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便器の底に黒茶色の便が少しこびり付いていた。
便器ブラシでも上手く取れず、テッシュで手をくるんで手を突っ込んでその汚れを取る。
完璧に綺麗にしないと。
障害のことを打ち明けたのは良いが、甘えてはいけない。むしろ、受け止めてくれた江沢さんにも答えて行かないといけない。
変わらず薬の効果は感じられない。ただ、私の特徴を障害という枠組みでわかりやすく表示されて、まるで自分の取扱い説明書をもらったかのように気を付けないといけないことがわかる。
お陰でどの部分を頑張らなくてはいけないか明確にわかって、周りの人に迷惑もかけなくなり叱られなくなっている。
例えば、掃除の雑さとかも気を付けて丁寧にやろうと意識すれば雑にならないし、それでも雑なところは江沢さんが頭ごなしに叱らずにどこが足りなくてそのやり方などを親切に教えてくれるようになった。
今まで苦労し苦しんできたことは何だったのか。
クリニックに行って、障害のことを知って、それを他人に打ち明けて良かったと思う。
ここから。ここから少しずつ一歩一歩ゆっくりでもいから、みんなと同じに近づけられればいい。慌てることはない。
作業を終えて事務所に戻ると、事務所の電話が鳴り響いていた。
大体、事務所には誰かいるし、電話なんて滅多にかかってこないからこのようなシチュエーションは初めてだが、江沢さんからは電話が来た時は出るようにと言われていたから無視できず受話器を取る。
「はい。事務所です」
「あ、こちら、、、」
電話の向こうからは男性声が聞こえる。江沢さんに替わっていただけませんか? とのことだったが、今席を外していると伝えると伝言を伝えてもらえないかとお願いされる。
「はい、ちょっとお待ちください」
メモと書くものを探すが見当たらない。電話に相手を待たせている。仕方ない。集中して内容を覚えよう。
「はい、大丈夫です」
男性が何か言葉発してくる。思った以上の早口で電話の向こうだからか全く聞き取れない。外から救急車のサイレンが鳴っている。こちらに近づいてくる。近づいてまた音が遠くなる。
「では、そういうことでよろしくお願いいたします」
電話の主が一方的に電話を切られてしまった。
呆然とする。全く要件がわからない。そもそも誰の電話だったのか。
そこへタイミングが良いか悪く江沢さんが入ってくる。
「おお、ひかるちゃん。仕事終わった? この前、利用者の人にもらったお菓子あるんだけど食べる?」
気さくに声をかける江沢さんに電話が来た件を言わなければならないと思うが、どう切り出せばいいかわからない。
「どうしたの? 浮かない顔して」
「あ、あの電話が来たんですけど」
「え? 誰から?」
答えられない。わからない。
「えっと、男の人で、会社員の人みたいな声で」
「え?」
「あの、その誰かというのはちょっとわからなくて」
「ええ? どういう用件で?」
「それもちょっとわからなくて」
「はあ? どういうことよ? それ」
受話器を乱暴に取り上げるとリダイアルボタンを押して電話をかけている。電話向うの相手はすぐに電話に出らしく、謝りながら要件をメモして二分ほどで受話器を置いた。
しばらく、受話器を見つけていたかと思うと私の方を睨みつけてくる。
「おい、こんなこともできないのかよ」
ハッとお腹がまた痛くなる。この空気。この感触。まただ。
「全く」
表情を曇らせて、江沢さんは部屋を出て行った。
障害のせいだ。
慌ててメモを取らなかったのも、全く聞き取れなかったのもそれのせいなのは明白だった。
どうして、どうしてよ。もう嫌だ。
戻った。これで仕事場の人間関係も自分の仕事への評価も元に戻った。戻ったというより、初めから全てが無理だということだったのではないか。
私は普通ではない。普通には生きられない。
せっかく希望が見え始めたのに現実を突きつけられて、それらが無駄であることを宣告されたような気分だった。
仕事中どんなことがあっても泣くことはなかった。でも、涙が止まらなくなった。
そこへまたドアが開く。
タイセイさんだった。
「どうしたんですか?」
涙を見られたと思い、急いで袖で顔を拭く。
「いえ、大丈夫です」
「また江沢さんに言われましたか?」
身体が固まる。違いますと嘘が付けない。もう偽って生きるのは嫌だと身体が反応しているみたいに。
「あの人、そういうところがありますよね」
「そういうところ?」
思わず彼の顔に目を向ける。今日の彼は無精ひげが少し生えているなとこんな時でもあらぬことが頭を駆け巡る。
「だって、あの人の掃除したところ汚いし、掃除したのって感じだし。それにすぐ感情的になる」
え? 何を言っているのかわからなかった。
「だいたい人って、みんな、人に注意することは自分もやらかしているものですよね」
励ましている? 障害を打ち明けてもイラついていた彼が私をどうしてだろう。
「だからって、君も雑だけど」
じゃあ仕事戻るんで、と彼は部屋を出て行った。
一人残された私は、何だかわからない他人の別の面を見た気がした。ただ、それを知ったところでどうだって言うんだ。
私がどうしようもない人間であることに何の関係もない。
外からまた救急車のサイレンが聞こえてそれがまた少し気になった。
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