍隊とは人生そのものだった。多少の振れ動きはあっても、彼の人生のトロッコが軍人と言うレールを外れたことは一度として無い。生きるために軍人として成長し、いつしか宇宙空間を埋め尽くす艦隊を率いることを夢見るようになり、この階級までたどり着いた。

 だが彼にその先のビジョンは無い。上級大将となり、元帥となって何をするのか。さらにその先、自分は何を成したいのか…

 後に銀河史の一瞬の鮮やかな輝きを演出することとなる銀髪の青年の心理的な出発点にはいくつかの説が唱えられているが、この時の皇帝がエルヴィンにかけた一言であったとする説は根強い。

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