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一週間後、コトさんに呼ばれたのは、クラブの隣にあるビルの中にあるトレーニングジムだった。そこは完全会員制のジムだったがクラブの選手とその関係者ならそこを自由に使用していいとのことだった。
「じゃあまず、基本的な格闘技の構えからね」
スポーツウエアーに着替えたコトさんは、長い髪をポニーテールに結びノーメイクだったがカッコよくて綺麗だった。こんな女性に産まれたらどんな人生を歩めたのだろう。
「ねえ、聞いている?」
「あ、すみません。よろしくお願いします」
「だから、なぜ謝る? ヒカル、謝るのも癖?」
「いえ、すみません」
「もう、いいや。ほら、一緒に同じ構えをして」
それからコトさんは、パンチやキックの打ち方。避け方をワンツーマン丁寧に教えてくれた。
「ちょっと休憩しようか。はいこれ」
スポーツドリンクを渡され、ベンチで一緒に休憩をする。
「いやあ。試合を見ていたからわかっていたけど、思った以上に音痴ね」
「音痴?」
「運動音痴ってこと」
「ああ、はい。すみません」
「もう。まただね。謝るの好きだね。でも、どうしてヒカルはまたクラブの試合やろうと思ったの?」
「それは」
コトさんに可愛いと言われたことが忘れられない、知らない誰かが私のことを良かったと言ってくれたからとは言えなかった。
試合をしてもらいたいがための営業トークかもしれないのに、それをまともに受け取ってやっているなんて恥ずかしくて言えない。
「お金のためだよね」
それもあったから、はいととりあえず返事しておいた。
「お金のためとは言え、クラブの試合は過酷だよね。勧誘しておいて変だけどさ」
確かに過酷だ。今回も三日間食事が喉を通らず、痛みも今だって完全には完治していない。どうして自分がこんなことをするようになったのかしているのか不思議なくらいだ。思わずお腹を抑える。
「私も選手としてやっていたからわかるよ。私も最初は弱くてゲロたくさん吐いたし、辛かったから」
「コトさんも選手だったんですか?」
そう聞いておいて、今まで少しの時間だったが教えてもらっていて素人とはとても思えないほどの俊敏な動きで、もしかして経験者ではないのだろうかとは思っていた。
「うん。初戦なんてボコボコで吐いて失禁までしちゃったもん」
笑って話していたが、私は笑えなかった。きっと失禁するくらい酷い負け方をしたんだろうと想像できた。
「だからさ、私もお金のためにこのクラブで試合はじめたけど、それ以前に負けたことがメチャクチャ悔しくて、先輩選手に頼んでトレーニングしてもらってさ」
「そうだったんですか」
「だから、教えるの嫌いじゃないの。スカウトした子には強くなって欲しいし」
「ありがとうございます」
「あ、初めて謝らなくてお礼を言った」
コトさんが茶化すように言う。
「だから、次の試合絶対勝ってよね。でもなあ、ちょっとこのまま勝つのはいつになるかなあ。早く奢ってもらいたいんだけど」
「すみません」
と、コトさんの穏やかな顔が急に真顔になって、ちょっと立ってと言われる。ゆっくりと立ち上がったとたんにお腹にパンチをされる。
「よし、スッキリした」
結構な勢いで殴られて、不意打ちでその場にお腹を抑えて蹲ってしまう。今飲んだドリンクが少し口に戻ってくる感覚がある。
「今度すみません。と言ったらワンパンね。これも不意打ちを耐えるトレーニングの一環だから」
息が整わなかったが、はいと返事だけしておく。
「いやあ、思った以上にプニプニのお腹だったわ。いろんな選手のお腹を殴ってきたけど、一番、二番くらいに柔らかいお腹かも。加減はしたけど痛かったでしょ?」
痛かったですとは言えず、蹲ったままコトさんを見上げて苦笑いをする。
「さ、痛みが引いたらこんどはウエイトトレーニングしようね」
謝ることは悪いことなのかと少し理不尽な気もしたが、こんな私にこうしてトレーニングをして面倒を見てくれる。
これから選手としてどうなるかわからない。どれくらいクラブという場所で戦える選手になれるかわからない。
それでもそういう人に出会えたという事実があるだけで、今を頑張ろう。この人のために頑張ろうと奥の方から力が沸いてくれるのがわかった。
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