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 他の人の試合を観るのは初めてだった。

 コトさんにクラブの試合を観ないかと誘われて渋々観に行くことになった。

 クラブの試合は選手ならばいつの試合でも自由に見ることができるが、私は他人の試合は一切観に行かなかった。

 それは単純にトレーニングやバイトで時間がなかったのと、他人が私より凄いいい試合をしていたら比べて卑屈になるのが嫌だった。

 クラブの前で彼女と待ち合わせると、そのまま隣同士で試合を観戦することになった。

 中央のリングの中には、私と同い年くらいの色白でスレンダーな女性と、少し日に焼けた身長が百七十センチはあろうかという選手が入り口から入っていった。

 試合をしている時は感じなかったが、このように客観的に見ると、リングにいる選手たちというのはまるで鳥かごに捕らえられた鳥の様で、周りにいる観客はそれを飼う飼い主のようだ。

「ひかる。この二人のどちらかが次あんたたちと戦う一人だからね」

 小声でコトさんが耳元で囁くように説明する。

 そんなことをして良いのだろうか。選手は事前に選手のことを知らせてはいけないのにもかかわらず、あろうことかその選手の試合に誘うとは何を考えているのか。

「それではジュリとユキの試合を始めます」

 アナウンスがあり、背の高い選手がジュリで色白の女性がユキという選手だとわかる。ゴングが鳴り、試合が始まる。

 最初こそ、お互いに牽制し合う形だったが、徐々にお互いに蹴りとパンチを出し合い打ち合いになっていく。しかし、数秒もしないうちにジュリという選手のパンチがユキという選手の鳩尾らへんにヒットする。

 ユキが顔を歪めてお腹を抱えて後ろへ引きさがると展開はここから一気にジュリのペースになる。動きが止まったユキに殴る蹴るを繰り返し、それがお腹のいたるところへヒットしてスレンダーな腹部が攻撃を受けるたびに凹む。

 こんなに凹んでいるものなのだ自分がしている試合がどれだけ身体に負担をかけているものなのか怖さを感じつつ、その展開になると周りにいた観客が騒ぎ始める。

「いいぞ!! いいぞ」

「ほら、もっと苦しい顏見せてくれよ!!」

 その光景はリングに立っている時も浴びせられていたが、狂気迫るものがあると震えさせた。

ギャー

 一方的に殴られていたユキが叫び声をあげる。

 ジュリはわざと下腹部へ攻撃を加えているように見えた。

 鍛えられない下腹部は女性にとって急所であり危険な場所だ。コトさんもトレーニングではそこの攻撃はあまり好きではないという理由で教えてくれなかったし、私も反則ではないがそこを攻撃するのは気が進まなかった。

 しかし、ジュリという選手はそこをあえて狙って相手の反応を楽しんでいるように見えた。

それに釣られるように、観客のボルテージも上がる。

 オエ

 とうとう、ユキが嘔吐してその場に倒れた。

 床に広がる透明な吐しゃ物。痙攣する選手。それをヘラヘラ笑う選手と興奮する観客。ここにいる人間は何だ。みんなおかしい。

 同時に、私自身もここに身を置いていることに気づく。

 試合はその後そのまま拷問のような形で終わり、ユキは試合後立ち上がることができず担架で運ばれてリングアウトした。

「きっとあの子怪我したね」

 試合後、上野のアメ横を二人で歩きながらコトさんが口を開く。

「あの子って試合のユキって子ですか?」

 コトさんは黙って歩く。

「変な話、死んだりしてないですよね」

 コトさんはさらに黙っている。

「もう一つの試合もジュリっていう選手の相方が勝ったみたいだから、次はジュリと当たるの決定だね」

 今日の選手のように私もなるのだろうか。正直、あのジュリという選手には勝てる自信がなかった。

「もう一人の方はわからないけど、ジュリって選手は対戦相手を死なせたことがある選手だよ。ファイトスタイルも今日見た通り、悪質。わざと下腹部を狙ってくる」

「どうして今日、私を試合観戦に誘ってくれたんですか?」

 またコトさんは黙る。

「そうそう。ひかるってさ、笑わないよね」

 間を置いてコトさんは全く違う話題を振る。

「え?そんな意識したことないです」

 確かに、楽しいことも特にないし、笑う機会がないと言えばないかもしれない。特にここ数年は辛いことばかりだ。

「いや、笑わないよ。きっと笑ったら可愛いと思うんだけどな」

「だって、そんな楽しくもないのに笑ったらおかしい人じゃないですか」

 おかしい人。私は十分普通じゃなくておかしい人だ。それなのに、おかしい人になりたくなくて笑わないと言っている自分が滑稽だった。

「楽しくなくても笑っている方がいいよ。ほら、笑顔」

「そんなこと言ったって」

「ほら笑顔」

 コトさんはふざけて私の脇をくすぐる。

「止めてくださいよ」

「ほら、可愛い」

 軽く振り払う時に笑ったのをコトさんは満足げに目を細める。

「あの、前から気になっていたんですけどどうしてコトさんは私のことを可愛いと言うんですか?」

「そりゃあ、可愛いからだよ」

 何言っているんだと言わんばかりに即答される。

「だって、私そんな可愛くないし、何か、普通にアイドルが可愛いというのと違う意味で言われている気がして。そもそも、あのクラブの選手にスカウトされたのだってわからないんです」

 なるほど。と言って、少し空を見上げて考え込んでから彼女は逆に質問してくる。

「私ってさ、ひかるから見てどんな奴なの?」

「どんな人って、凄いいい人だと思います」

「いい人ねえ」

 コトさん鼻で笑う。

「どうしてですか?」

「やっぱりひかるは可愛いよ」

「からかっていますか?」

「クラブの試合は基本、お客さんに喜ばれればいいの。それで喜ばれるのは、ある程度綺麗か純粋そうな可愛い子が無惨にやられる姿を観るのが好きなの」

試合で勝つことよりもやられることが喜ばれるのか。

「私は、スカウトとしてお金を貰っている人間としてそれを考えながら街で女の子に声をかけている」

 私もそうだということか。さらに話は続く。

「ひかるは、そのターゲットに引っかかったの。それで見事に選手として活躍してくれている」

 活躍している意味はわかるよね? と念を押してもう一度繰り返してきたがそこはそのままの意味でしか捉えられなかった。

「ひかるは素直で可愛いし、いい子だよ。でももっと人を疑うというか、いろんな方向から見た方がいいかもしれない」

 私はそこまで素直じゃないし、人を信用しない。それにいい子じゃない。コトさんはわかっていない。

「それでもコトさんはいい人だと思います」

 そっか。と言って私の頭を優しく撫でた。

「そんなひかるだから、余計に世話を焼きたくなるんだよな。私もこんな世界に踏み込んでどうしようもなくなっているけど、それを見返してやるみたいなさ」

 ホント小さな小さな反抗だけどね。と声が小さくなってボソッと呟く。

「やっぱり私は、選手として向ていないと思いますか?」

 試合を客観的に観て、あそこのリングに立つ自分を想像する。

 想像以上に異常で普通の人間が立てるような場所じゃないと改めて認識させられる。

 じゃあ何に向いているんだ。訊いた自分に自問自答してみるが、答えは出ない。コトさんもその質問には答えてくれなかった。

「私ができることはここまで」

「え?」

「わかっていると思うけど、こんなことスポンサーに見つかったら私もどうなるかわからないんだよ」

「はい。でも、もう一度聞きますがどうして誘ってくれたんですか?」

 それはわかるでしょ? と言いたげに笑いながらため息を吐いてそれ以上は答えてくれなかった。

 コトさんは肝心なところはいつも曖昧であやふやにする癖がある。

 コトさんがわからない。

 この人だって所詮は他人。いい人なのか。いい人ではないのか。

 この七月に入ったばかりにジメッとして蒸していそうででも、少し肌寒い夜の風を肌で受けながら、心が中途半端に揺れ動いて何もかもがよくわからなくなってどうでもよくなっていた。

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