第2話 承ノ章

 少女は、部屋の中に閉じこもっていた。

 部屋着の袖から覗く白い腕には細い傷跡が何本も浮き上がっている。同級生なんて、みんな嫌い。お父様もお母様も兄様も、みんなみんな大嫌い。思い出したくないのに、つらい記憶ばかりが脳裏に蘇る。

 男子は粗野で粗暴。女子は陰険。クラスにあるのは醜く歪んだ笑いと陰口ばかり。

 あの時、あんなことがなければ…。


 ある日、授業中に気分が悪くなり、保健室に行った。

 そこで、保健の先生に腕の傷を見咎みとがめられて、自分の家のことを話してしまったのだ。家族まるごと入っている宗教が嫌いであること。親にも双子の兄にも、うとまれて居場所がないこと。母に殴られていたこと。今でも母と兄から暴言を投げつけられ続けていること…。つらさが膨れ上がって溢れ出しそうになっていた娘には、誰か聞いてくれる人が必要だったのだ。保健の先生は真面目に聞いてくれたけれど、家族に介入はしてくれなかった。最悪なのはその後だった。

 同じ部屋に、先に来て休んでいた子が、盗み聞きをした家庭の話や自傷のことをクラス中に広めてしまったのだ。家は裕福で成績は良いけれど人付き合いが不器用な彼女は、あっという間にクラスから浮いてしまった。

 事あるごとに当てこすりを言われたり、突き飛ばされたり、物を隠されたり…。自分が密かに妬まれていたことを、その日から彼女は思い知らされ続けた。毎日、毎日。

 教師に相談しても、味方になってはくれなかった。それどころか、部活を辞めさせられてしまった。「勝手に物事進める」「邪魔」「みんな迷惑してる」…いじめる側の言い分を鵜呑みにし、「部長にも辞めさせる許可を取った」と、一方的に追い出され、修学旅行の参加すら拒否された。彼女をいじめさせておけば、部活もクラスもまとまっている。彼女は生贄にされたのだ。

 そしてとうとう、ある朝、学校に行こうとした時、突然の吐き気とめまいに襲われて家を出ることができなくなってしまった。

 それ以来、彼女は学校に行っていない。行かなければと思うのだけれど、どうしても行けないのだ。

 そんな彼女を、家族はとことんさげすみ、罵倒した。でも、それは今に始まったことではなかったのだ。


 布団の中にうずくまってまどろんでも、過去が少女を苦しめた。

 成績がほんのわずか下がっただけで、殴られた。眠ることも許されず長時間勉強をさせられた。学校でのいじめを訴えても、お前が悪いと罵られ、挙げ句、修学旅行への参加もとりなして貰えなかった。いじめっ子と比較され、何故お前はあの子みたいじゃないのだと責められて、先生の言う通り修学旅行へ行く価値など無いと決めつけられてしまったのだ。

 小さな頃は良かった。父にも母にも可愛がられた。

 けれど、彼女が成長し若い頃の母以上の美しさを開花させるに連れて、父が彼女を偏愛し始めた。それがすべてのつまづきの始まりだったのかもしれない。父が彼女を溺愛するほど、母の態度は冷たくなり、当てつけるかのように兄を溺愛し、ついには彼女への暴力暴言が日常になってしまった。

 彼女は耐えかねて、母の所業を父に訴えた。ところが、父はそれを境に、彼女を避けるようになってしまったのだ。それどころか、母に同調して彼女をいびるようになってしまった。父は、娘の味方をするよりは、母の機嫌を取ることを選んだのだ。ここでもまた、彼女は生贄に差し出されてしまったのだった。

 父を味方に付けた母は勝ち誇ったように言った。

「お父様から可愛がられてるからって調子に乗るんじゃないわよ、小娘が」

 そして、今までにもまして彼女をいびるようになっていった。受験勉強を見てあげる、という名目で彼女に長時間張り付き、あれこれと指示してはダメ出しを繰り返し、萎縮した彼女が失敗するとことさらに激しくなじるのだ。それに兄が便乗した。何かにつけて妹を嘲り、おとしめた。

 極端なプレッシャーは確実に少女の心身を蝕んでいった。

 一方、父は母を恐れてか家に帰る日が減ってゆき、彼女は荒ぶる暗黒の太母グレートマザーと化した母と、彼女を小馬鹿にし嫌がらせばかりする小鬼のような兄と共に家に取り残された。父が帰らない日どこにいるのか、母は察していたのだろうか? 少女には、薄っすらと感じ取れる雰囲気があった。父は家の外に「居場所」を作ったのだ。それを彼女は憎悪した。

 そして、ある日、それは起こった。

 母親が、自殺未遂をしたのだ。理由は、娘の成績が落ちたから。

「お前が出来損ないだから、私、つらいのよ!何もかもあんたのせいよ!」とヒステリックに叫び、娘の眼の前でカミソリを腕に当てて切ったのだ。腕の傷は浅く、母はすぐに回復した。しかし、少女の心には拭い去れない恐怖が刻み込まれた。

「お前が出来損ないだから」「お前が成績が悪いから」「お前がお父様をたぶらかすから」「お前が」「お前が」「お前が」…「何もかもお前の責任よ!」

 そうなじられ続け、自殺未遂を見せつけられ、「自分に母の命を守る責任がある」そう彼女は思い込まされてしまったのだ。

 子どもが親の人生に責任を…?

 そんな重荷に耐えられる子どもはいない。今では、夢の中だけが彼女の安寧あんねいの地なのだった。


 翌朝。

 彼女は、昨日の神社にいた。そこが昨日のあの神社だということは、わかっていたのだけれど、様子が違う。まだ社殿は新しく、森の緑は輝くような新緑だった。爽やかな五月の風が吹いている。

 木立を見上げ、風に髪をなでられていると、身体の芯から解放されていくような、安堵感と開放感に包まれていく。

 と、誰かに呼ばれたような気がした。振り向くと、純白の神官服を着た若い男性が立っていた。顔は白狐面びゃっこめんを付けていてわからないが、年の頃は二十四、五だろうか。所作も瑞々しく、気高い雰囲気に溢れている。

 青年は静かに彼女に歩み寄り…。

 …と、彼女の耳に、心地よい歌声が聞こえた。

 何を言っているのかはわからない。包み込むようなハミングするような優しい声。

 しだいに眠りの淵から浮き上がると、歌声はくぐもった優しい鳩の声に変わっていった。

(夢だったのか…)

 ベッドから起き上がり、外を見る。窓辺に一羽の白鳩がいた。

 鳩はコツコツとくちばしで窓枠をつついている。その様子は、まるで部屋に入りたがっているように見えた。

 少女は引き寄せられるように窓際に歩み寄った。

 素足にフローリングの床が冷たい。今は晩秋。新緑などどこにもない。

「…寒いの?部屋に入りたいのかしら」

 そう言う少女にむかって鳩はお辞儀をし、ぽっぽる~と歌い始めた。

 窓を開くと、白鳩はさも当然のことの様に、部屋に入ってきて、再び彼女にお辞儀をしながら鳴いた。

 白く柔らかな羽毛が、朝の光を受けて輝いている。

 少女がおそるおそる手を差し伸べると、鳩は恐れる様子もなくその手に飛び乗り、腕の上を歩いて肩へと登ってきた。

 小さな珊瑚色の脚が暖かい。彼女の頬に柔らかな羽毛が触れ、体温が伝わってきた。鳩は耳元で柔らかな声で鳴いた。それは、まるで愛を囁いているかのようだった。


 午後、少女は、再び神社に来ていた。

 今朝みた不思議な夢の神社をもう一度、確かめてみたかったのだ。

 肩には白鳩が乗っている。家からついてきてしまったのだが、飛び去る気配もない。

 晴れ上がった晩秋の抜けるような青空を背景に、傾いた橙色の陽に照らされそびえ立つ銀杏が、空に向かって燃え上がる松明のように見える。木枯らしがどうっと吹くと、色づいた葉が明滅する火の粉のようにキラキラと輝き舞い上がる。

 乾いた音を立てる枯れ葉を踏みしめて鳥居をくぐり、手水で手を清めて社に向かう。そこには誰のいる気配もなく、さびれ果てた様子が伺えた。

 少女は賽銭箱に五円玉を投げ込むと、鈴を鳴らし、柏手かしわでを打った。

 脳裏に今朝の夢が蘇る。あの、安堵に満ちた空間。あそこが神さまの世界…神世なのだろうか?

(またあそこに行きたいな…。あの人が神さまなのだろうか。もしそうなら…神隠しにあってもいいです)

 胸の中に、夢の中と同じ、まるで誰かに抱きしめてもらったような不思議な安堵感が満ちてきた。

 それは、彼女だけのものだった。誰にも奪えない、彼女だけの…。


 静寂に沈む家の中、部屋の窓から月光が射し込み、床に窓枠の影が十字を描く。娘は、その光の中でうずくまり両手で耳を押さえていた。部屋には、白い鳩もいたけれど、いまの彼女の瞳には誰の姿も映らない。

 その耳には、彼女を罵倒する母の声が木霊し、他のどんな音も遮ってしまって届かない。

  『お前は……さまの言うこと聞かないから』

  『出来損ない』『ろくでなし』『私たちを不幸にしたいの?』

  『お前のせいで私達がどれほど…』

 脳裏に浮かぶ母の顔は、さながら鬼女のよう。その鬼女が手を振り上げ、彼女を打ち据える。

 娘の口からか細い悲鳴が漏れ、目に見えない何かから身体を守ろうとするかのように両手をあげた。

 だが弱々しい抵抗はあえなく崩れ、彼女は床にうずくまり、その唇からすすり泣きと共に懇願が吐き出される。

「ご…ごめん……ごめんなさい…いい子にしますから……もう殴らないで…」

 深夜の寝室に押し殺したすすり泣きの音が密やかに響く。

 背中を丸め、震えていた娘はやがて、ゆっくりと身を起こした。

 その目に光はなく、朦朧としたまま、化粧台に向かうと、引き出しから何か取り出し、腕に押し当てた。

 冴え渡る月光に、きらり、と光る刃。娘は、わずかに躊躇ためらうこともせず、光る刃を手前に引いた。

 月光に青白く染まる肌に、みるみる黒く血が溢れ、細い糸となって床に滴った。

 そしてゆっくりと娘の目に光が戻ってきた。固くカミソリを握りしめていた手指が緩み、床に滑り落ちる。

 硬い音を立てて、カミソリが床板の上を跳ね、転がった。

 いつもより深く切りすぎたのだろうか…血が…止まらない…。

  (でも、このまま消えてしまっても良いかもね…)

 娘の脳裏に、誰かの声がささやく。そう、これは私の心の声…。

 そしてふつっと意識が途切れた。

 床にくずおれた娘の身体に月光が十字の影を落としていた。


 娘は闇の中にいた。

 何も見えない。けれど、どこか恐ろしい雰囲気が漂っている。

 ここはどこ…? そうか、私はリスカしてそのまま倒れたんだ。もしかして私は死んだのかしら…?

 その時、闇の底から声が聞こえてきた。


『……さまは、お前になんて教えたの?男の人を敬いなさいと言われたでしょう?どうしてきちんとお父様のお出迎えが出来ないの!』

 そして叩く音。幼い少女のすすり泣く声。


 ああ、あれは子どもの頃の自分だ…。宗教の作法を守れないからって殴られた…。

 また何か聞こえる。また母の声だ…。


『なんでパンを食べないの?聖別されているのよ。なのに不味いだなんて罰当たりな子ね!あんたのお陰で私達が功徳を積めないのよ。ああ、お前のおかげでまた不幸になるわ…』そして大げさなため息。


 過去の母の罵倒が、次々に闇の底から湧き出してきて心を追い詰める。

 呼吸すらできなくなってあえごうとするが、口の中にまで真っ黒い闇が入り込んでくる。恐怖で叫ぼうとしても声は押しつぶされ、窒息しそうになって…。


 その時、すっ…と身体が軽くなった。


 月明かりが照らす娘の寝室。

 床には腕を血に染めた娘が倒れ伏している。

 その傷の上に、あの鳩が舞い降りた。その柔らかな胸の羽毛で紅い傷を覆い、翼で護るように腕を掻きいだく。

 意識がないまま、辛そうだった娘の表情が緩み、和らいだ。

 柔らかな声で鳩が歌い始めた。それはあたかも、娘に愛を歌っているかのようだった。


 闇に閉ざされていた娘の視野がみるみる晴れてゆく。

 気づくと眼の前に人影がいた。白い神主服の襟の血のように鮮やかな紅が目を引いた。つややかな黒髪に澄んだ黒い瞳が装束の白、襟の紅と美しい対比を描く。

 起き上がろうとすると、その青年はかがみ込んで手を差し出し、優しく助け起こしてくれた。その時、触れなんばかりに近づいたその顔は、思わず息を呑むほど端正で神々しくすらあった。

 向き合って立つ娘と青年の髪を、爽やかな風がなぶる。

 はっと見上げると、いつのまにか空を覆う新緑の天蓋。

 見回すと、見覚えのあるあの祠の前だった。

 眼の前の青年に視線を戻すと、青年はすっと娘の手を持ち上げ、身をかがめると手の甲にそっと口づけた。

 青年の動きを追う視線は、自ずとずたずたに切り裂き続けて傷だらけの腕に落ちる。

 その腕を、見せたくなかった。ひるむ心が、無意識に腕を引かせた。

 だが、力を込められているわけでもないのに、青年の手から自分の手を引き抜くことが出来なかった。

 青年は、娘の目を見て薄く微笑むと、腕の傷をそっと撫でた。

 優しく、この上もなく優しく、慈しむように。すると、傷はみるみるふさがり消えてゆく。

 これは夢。夢なんだもの、なんだって起きるわ…。そう思ったとき、娘は眠りの淵から浮き上がった。

 目覚めると、自分のベッドの中に寝ていた。跳ね起きて腕を見てみると、傷が全て消えていた。

 そんな馬鹿な…ありえないわ…。そうだ、昨夜、あそこで腕を切ったはず…。

 しかし、彼女が倒れたはずの場所には、なんの痕跡も残っていなかった。

 そう、血の一滴すら。

 娘の前に、鳩が舞い降りた。つぶらで無垢な瞳が娘の顔を見上げる。

 その鳩の胸に視線が釘付けになる。その羽毛は、血のように紅く染まっていたのだ。

 そう、あの青年の襟のように。

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