第4話 結ノ章

 両親は上機嫌だった。

 その日はパーティ。兄が有名私大に合格したのだ。といっても、AO入試なので学力試験は通過していないのだが。

 人の輪の中心に、顔を上気させた兄が誇らしげに立っている。

 大人たちはさも上品気にワインを酌み交わし、兄やその友人たちも今夜だけは多めに見られておこぼれに預かっている。彼らは皆、娘の家族と同じ宗教の信徒たちなのだ。娘だけが、教えに違和感を感じ、脱会してしまったのだ。

 ただでさえいじめられていた娘の立場は、脱会でさらに悪いものになっていた。

 同じ信仰で結ばれた彼らは、口々に兄を「日頃の信仰のお陰だ」とほめそやしていた。

 娘は部屋の隅で小さくなって、なるべく気配を消すようにしていた。

 しかし、兄はわざわざ部屋の中を見回して、娘を見つけると目の前にきて話し始めた。

「お前からはまだお祝いされていない気がするんだが?」

 そんなことはない。ちゃんとお祝いの言葉は言ったのに…。抗議しようとしたけれど、うまく声が出なかった。

「お、おめでとうございます…」

 蚊の鳴くような声しかでなかった。

「聞こえないな。もっと大きな声で祝ってくれよ!それともお前の合格した学校の方がお偉いってか?」

 娘の瞳に恐怖が浮かぶ。

「おめでとうございます!」

 必至に声を張り上げる。

「こいつ、いつもこんな感じなんだよ。ほんと感じ悪いよな。素直じゃないんだよ。脱会した奴は違うよな~。お高く留まりやがってさ~。ご自分は海外留学するんだとさ。どうせ大した大学じゃないんだぜ」と嫌味な口調で絡んでくる。

 親戚や友人たちは兄の後ろでひそひそ話し合っている。

 彼らの視線が痛い…。

 そこに声を聞きつけた母がやってきた。

「あら、どうしたの。お兄様にちゃんとお祝い言っていなかったの?」

 そんなことはないのに。お祝いを言ったとき、その場に母もいたのに。けれど母は娘をいびるチャンスは絶対逃さないのだ。

「ダメじゃないの、男の人は敬いなさいっていつも言われてるでしょ?きちんとお祝いを言いなさい。ほら、三つ指ついて」

 そして母は娘の脚をけとばして膝まづかせた。親戚や友人たちは、わずかにザワついたがが止めようとはしない。

 母は、娘の頭を押さえつけると、追い打ちをかける。

「ほらほら、お兄様に三つ指ついてお祝いを言いなさいって!」

 娘はノロノロと正座し、三つ指をつくと頭を下げた。

「合格おめでとうございます」

 心は凍てつき、身体も舌もロボットのように感じる。まるで自分ではない何かが動き、話しているかのようだ。

 だが、母はなおも容赦しなかった。

「なに、その態度。もっと! しっかり! やりなさい!」

 そして頭をぐいっと押さえつけ、娘の額を床に押し付けた。床に額が当たる鈍い音がする。

 娘の口から小さく悲鳴が漏れた。

「何その声は! まるで私が虐めてるみたいじゃないの! ちゃんとした敬い方を教えてあげてるのよ? お礼を言ってほしいくらいだわ。さあ。やり直しよ。今度こそちゃんとやるのよ」

 娘は三つ指をついて額を床に押し付けたまま、つばを飲みこんだ。

「お兄様、合格おめでとうございます」

 声はひび割れかすれていた。途端に頭に平手打ちが飛んでくる。

「何、その声は。もっときちんとおやりなさい」

「お兄様、合格…」

 言い終わらないうちに後頭部をしたたかに打ち据えられる。

「やり直し!」

 延々と罵倒されながらやり直しをさせられる。とうとう見かねた客が、ごめんなさい、そろそろおいとまします、と言い出した。母は途端に取り繕った笑顔になって客を引き止めたが、無駄だった。

 その後は、地獄だった。

 お客様に嫌な思いをさせたのはおまえが悪い。そもそも……様の御宣託を無視した上に化外けがいの地の三流大学にしか合格できないようなおまえが、お兄様のお祝いを台無しにするなんてどういうつもり? だいたい、精神科なんかに通って私達に恥をかかせたいんでしょう。どうせ仮病のくせに何を被害者ぶってるの?

 兄は母の尻馬に乗って罵倒し、父はいつのまにか気配を消してどこかへ消えてしまった。父だけは、実際には娘の合格した大学のほうが国際ランキングで上位だと知っていたはずなのだが、そういった事柄をフォローしたり、母と兄の暴虐を止めてくれる気配すらなかった。いつもどおり…。

 母は何かに憑かれたような目つきで娘を罵倒し、殴り続ける。

 しまいには兄までが、それじゃお先に~、と部屋から出ていってしまった。

 娘が解放されたのは数時間後のことだった。

「いいこと、朝までに反省文の書き取り千回、怠けるんじゃないわよ!」

 言い放った母が部屋を後にしたときには、既に丑三つ時もすぎていた。

 ノロノロと立ち上がった娘の目には光はなく、能面のように無表情な顔には、涙すら流れてはいなかった。


 娘が部屋に戻ると、鳩が肩に乗ってきた。

 娘は、鳩にうつろな目を向けると、かすかに微笑み、背中のつややかな羽毛を撫でた。

「私ね、ずっとずっと頑張ってきたのよ。でも…もう、だめ。疲れちゃった。…でも、私がこのまま死んでしまったらお母様が悪者になってしまう。だからだめ。頑張らなきゃ…」

 幽霊のように青ざめやつれた顔のまま、娘は机の引き出しを開けた。そこには色とりどりの薬のシートが入っている。

 それを見つめながら、娘は自分に言い聞かせるように小さくつぶやいた。

「休むだけよ。ちょっと眠りたいだけ…」

 娘は引き出しからシート何枚かを取り出すと、錠剤を次々に押し出し、片手に持ったグラスの淡い金色の液体とともに飲み干した。娘は鳩に半ば独り言の様に話しかけた。

「あは…悪い子よね。おくすり、こんな飲み方しちゃって…。でも辛くてもうだめなの。せめて夢も見ずに眠りたい。だから今だけ。今だけ眠れればそれでいいの…」

 そして娘は、ベッドに倒れ込み、泥のような眠りに落ちていった。


 誰かにそっと抱き起こされて、娘は深い眠りの底から引き出された。

 目を開くと、あの青年が微かな微笑みを浮かべて瞳を覗き込んでいた。

『迎えに来たよ』

 心地よい陽だまりのような声だった。

 胸の奥から暖かいものがこみ上げてくる。

 この冷え切った家では決して感じることがなかったもの。

 手が届かなかったもの。

 娘は静かに頷いた。

 青年は、娘を抱き起こすと、つ、と手を引いた。

 引かれるがままに足を踏み出すと、景色が流れ、気づくと闇の中にいた。

 ここはどこだろう。不思議と不安は感じなかった。片手に青年の手のぬくもりを感じる。

 と、闇の底にひとつ、ふたつ…と、火が灯った。火はたちまち燃え盛る篝火かがりびとなって天を焦がした。

 次々に篝火が灯され、炎の列柱となってあたりを照らす。篝火の隊列の間に、あの苔むした石畳の参道があった。

 二人の前には艶やかな朱に塗られた鳥居が立っている。

 手を引かれるがままに、その鳥居をくぐり、篝火と石燈籠の並ぶ参道へと足を踏み入れた。

 と、ふと気づくと、娘は白装束に包まれていた。

 まるで花嫁みたい。いえ、これは結婚衣装そのもの…?

 隣の青年を見上げると、謎めいた微笑みを浮かべた瞳が見返す。

 その中には、まさしく花嫁衣装をまとった娘の姿が映し出されていた。

 ああ。私はこの方に嫁ぐのか。夢が叶った…。神さまは聞き届けてくださったのだ。

 二人は正面へと向き直ると、歩み始めた。

 白い衣装が篝火に照らされてほのかに朱に染まる。その姿は儚い夢のように美しい。

 篝火の下の暗がりには、沢山の気配がした。それもまた、神々なのだと娘にはわかった。歓迎されているように感じた。

 参道をしずしずと進むと、あの新緑の祠についた。

 祠の前には、誰が用意したのか朱塗りの酒器が一揃い、篝火を受けて艷やかに佇んでいた。

 二人は、祠に向かって静かに深々と礼をした。

 白装束の神が酒坏に淡い金色の酒を注ぎ、一口、二口、三口、呑む。

 そして、娘に向き直ると、酒坏を捧げ持って手渡した。

 娘には、何故かわかっていた。

 これを飲んだら、現世には帰れなくなるのだ。

 神世で飲み食いした者は現世との縁を絶たれ、とこしえに神世にとどめ置かれる…。

 だが、娘はためらわず酒坏を受けると、口をつけた。現世に未練は微塵もなかった。

 芳しい香りが口と鼻いっぱいに広がる。身体が心底から清められていくようだ。

 白装束の神と同じ様に、三口呑むと、酒はちょうどなくなった。

 心の底から清々しく、生まれ変わったような心地。

 娘が目を上げると、白装束の神が微笑んで、つと、娘の顎に指を添え上向けると、優しく口づけた。

 周囲の神々の気配が祝福で満たされた。

 神の嫁を迎える儀式が終わったのだ。


 そのとき、あの寝室で、娘は静かに息を吸い、そして吐いた。

 それが最後の息だった。


 葬儀場の親族控室で、娘の両親と兄がお骨の焼き上がりを待っていた。

 喪主挨拶は父だった。言葉だけ聞けば愛と哀しみに満ちた挨拶だった。

 その挨拶を神妙に聞いていた母と兄が、控室では主役だった。

 二人は、執拗に娘の生前の粗を探してけなし続けた。そして合間合間に、彼らの信じる教祖の教えに反する大罪を犯した家族を持つ辛さを嘆きあった。父はといえば、その罵倒に対して同意を求められると、重々しく頷いて見せるのだった。

 ここには、死せる娘を心から悼むものは、一人もいないようだった。


 娘は新緑に包まれた祠の前で、金緑の木漏れ日を浴びながら神域を掃き清めていた。今は清楚な巫女装束を身にまとい、落ち着いた所作には気高さすら漂う。

 そこに一陣の風が吹き、あの白鳩が舞い降りたと見るや、白装束の青年に姿を変えた。

 青年は娘に微笑みかけると、すっと肩を抱き寄せ、柔らかく抱きしめた。

 芳しい香りと優しいぬくもりが娘を包み込む。娘の中で、何かが解けていった。

 気がつくと、娘は青年の胸で、静かに涙をこぼしていた。

 青年は、そんな娘の顎に指を添え上を向かせると、瞳に溜まった涙をすすりとった。すると娘の心が軽くなった。

 そして、青年は、そのまま娘に口づけた。

 とろけるような陶酔感に包まれた娘の心に、これまでの生涯で感じたことのなかった幸福感が静かに満ちてきた。


 夜が来た。

 娘は畳の部屋に座っていた。

 部屋の隅に行灯が置かれ、柔らかな灯りで部屋を照らしている。

 娘の前にはあの青年が謎めいた微笑を浮かべて座っている。

 二人の横には、朱塗りの盆と酒器が置かれていた。

 娘が銚子を取り上げて酒坏に注ぐと、淡い金色の芳しい酒が流れ出た。

 青年にむけて酒坏を捧げ持つと、青年がそれを受け取り、一口、含む。

 と、青年は盃を置いて、娘の手を引いた。

 青年の胸に倒れ込んだ娘の口に、青年の唇が重ねられ、舌で唇が割られる。と、口移しに液体が流れ込んできた。

 娘がその液体を飲み下すと、青年はそのまま娘の唇をむさぼり、抱きしめた。

 酒のせいだろうか? それとも?

 身体の芯から暖かくなり、深い喜びと幸福感が湧き上がってくる。

 気がつくと帯が解かれ、肌があらわになっていた。

 いつの間にか青年も帯を解き、半ば裸身となっている。

 肌と肌が触れ合う。熱くとろけそうな、青年の肌の絹のような感触。

 青年の手が肌の上を滑ると、それはそのまま快感の軌跡となった。

 青年の唇が、娘の唇を、喉を、胸乳を、味わってゆく。

 そのたびに、娘の身体に快感の火が灯る。

 思わず声が漏れ、恥じらいに唇を噛み締めた。

 と、それに気づいたのか、青年が再び唇を奪った。

 まるで、声を抑える必要などないとでも言うように。

 そして青年の身体が娘に重ねられ、娘は生まれて初めての快感に我を忘れて叫び声を上げ、身悶えた。

 溶けてしまう。ああ、溶けてしまう…

 いっそ、このまま溶けて彼とひとつになりたい…

 何度も、何度も、脳天まで突き抜けるような快感の波が身体を貫き、華奢な白い肢体が反り返った。

 そのまま意識が遠のき、娘は夢も見ない深い幸福な眠りへと落ちていった。


 鳥の声が聞こえた。

 深い心地よい眠りから静かに浮き上がる。

 目を開くと、目の前に青年の寝顔があった。

 身体の芯が暖かさで満たされ、愛おしさと幸福感がこみ上げてくる。

 溢れ出る喜びのままに、手を伸ばして頬にふれると、青年が目を開いた。

 青年を見つめる娘の瞳には生き生きとした光があった。

 青年は頬に添えられた娘の手をとると手のひらに口づけ、優しく娘を抱き寄せると唇を重ねた。

 たったそれだけのことで、蕩けるような快感が頭の芯をしびれさせる。

 長いくちづけが終わると、娘は青年の胸に頭を預けた。青年の手が、娘の頭を抱き、そっと撫でてくれる。

 これからはずっと二人一緒なのだ。

 終わることのない神世で、ずっと、ずっと。

 娘の目に涙が溢れた。それは安堵と幸福の涙だった。

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