19

今日は夜の飲み屋ではなく、昼間のカフェに誘われた。

 コトさんは、会うなり少し元気がないというか神妙な面持ちだった。

「どうされたんですか?」

 私からコトさんに話しかけてみる。

「いや、ああ、ごめんごめん」

 一口アイスコーヒーを飲んで大きく息を吐いて話し始める。

「試合はどう?」

「試合ですか?」

 前回の試合のことだろうか。試合後、コトさんには会わなかった。コトさんも珍しく控室にも来てくれなかった。

 客席には姿を見かけた気がしたから、さぞかしガッカリして声もかけなかったんだろうと寂しかったが仕方ないと納得していた。

「何も言えません。私が弱かっただけです。すみませんでした」

「まただよ。どうして謝るの?」

 タイセイさんと同じような顔だ。怪訝そうな顔を見せる。

「その、次、次頑張りますんで。もっと強くなるんで。あの、良かったらまたトレーニング付き合ってくれませんか?」

 コトさんはいつものようにやろうとは言わず、ただ一本タバコ吸っていい? と聞いた。タバコを吸うことを初めて知ったが、そのタバコを加えた姿は綺麗とかカッコいいというかどこか寂しそうな吸い方だった。

「あのさ、初めて勝った時、私がヒカルのことぶったの覚えている?」

「は、はい」

「私もああいうふうに上野のアメ横でスカウトを何年もしているけど、スカウトの身でありながら、スカウントした子が試合で一方的に痛みつけられて負ける姿を見るのは辛い」

煙けむたい? と言いながら、そっぽを向いて煙を吐き出す彼女はまた切なかった。

「前回の試合だって、体型からして明らかにレベルが違うのはわかっているのに、それなのに試合を組んで。ホント悪質だと思う」

「でもだからこそ、みんなエキサイティングしてくれて喜んでくれるんだと思います」

「エキサイティングねえ」

 コトさんは何か言いたげだった。

「おかしいこと言ってますか?」

「お金で釣ってなんでもやらせる。確かに、選手も了承しているけど、それにしても割りに合わないと私は思うんだ。それでヒカルがお金を貰うのに相応しくないような言い方するからぶったんだよ。そんな言い方するなってね」

 ってこんなこと関係者に聞かれたら、私が罰を受けるとコトさんは小さく笑って、少し縮こまる。

「そうだったんですね。嬉しいです。ありがとうございます」

「ホント、ヒカルは可愛いね」

 いつもコトさんは可愛いと言ってくれる。ただ、ふとどういう意味で使っているのだろうと気になることがある。

「私今度は負けないんで。ホントもっと頑張るんで」

 この人には失望してもらいたくなかった。バイトも辞めてここしか稼ぎ場所がないということもあるが、見捨てられたくないという焦りの気持ちが勝った。

「私、この前の試合観たんだけど、正直ね、ヒカルはこれ以上クラブの試合はしない方がいい気がするんだよね」

 ショックだった。ショックが大きすぎて泣きそうになる。というより、泣いていた。

「ええ? 泣いているの?」

「だって、だって。私、バイトでも必要とされなくて。辛くて一昨日辞めたんです。それが、クラブの選手としても辞めろって言われると思わなくて、どうすればいいか」

「そっかあ。仕事って人間関係とかいろいろあるもんね」

 そんな簡単な言葉で終わらせないでもらいたい。もっともっと深くて複雑な問題がある。

「あの、続けさせてください。ここがないともう後がないんです。何でもします。ファイトマネーも少なくていいです」

 お金はどうでもいい。今は試合に出ることが大事だ。失った信頼を取り戻すことが大事だ。

「どうしてそんなに選手にこだわるの? しかも、お金目当てで試合しているのにお金減らしていいって、ちょっとそれは何?」

「いや、それはその、そのくらいの覚悟でということを言いたかったです」

「覚悟はわかったけど、ファイトマネーを減らすなんて冗談でも言わない方がいいよ。ホントにいいように使われて、使えなくなったらゴミ箱行きされるよ」

 コトさんの語尾が強い口調になった。いいように使われるとはどういうことだろう。スポンサーの人も素行こそ強面であるが、いつも試合に出るたびに勝敗関わらずカンパをくれる。

 クラブは闇の世界であるが、世間一般的に言われるほど粗末な扱いはされたつもりはない。よっぽどかファーストフード店のバイトの方が酷い扱いをされた。それは全て普通に振舞えない私が悪いし、社会的不適業者という証拠かもれない。

 それに、コトさんは本当にいい人だ。本気で私を心配してくれているのが伝わる。信頼したい。この人には信頼されたい。だからこそさらに焦りは増す。

「ホント、お願いします。私、とにかくここがないと困るんです。お願いします」

「わかったよ。別に、無理に引退を進めているわけじゃないから。ただ、身体のことを心配しているの。どう見ても格闘家向きの身体じゃないし、いつか怪我しそうだから」

 何度も頭を下げる私に、頭を優しくなでて宥める。

「私には向いていないんでしょうか」

 そんなのわかっていた。運動神経が元々悪いし、才能もないのもわかっていた。でも、必死で頑張れば何とか勝っていけてしがみつけるような世界のなのかもしれないと思っていたところがあった。

 過信。おごりだったのだろうか。

「またそんな困った子犬のような顔で見ないでよ。向いている向いていないだと、そうだね。恵まれた身体ではないよ。正直」

 上げた顔をまた俯かせる。じゃあ私はどうすればいいんだ。やっぱり私は誰にも期待されない必要とされない人間であるべきなのだろうか。その方がよっぽど人間としてごみ箱行きだ。

「おかしいよね。スカウトして誘っておいて」

 沈黙。

 コトさんがタバコを灰皿に擦り付けて火を消す。

 でもと、コトさんが口を開く。

「でも、どうしてそこまで選手にこだわるかわからないけど、その気持ちがあるなら私で良かったらとことん付き合ってあげる」

「ホントですか?」

 急に目の前が明るくなる。

 どうしてこだわるのか。それは、普通の人のように生きられないからだ。闇であることはかわっている。でも、ここしか私がいてもいい世界はない。

「ただし、今までもトレーニングはハードにするよ。やっている最中に失神するかもしれないけどいい? 怪我をさせない身体にするから」

「はい。そんなの耐えます。ホントに。ホントに」

 身を乗り出してコトさんの顔を見る。良かった本当に良かった。これで首の皮一枚繋がる。そんな気持ちだった。

「近い。近い。ホント、どうしてそんなにヒカルは可愛いの?」

 コトさんはもう一度私の頭を撫でてくれた。

 今度こそ。今度こそ負けない。

 


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